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関羽  作者: 須野亜希菜
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荊州統治、益州侵攻

 劉備軍は益州へ進軍した。法正が張松という者と一緒に挨拶に来て、張魯撃退のための援軍をあらためて依頼しに来たのだ。劉璋からの正式な依頼の使者としてだ。

 張魯と法正はただ益州へと案内するだけではなく、あるものを持参していた。

「劉備様、これを差し上げますので、これで我らの気持ちを汲んでくださりませ。」

 劉備と孔明は張松の差し出したものを見て目を見張った。地図だ。益州の地図。地形、道路、主要都市、その軍の配備、益州の全てがここにある。

「張松殿、法正殿、これは...!」

 劉備は言葉に詰まった。関羽も言葉が出ない。張飛も目を丸くしている。さすがの孔明も唾を飲み込んだようだ。これを差し出すということはあきらかに劉璋に対する反逆だ。以前法正が来た時は、劉備は援軍ということを提案し、法正もそれに納得したように返答していた。そして今は益州の地図を差し出して迎えに来ている。援軍ではなく益州を獲れ、と言っているのだ。二人の覚悟が伝わってくる。

「殿、これはもう覚悟を決めねばなりませんぞ。」

 龐統が言った。龐統は荊州を統治し始めた時に仕官してきた新たな軍師だった。その実力は世間からも認められており、野にあったとき孔明は伏龍と呼ばれ、龐統は鳳雛、と呼び名され、称されていた。伏龍はその名の通り龍が眠っているようなもので一度雲に乗ればたちまち力を発揮すると言われ、鳳雛もその名の通り鳳の雛で、大成するのに時間がかかる、と言われていた。伏龍は劉備という雲に乗り先んじて世に出たわけだが、鳳の雛もついに大成し、奇しくも伏龍と同じ陣営になった。劉備陣営は人材も豊富になってきて力は十分についたと言える。その龐統が、益州侵略の覚悟を決めろと言っている。

「長兄、我らも同意でござる」関羽も続いた。孔明は劉備をただ見つめていた。だがその目は益州攻めをするべきだ、と言っていた。

「張松殿、法正殿、あいわかった。これよりどのように益州に入るかを話し合いたい。孔明と龐統に加え、お二人もご参加いただけましょうや?」

 劉備も覚悟を決めた。

「もちろんです!」「否がありましょうや!」

 張松と法正は同時に応えた。そこから三日、劉備、孔明、龐統に加え、法正と張松の五人で話し合った。大筋が決まった。関羽にはもともと荊州を任せる予定であったため、今回の益州攻めには名前が上がらなかった。加えて張飛、趙雲も荊州に残す。孔明もそうであった。これまでの劉備軍の中枢を担ってきた面子をあえて外したのだ。益州入りは、劉備は当然のことではあるが、軍師は龐統、将軍としては黄忠、魏延が抜擢された。この二人は荊州南部を平定した際に加わった新たな人材で、二人とも猛将であった。猛将ではあるものの、関羽、張飛、趙雲ほどの名声はないため、劉璋軍の油断を誘える、ということによる人選であった。益州には予定通り劉備軍だけで攻略する。戦力も充実した。ついに秋が来た。天下三分に向け、劉備軍が進み始めた。


 関羽はまた後方支援であった。劉備軍の進撃に対し、荊州から補給物資を送らなければならない。進軍で重要なのは、なんといっても兵糧である。現地で調達、ということが基本ではある。そして今回は内実侵攻ではあるものの、今は張魯討伐の支援軍である。当面兵糧は劉璋軍が用意してくれる。だが一たび侵攻の矛先を変えたら現地調達に加え、荊州からの支援が必要になる。そのための準備を怠るわけにはいかない。幸い孔明もいるためそこまで苦労はしていなかった。荊州は十分に統治されており、南北半分に分かれたとはいえ平和を取り戻している。

