赤壁の戦い
魯粛がやって来た。江東では周瑜と並んで重用され、しかも主戦派だ。孔明が天下を三分して統治する戦略を劉備に話したが、この魯粛はそれより以前に天下二分を孫権に話したという。大戦略家だ。
そんな魯粛が劉備軍を見舞いに来た。劉備軍の様子、そして曹操がどう動くのか、そのあたりの確認に来たようだ。
「孫権は我らと組みたいのかな?」
劉備がポツリと言った。
「軍の数は増えました。曹操との兵力差は江東軍といえども大きい。我らは曹操軍との戦闘経験もあります。孫権としては見過ごしにはしたくないでしょう。」
孔明は静かに答えた。江東にとっても劉備軍約3万の兵力は魅力的なはずだと孔明は思っている。そのために魯粛ほどの幹部が自らわざわざ様子を見にきたのだろうと思っていた。そしてそれは、関羽を別働隊として動かした時点で想定していたことであった。関羽には、大枠として江東と組み曹操を撃退したのち荊州を取る、という戦略を伝えていた。
「殿、魯粛様をお連れいたしました。」
その関羽がちょうど伝えに来た。
「お通ししろ。」
劉備が簡潔に伝えた。
関羽が先導して、魯粛が入ってきた。
「お初にお目にかかります。」
魯粛が恭しく拱手しながら言った。
「魯粛殿、わざわざの陣中見舞い、痛み入ります。」
劉備が陣中見舞いと答えた。確かに劉備は具足を付けたまま面会に応じていた。危地は脱したとはいえ、曹操がいつ攻めて来るかわからないのは確かだった。また魯粛に平時の面会ではない、ということを暗に伝えている、とも言える。
「ではそれがしはこれで。」
関羽は言って退出しようとした。
「いやよい、お主も同席してくれ。」
劉備が意外にも同席を促した。関羽はちらりと孔明を見た。いいのか?という気持ちから自然と孔明の方に視線がいった。
「お願いします。私も同席するよう言われておりますので。魯粛殿、諸葛亮孔明と申します。我ら同席させていただきまするが、お気を悪くしないでいただけますか。」
「あなたが諸葛亮殿でしたか。お初にお目にかかります。気を悪くなど、むしろ同席いただけるようお願いしたいくらいでした。関羽殿もご一緒いただけるとは、願ったり叶ったりです。」
魯粛はうれしそうに答えた。
「単刀直入に申しますが、曹操軍は我ら江東へ攻め入って参りますかな?いや、攻め入って来るように劉備軍は動かれたのではないですか?」
魯粛が余計なことも言わずいきなり踏み込んできた。
劉備のむっとした雰囲気を察してか、孔明がすかさず答えた。
「江東と協力して曹操にあたりたい、とは思っていました。我々の戦力ではとても対抗できませんので。ただ江東に攻め込むように動いた、というのはいささか言い過ぎです。我らは逃げるしかなかった。逃げる方向としては東しかなかったということです。」
「ふむ、確かにその通りですな。言い方に失礼がありました、申し訳ない。だが江陵を本気で取りに行けばもっと違う展開もあったのではありませんか?10万もの民を連れての行軍では江陵まででさえ無理とは最初から分かりきった話ですぞ。」
魯粛はなかなか気持ちのいい人物だ、と関羽は思った。回りくどくなく真っ直ぐなところはわかりやすくていい。そして非を認めてちゃんと謝罪するところも好感が持てる。関羽は魯粛が好きになり始めていた。
「言われることは理解できます。そもそも民草を武装させたところで正規の軍に敵うはずはありません。だが籠城であれば話は別です。それに江陵は物資に事欠かない。そこに民草ごと立て籠れば抗し得る。そうは考えましたが、民草の行軍速度を見てすぐにそれは無理と悟りました。そこで江陵に向かうと思わせて東へ転進して逃げ切る策に変えました。江東を巻き込む可能性が出て来るとは思いました。しかしそれもやむを得ない、と考えました。逃げ切ってからの話だ、と。」