 孫権が立腹しているという。益州攻めを合同でと持ちかけたものの、言葉巧みに断られ、しかし単独による今回の侵攻である。だがこれは劉璋に請われて張魯を撃退するための軍である、と言い切った。また魯粛がなだめて孫権も落ち着いたらしい。魯粛は天下二分を構想していたものの、劉備と出会い、また周瑜の急逝により、西は劉備に任せて孔明の天下三分でよい、と路線を変えていた。そのため今回も劉備寄りの立場にあった。しかしそれ以上に、孫権は合肥・濡須口で曹操軍と交戦中であり、手を回すことなどできない状況であった。そういう時期を見越しての今回の益州進軍でもある。孫権とは魯粛を通じてなんとか同盟関係を続けている状況であった。

 荊州はその間内政を充実させていた。来るべき兵糧支援などのため、民が不満にならぬだけのぎりぎりでの税を課し、なるべく多くの兵糧を蓄えた。関羽がこまめに州内を見回り、民に安心を与えた。

 軍事では、調練は欠かすことはない。北の対曹操警備は手厚くし、また荊州内外の豪族とも頻繁に連絡を取り合った。

「兄貴、オレと趙雲はじきに益州攻めに加わる。そっちの作戦について何も言わんが、荊州はいいのか?」

 ある時張飛が心配そうに聞いてきた。

「荊州はわしが預かる。何か問題があるか?」

「兄貴が預かるのはわかってる。だが他に支える人材がいない。そこを心配するのさ。」

 益州攻めの仕上げになれば、張飛も趙雲も援軍に向かう予定だ。荊州を守る中でましな将は、息子の関平くらいである。荊州が手薄になることを張飛は心配しているのである。

「荊州は我らにとって重要な土地だ。だが益州はさらに重要であろう。攻め取るとなれば戦力は充実しておかねばならん。それはその間荊州は最低限の戦力で回さねばならん、ということだ。なに、守りとなればなんとでもなろう。」

 関羽はそう言いながら少し不安があった。守るだけならなんとか、それは益州側にも言えるのではないか。劉璋軍は強くなくとも守りとなれば落としづらい。今自分が言ったことと同じことではないのか。劉備軍は苦戦するのではないか。いろいろ考えてしまうが、それは自分がその戦に参加しないからだ。だから余計なことをあれこれ考えてしまう。

「兄貴は守りよりも攻めの人だろう。似合わないよ。そういう時はどこかで躓くかもしれないだろ。」

 張飛は本気で心配しているようだ。

「益州を落とせば龐統殿が荊州に戻る。龐統殿は孔明殿にも劣らぬ軍師だ。人材不足も補えよう。」

「実践経験の豊富な武将が兄貴以外にもう一人は少なくとも必要だぜ。龐統殿は頼もしいが武人ではない。いざ戦となった時に兵を率いる人物がもう一人はいると思うぜ。」

「益州攻めの間は守りになるが、益州を取れば次は攻勢に転ずる。その時わしの本領発揮よ。それまでは準備期間として荊州を治めてみせるさ。」

 益州から漢中、長安を突き、荊州は北上して樊城を落として洛陽に迫る、これが劉備軍の思い描く戦略だった。関羽はその時が来るのを待ち侘びていた。人材不足、そうは言っても半端な者がいても困る。張飛や趙雲のような武将なら大歓迎だが、他の者となると関羽には物足りなく感じ、つい強くあたってしまう。人付き合いがうまくないのだな、と自分でも思う。