孔明の話も正直であった、一つを除いて。劉備軍は最初から江東を巻き込み、共に曹操にあたる、これが始めからの狙いであった。魯粛の指摘通りなのである。関羽は孔明の言い分は仕方ないと思うと同時に、こういう駆け引きは性に合わない、と感じた。こういう駆け引きは自分の仕事ではないのになぜ同席させたのか、少し不満に感じた。
「ううむ。難しいところですな。遅かれ早かれ江東は曹操と戦わねばならぬ運命であった。だが劉備軍に巻き込まれて時期が早まった、と考える者が多い。」
「魯粛殿は江東は戦うべきだと考えておられるか?」
劉備が初めて会話に入ってきた。
「私はもともと抗戦派です。しかし江東の豪族の多くが和平派なのです。江東はまだまだ多くの豪族の集まりによって成り立っています。そのため大きな戦略は合議で決めていく方針なのです。」
「なるほど。しかし合議と言っても孫権殿はじめ、有力者である魯粛殿などが主導して抗戦の方向に持っていくことも可能ではないのかな?」
劉備は魯粛は話せる、と判断したように関羽は思った。
「殿、江東はそう簡単ではないのです。孫権殿の父君の孫堅殿ほどの勢いがあればまだしも、その孫堅殿が亡くなられ、孫策殿の代で袁術の庇護を受けた。そこから這い上がってきたものの、その時に江東の豪族たちに大きな後ろ盾になってもらったという経緯があります。豪族たちにしてみれば『お前を立ててやっているのは俺たちだ』という気持ちが強いのです。それを蔑ろにできぬのが今の孫一族なのですよ。」
孔明が説明した。孫堅とは同じ時代に生き黄巾の乱でしのぎを削った仲の自分であるはずが、そうなのか、と関羽は思い知らされ、あらためて孔明の博識に舌を巻いた。
「ううむ、ことはそう簡単ではない、ということか。魯粛殿、江東の事情も知らず勝手を言って失礼いたした。」
劉備は素直に謝った。魯粛はにかっと笑い返した。
「いえいえ、劉備殿、畏れ多い。江東は戦うべきです。戦わずして江東の独立性は保てない。和平派は江東のことより自身のことを考えているのでしょう。私の考えは抗戦で変わりません。我が主孫権もそうだと信じております。そして、江東の行く末を決めるに不可欠な人物、彼も徹底した抗戦派です。江東は曹操と戦います。我らと共闘いたしませんか?」
意外であった。江東との共闘が狙いであったが対等の同盟にしたいと劉備は思っていた。まさか魯粛の方から共闘を言うとは思っていなかった。対等の同盟のためにどう話を持っていくか、これは孔明に任せるしかないかな、と思っていたのである。
「畏れながら、魯粛殿は孫権殿に天下二分を説いたのではありませんか?江東から益州の地を侵し、北と南で二分するという。我らと組めばその計略に支障が出るのではありませんか?」
孔明が際どいことを聞いた。関羽は冷や汗をかくのを感じた。
「確かにその通りですな。劉備様が我らの西に位置すれば益州の地に行くには邪魔になります。だが同盟を組むのであれば共に西に征けばよろしい。まあそれは先の話で今は曹操の脅威を取り除かねば、とても天下二分などと言っておられんでしょう。」
「つまりまずは目の前の脅威に共に立ち向かい、先のことはまた協議、ということですかな?」
劉備が簡潔にまとめて聞いた。
「おっしゃる通りです。ですが江東が抗戦で一致しなければなりません。和平派の数は多い。我ら抗戦派の中に孫権殿がいるからといって、ごり押し出来る組織ではないのです。」
魯粛は本当に困った顔をして言った。この会談で初めて見せた顔だった。孔明のように冷静に淡々とさばくより、関羽は魯粛のような人間味ある応対をする人物の方がずっと好感が持てた。孔明が嫌いとかではない。関羽の人付き合いの感覚であった。