「まあとにかく、兄貴も一人でやろうと思わないことだ。うまく周りを利用していかないと。」

 張飛は自分が残れればいいのだが、と呟きながら去って行った。

「人の心配より、お前も益州攻めに加わった時にしくじるなよ」

 関羽が張飛の背中に向かって言うと、張飛は軽く片手を上げて歩いて行った。


 益州へ向かった劉備軍は、涪に至ったところで劉璋からの出迎えを受けた。法正と龐統らの参謀は、ここで劉璋を暗殺するように進言した。しかし劉備は益州に入ったばかりで人心を得るのが先決であるとこれを却下した。劉備は劉璋から兵や戦車や武器・鎧などを貸り受け、劉備軍は総勢3万となった。そして劉璋からの要請に応じて張魯討伐に赴き、葭萌関に駐屯した。しかしここで劉備は目立った軍事行動は起こさず、人心収攬などに務め、蜀征服の足掛かりを築くことに努めた。涪に一番近いところを守っている白水関の守将である楊懐と高沛は、こうした劉備の動きを怪しみ、そして不安に思っていた。そんな時、曹操と孫権が揚州をめぐって戦闘状態となり、濡須口で対峙した。孫権は劉備に援軍を求め、また関羽は青泥で楽進と対陣していた。楽進は曹操軍の中でも猛将であり、関羽もすぐに撃退はできないだろうと慎重に対応していた。ここは追い返す、あるいは膠着させて諦めて引き上げさせる、そういった形が望ましかった。益州を取ってしまっていれば話は違ってくるが、今は方々で戦争するわけにいかなかった。

 法正と龐統は、この孫権からの救援要請を利用して東に引き上げると見せかけて、益州侵攻を開始するということを進言した。劉備はこれを承諾し、張魯は城に引き篭もっているので心配はない、自分は孫権救援に戻る、と白水関の二人に伝え、劉璋にも伝わった。揚壊と高沛はそれを聞いて内心喜び、劉備の見送りに来た。そしてそこであっさりと首を打たれ、劉備軍は白水関を落とし、葭萌関を守将に任せて劉璋討伐のため葭萌関を出た。しかし、成都にいた張松が、劉備が引き返すという情報を信じてしまい、なぜここまで来て引き返すのか、予定通り成都へ進撃すべきだ、という趣旨の手紙を送ろうとした。手紙は劉備には届かず、劉璋の配下に発見され、劉璋の知るところとなってしまった。張松は処刑され、劉備軍は劉璋軍と戦闘に入った。

「張松が…」

 法正は言葉を詰まらせた。気脈の通じた相手であった。策だとわかるだろうと思っていたが、離れたところにいるとやはり雰囲気などわからなかったのかもしれない。

 だが、ここからの劉備軍は冷苞・劉璝・鄧賢らを破り、涪城を占拠し、綿竹の総指揮官である李厳や費観や呉懿ら劉璋軍の武将が劉備に投降するなど、破竹の勢いで進んだ。なかでも黄忠は常に先駆けて敵の陣地を攻め落とすなど、その勇猛さは三軍の筆頭だった。さらに荊州から孔明、張飛、趙雲が加勢に駆けつけ、東側、南側から益州へ侵攻し、張飛は厳顔という豪族を降伏させる活躍を見せた。

 しかし劉璋軍の張任と劉循は雒城に立て籠もって徹底抗戦し、北から進行していた劉備たちは陥落させるのに1年以上もかかってしまった。やはり籠城となるとなかなか落としづらい。そしてなんと、この戦いの中で龐統が流れ矢にあたって戦死してしまった。劉備軍の中でも動揺が広がったが、知らせを受けた関羽の方が動揺が大きかった。龐統は益州攻略後、荊州に戻り関羽を補佐することになっていた。関羽はもともと軍事に集中したく思っており、内政においては誰かに任せたかった。今は孔明がいる。先々は龐統が戻って来て安心して任せられると思っていた。いかにも切れ者という孔明よりも、どこかだらしなく、警戒心を解いて接してしまうようなところのあった龐統との方がウマが合うと思っていた。軍師としても孔明に勝るとも劣らない龐統がいれば、余計なことを気にせず安心して北上戦に専念できたはずだ。関羽は龐統のために黙祷した。

 目を開けた時関羽はこれが戦なのだと、気持ちをすぐに切り替え、益州攻めのことに傾けた。

 張飛や趙雲の活躍は当然だと思った。向かうところ敵なしの状態で連戦連勝と報告が来る。劉備と孔明・張飛・趙雲はついに合流し、劉璋の籠る成都へ肉薄した。成都の兵糧は十分であったが意気は低い。そしてその時、張魯の元に身を寄せていた馬超が劉備の元に馳せ参じてきた。馬超は涼州軍を率い曹操と戦い、曹操を討ち取るかもしれない、という戦を繰り広げた猛者である。馬超の名は成都まで届いており、その馬超が劉備陣営についたと聞いた劉璋は完全に戦意を失い、降伏を決めた。ついに劉備は益州を制圧した。


 成都制圧の報はすぐに関羽の元に届いた。これで覇業が始まる、そう思った。次はわしの番だ、関羽は気合が入った。しかし最終的に劉璋が降伏を決めたきっかけは最後に劉備陣営に参加して来た馬超の存在だという。馬超の名は聞いているがどれほどの実力なのか、実際に見てみないとわからない。だが気になる存在のため、関羽は劉備への戦勝祝いの手紙に馬超とはどれぼどの実力者なのか、という趣旨のことを付け加えていた。返信は孔明からのものであった。いよいよ関羽には北上作戦の準備をしてもらう必要があるので今後のことを話し合うために荊州に近々向かう、とのことだった。そして馬超については、「張飛殿といい勝負です、髭殿が気にするほどではありません」と書き記してあった。関羽は、さすがは孔明殿、よくわかっていらっしゃる、と満足であった。おそらく相当な実力者であることは推察できる。張飛の力量は付き合いの一番長い自分がよく理解している。野戦の将軍として右に出る者はいない。その張飛といい勝負ということは相当な実力者だ。その上で自分を立ててくれたことが素直に嬉しかった。

 羨ましいのだ。身を立てる場がある張飛たちが。自分は後方支援で終わるのか。そうではない。今はそういう役割だ。だが最終的には自分が最前線に出る。関羽は葛藤していた。張飛たちの活躍は心底嬉しい。だが自分はそこにいない。それはいい。だが自分の活躍の場が来るのか?荊州を統治するのは本来の自分の役割ではない。そこから攻めに転じた時、自分が劉備軍の先鋒として錐の先端のようでいたい。そういう思いがある。

 益州を取り、漢中に進出して長安に迫る。それと連動して関羽が北上して樊城を落とし、二方面から洛陽に迫る。これが思い描く戦略だ。その一歩が今回の益州制圧だ。始まったのだ。焦らなくていい。羨ましがらずとも最高の舞台が待っている。張飛たちとは洛陽で落ち合い、そこで勝利の美酒を飲む。そのために備えての今は力を蓄える時間なのだ。関羽は思い直し、あらためて荊州の統治に目を向けることにした。あとわずかだ。


 関羽の統治は盤石だった。広く徳政をしいて、荊州の民は満足していた。それは、多く取った税を民に返す、という前代未聞の対応にも表れていた。孫権は荊州に付け入る隙がない、と感じた。

 劉備には、益州制圧の祝いの手紙を送った。しかし、益州を取ったからには荊州を返してくれるようにも書き添えていた。劉備からは、益州は取ったばかりで安定していない。張魯も漢中にいるため油断はできない。漢中から涼州、雍州を落としたら返還する、という旨の返事が返ってきた。返す気などない、と言っているようなものだ。孫権は業を煮やし、呂蒙らに命じ、長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃させた。


 関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣した。憤慨した。孫権という男は何なのだ。曹操の脅威がなくなったらこのような小競り合いのようなことに気を取られるのか。天下を治める器はない。関羽は孫権のことをやはり嫌いだと思った。孫権の首を取ってやりたいが、孫権自ら出向いてはこない。勇気もない。親と兄が作り上げたものをのうのうと受け継いだだけの小童が、そんな思いにかられた。 

 劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけた。荊州の危機である。劉備は自ら乗り出してきた。孫権とは根本から違う。自分は一番信頼されているという自負はある。だからこういう場合は自分に任されるべきだとも思う。わざわざ劉備が出向くことはない。だが劉備は来た。こういうところで軍の士気も変わる。孫権にはそういうことがわからない。関羽は自分と近い感情で劉備が動いたと思った。苦労してない若造が、そんな思いだ。そういう思いが軍全体に伝わり、劉備軍の強さになってきたのだ。

 関羽はもちろん劉備も怒っている。孫権との同盟が大前提とはいえ、そういうこととは別の感情で動く。これは孔明には理解できないかもしれない。だが孔明は劉備が来ることを止めなかった。止められなかったのかもしれない。どちらにしろ、舐めるな、という気持ちが先に立ったのだろう。関羽は頭では分かっていても、ここは引けん、そういう思いでいる。

 だがそれは劉・孫同盟の崩壊の危機である。基本路線はあくまでも揚州とは同盟関係を続け、東側の憂いをなくすと同時に牽制してもらう、ということである。それが今崩れようとしている。

 それでも関羽は致し方なし、と思っていた。荊州は渡せない。荊州は大元だ。ここを基盤としての益州であった。荊州からとのニ方面作戦が必要なのだ。その荊州を取ろうというのであれば、相手が孫権であっても戦うしかない。孔明がいても劉備が駆けつけたということはそういう意味なのだと思っている。

「関羽、久々に一緒に暴れようか」

 劉備は猛々しかった。益州攻略の直後ということもあり、自分よりはるかに戦場の匂いがする。自分は少しふ抜けているかもしれない。そう思わされた。

「何の兄上、ここは拙者が孫権軍を薙ぎ倒しましょう。兄上は高みの見物をしてくだされい。」

 関羽は荊州を任された自負心もあり、本気で劉備に戦はさせられないと思っていた。ここは自分の戦場だ。劉備の加勢はありがたいが、戦は自分がやる。そう思っていた。いや、劉備の前でいい格好を見せたいだけかもしれない。

 関羽には人脈がある。荊州でただ兵の調練をしていただけではない。各地の豪族と誼を結んでいた。そういう地道な活動の甲斐もあり、今回も算段があった。

 長沙、揚州、廬陵の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こした。関羽と通じている者たちだ。荊州は微妙な立ち位置にある。孫権と事を構えるのは得策ではないが、今回のようなことがあれば黙ってはいない。だが大々的な戦をするのは避けたい。曹操が理するだけだし、劉孫どちらの陣営も疲弊するだけだ。そのため関羽は各地に劉備陣営に付く豪族を増やしていた。普段はおとなしいがこういう時に立ち上がってもらうためだった。孫権陣営は動揺していた。関羽が直接治めていない地にも関わらず、しっかりと勢力を張っていると見せつけられた気になったであろう。

 しかし、この両陣営のいざこざを狙ってきたのか、曹操自ら大軍の指揮を執って漢中の張魯を攻撃してきた。

 今度は劉備陣営が動揺した。まだ曹操と構えるには準備が足りていない。張魯征伐ということで直接攻撃されたわけではないが、張魯が曹操に制されると成都は目と鼻の先だ。喉元に匕首を突きつけられた格好になる。

「こんな時に曹操め...!」

 劉備はほぞを噛んだ。こんな時だからこそなのだろうと関羽は思った。今後はこのように相手の留守を狙ったり、小競り合いを起こしている隙を狙う動きが多くなるのだろう。それはなにも曹操だけではなく、劉備も孫権も同じだろう。孫権との同盟も必須ではあるものの、いつ寝首をかかれるか分かったものではない。関羽はもっと純粋に戦場で暴れたかった。駆け引きごとは誰かに任せたかった。

 孫権は謀反によって頭を悩ませ、劉備は成都に帰りたい、これらが両陣営に和平の機運をもたらた。

 魯粛から、関羽と一対一で話し合いたい、と申し入れがあった。劉備は会見は関羽に任せて急ぎ成都へ帰還した。参加者は全員、護身用の刀を一本だけ持って臨んだ。

 魯粛は会見に赴く前に、配下の者に制止された。しかし魯粛は「この件は直接会い、腹を割って話し合う必要がある。また、関羽が劉備の意を離れ、暴走することはないだろう。」と配下を退けた。

 関羽はこの話を伝え聞いていた。魯粛は相変わらず豪胆であり、気持ちの良い男だった。

 両者の会見が始まった。

「魯粛殿、お久しゅうござる。」

「関羽殿もご健勝で何より。」

 まず関羽が口火を切った。劉備の赤壁での努力をじっくり語った。続いて「土地を取り上げようとするのは、理不尽ではないか」と問うた。

 事前の協定では、劉備はあくまで仮の領主。時機が来たら孫権に返す必要がある。しかし関羽は、協定自体を理不尽とした。四郡を実際に平定したのは劉備自身の戦力だけで、という事実も強調した。

 魯粛は当然この言葉に反駁した。

「よいですかな関羽殿。揚州は、劉備様の苦境を救うべくずっと手を差し伸べてきた。荊州を貸したのもその一つ。そして劉備様は既に益州を手中にし、地盤を得られました。事前の取り決めでも益州を得たなら荊州は返す、そう決めておりました。ですから約束通り荊州は返すべきです。至極当然のことを申しております。私物化は義士のすることではない。」

 関羽は魯粛の言った“義士“という言葉が胸に刺さった。義は関羽の信条とするところだ。関羽はこれに反駁しなかった。いや、できなかった。

 魯粛は、「義と照らしたとき、何が正しいのか」ということを説き、関羽はこれに一定の合意をした。軍事衝突の回避はしなければならない。魯粛は理屈で関羽を言い負かした、ということではなく、義をもって説得したのだ。孫権が劉備に援助したのは、勿論戦略上の打算あってのことだが、現実に恩義の関係が生じている。魯粛はそこを強調した。魯粛自身、親劉備派として絶えず奔走してきた。関羽もそのことは重々承知していた。そして魯粛の言うことは全てまっとうであり、義と照らしても正しい。

 また関羽はあくまでも劉備の配下である。独断で強硬姿勢は取れなかった。劉備が荊州を関羽に任せたとはいえ、あくまでも劉備の意向を重要視し、当面の衝突は避けるべく事を収めることが責務だった。義に従ったということなら面子も立つ。

 関羽はうつむいたり、目を閉じたまま上を向いたりしかできなかった。

 結局、湘水を境界線として、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領とすることでこの会談は終了した。

 ほぼ魯粛が主導し、関羽はそれに従う、という図式であった。やはり政治的駆け引きは関羽の得意とするところではない。

 この会談ののち、関羽は所領の範囲が変わったこともあり治世に努め、関羽の領する荊州は威信が行き届き、外部から見ても隙がない盤石な領地となった。内政に勤めた関羽もさることながら、魯粛も劉孫の関係維持に奔走し、そのため余計な軋轢も避けられた。荊州が栄えた要因の一つは魯粛の存在であろう。

 だが魯粛との会談から二年が経った頃、魯粛が逝去した。後任の呂蒙は魯粛よりも周瑜に近い。魯粛が亡くなったことが、関羽どころか劉孫の関係に再び暗雲をもたらすことになるかもしれない。関羽は徳政をしいているため、揚州としては簡単には切り崩せない。だが火種が燻っていることには違いない。そこを気にかけている者はいない。孔明でさえも。荊州は穏やかに見えて、実は不穏に包まれていた。

 

「馬鹿も休み休み言え!」

 関羽は使者に怒鳴りつけていた。

 孫権から関羽に対し、関羽の娘に孫権の子との婚姻の申し入れがきたのだ。孫権にしてみれば同盟関係の強化の意味での申し出である。関羽には理解できなかった。

「よいですか、使者殿。この関羽は劉玄徳の家臣に過ぎん。孫権殿のご子息なればたかが一配下の娘をどうしてわざわざ娶ろうとなさるのか。我が主君劉玄徳の娘ならばわかる話だ。わしの娘と娶せたところで両陣営にとって何の益もありますまい」

 孫権と劉備は同格、関羽としては一応孫権に対して劉備と同格のものとして尊敬の念をもって接している。

 しかし使者も引き下がらない。

「関羽様がただの一配下ではありますまい。配下ではあるかもしれませんが一州を治める、いわば諸侯の一人でもあられる。我が主人孫権とて一諸侯です。関羽様とは同格とも言えます。どうしてこれが何の益にもならぬと言えましょうや」

 孫権と同格?関羽はますますわからなくなった。この使者は頭がおかしいのか。それは関羽が劉備と同格と言われているようなものだ。序列を理解できない使者とこれ以上話しても意味はない、と関羽は話を終わらせることにした。

「“かもしれない”ではなく配下なのだ。孫権殿は我が主君と同格。配下に過ぎぬわしと同格のわけがない。それもわからぬようでは話にならぬ。これ以上は時間の無駄、疾く立ち去られるがよい!」

 言い返させぬ、という気迫を込めて言い放った。使者は気圧されてほうほうの体で帰って行った。

 悪気があるわけではない。むしろ孫権がどうして格下の娘と自分の息子を一緒にさせたいのか、理解できなかった。孫権を立てたつもりだ。

 だが結果的にこの判断は孫権を怒らせた。面子を潰された格好になった。関羽は孫権を立てたつもりだが、孫権は侮られた、と感じた。このようなすれ違いが、荊州の火種を大きくしていった。だがまだ表立っていない。

 

 益州で大事業が始まった。劉備が漢中へ攻め入ったのだ。漢中は曹操が張魯を降し、曹操領となっていた。劉備にしてみれば最も目障りで危険な状況であった。漢中の統治が定まらない間隙をぬっての侵攻である。劉備にとって正念場であった。漢中は漢の始祖である劉邦が王を称して中華を統一した第一歩を踏んだ土地である。漢中を押さえなければ長安や洛陽を突く、などという作戦は立てられないのだ。関羽にとっても二面作戦を始めるにも、漢中がないと攻めに転じれない。

「父上、駆けつけたい気持ちはわかりますがここは信じるしかありませんぞ。」

 関平が部屋に入ってきて言った。さすがに関平はよくみていると思う。今にも飛び出していきたい気持ちで、それが言動に出ているのだろうと自分でも思う。

「わかっている。心配するな。わしは荊州を預かっている。漢中は重要な地ではあるがわしは離れるわけにはいかん。」

「漢中を落とせばいよいよ父上の出番です。それまで私は兵を鍛えておきます。孔明殿からの使者で漢中の状況が把握できますが、我らも独自に人をやって齟齬がないか調べるようにいたします。」

 関平が頼もしくなっていた。こういう気配りもできるなら北上の際一隊を任せてもいいと思った。

 漢中さえ獲れば、頼むぞ張飛、趙雲、と心で叫んだ。


 劉備軍は苦戦を強いられながらもよく戦い、曹操軍を撃退してついに漢中を手中に納めた。劉備軍は法正が軍師となり、黄忠がよく戦った。黄忠は曹操軍生え抜きの夏侯淵を斬り倒すという大戦果を挙げた。法正の戦略も見事にはまった。夏侯淵は曹操の親類でもあり、実力実績、名声全てにおいて重鎮と言える存在である。漢中守備の総大将でもあった。総大将を失ったため、曹操軍は漢中から引き上げた。

 劉備はこれを機に漢中王を名乗り、益州を巴蜀と呼ぶようになった。漢の祖、劉邦が漢中王となり天下を納めた。それに倣う仕置きである。劉備陣営は湧きに湧き立った。勢いは曹操、孫権を圧倒するほどであった。そしていよいよ関羽は秋が来た、と感じていた。劉備が漢中から、関羽は荊州から、いよいよ曹操を攻める時だ。関羽は武者震いがした。荊州は盤石、益州も漢中を制し憂いはない。勢いは最高潮だ。

 関羽は劉備から斧鉞を賜った。これは軍事、政治は任せた、という意味だ。荊州王、とみることもできる。もちろん関羽にそんな気は微塵もない。だが周りはそう見る向きもあるだろうが、関羽はそこに想念は及ばない。ただ関羽は権利はうまく利用するつもりであった。荊州には劉備寄りの豪族が多い。関羽も足繁く通い、関係を作ってきた。関羽が号令すればそれら豪族の多くが立ち上がるだろう。

「樊城の曹仁を攻める!秋は満ちた!劉備軍はこれより北上し、曹操のいる洛陽を落とす!」

 関羽は荊州軍に号令をかけた。全軍進発である。関羽の一世一代の戦が始まろうとしていた。

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