「私が江東へ行きましょう。殿、よろしいですか?」
孔明が劉備に確認したが、否と言わせない言い方に聞こえた。
「もとよりそのつもりだ。頼むぞ。」
劉備も当たり前だという言い方で返した。この辺りは事前に確認していたように関羽には聞こえた。
「孔明殿が来てくれるのであれば事態も好転するでしょう。こちらからもお願いしたいことであった、ありがたい。」
「ではすぐに支度して移動しましょう。」
「今すぐですか?」
魯粛が驚いた顔で聞いた。
「早い方がいいでしょう。」
「孔明、魯粛殿も来られたばかりだ。今日はゆっくり休んでもらい明日出立にするのがよい。」
「失礼いたしました、確かにその通りです。魯粛殿、気も効かず大変ご無礼をいたしました。」
「あ、いや。お気遣いなく、疲れてなどおりませんし。ただ、私は構わないのですがとても動きが軽いので驚いただけです。劉備軍の中心の方が偵諜のような動き方だな、と思いまして。はっはは」
「はっはは!それはそうだ!孔明、魯粛殿がわざわざ出向いてくれて酒宴の一つも開かずに追い返すようなことはできまい。魯粛殿、今宵はささやかながら一席設けますゆえ、ゆるりとくつろぎください。当方からは孔明を名代として江東に同道いたします。明日以降で調整くださり孔明を伴って江東へお戻りいただければと思います。」
劉備がうまくまとめてこの場は収まった。
「孔明、魯粛殿を部屋へご案内し少し休んでもらいなさい。酒宴の準備が出来次第お呼びしよう。」
「畏まりました。」
孔明がこちらへ、と言って魯粛と出て行った。
「それではそれがしは酒宴の準備を確認して魯粛殿を呼びに行きましょう。」
二人だけになり、関羽が出て行こうとしたところに劉備が声をかけた。
「待て関羽、なぜ自分が同席したのか?と思っているだろう。」
劉備は見抜いていた。当然だろうな、と思った。
「ああいう駆け引きの場はそれがしの役ではありますまい。」
率直な感想を言った。
「はっはは、そう感じていると思ったわい。」
劉備が笑って言った。
「ではなぜ?」
「先のことを考えてだ。孔明とも話した結果だ。」
劉備が笑いを収めて言った。
「我らの戦略は益州だ。だがそれには足がかりとして荊州が必要だ。荊州から益州へ向かうにしても荊州を留守にするわけにいくまい。では誰が荊州を預かる?」
「それがしが荊州に残るのですか?」
関羽は当たり前のように益州入りの先鋒だと思っていた。このような大事、自分こそふさわしいと思っていたのだ。だから不満であった。
「荊州での人脈、この逃亡戦における後方確保、これらの実績を鑑みてお前がよいと孔明とも意見が一致した。お前は先頭で暴れたいだろうが、そういうことばかりの役回りではなくなっているのだ。」
関羽は黙るしかなかった。ただ戦場で暴れるだけではなく、統治者となる自覚を持てと言われたのだ。そこまで言われて駄々をこねる歳でもない。
「だがまあ、それも曹操を追い返してからの話よ。先を見すえて考えておくのだ。」
「承知いたしました、よく考えます。が、まずは酒宴の準備を確認して魯粛殿を呼んでまいります。もう準備はできておるでしょう。兄上も先に着座しておいてくだされい。」
「おう、そうだな。堅い話はここまでにして酒宴を楽しもう。」
関羽はにっこりと笑い出て行った。劉備のこういう切り替えが関羽は好きだった。気持ちが楽になる。魯粛と心を開いて話せるといい、と気持ちを切り替えられた。
江東へは船で行くので半日もかからない。下りなので余計に時間も短縮される。孔明は翌朝魯粛とともに経った。関羽は自分もついて行くと言ったが、一人で十分です、と孔明に断られた。
魯粛は信用できるが、そういう人物ばかりでもない。関羽は不安になったが、劉備も賛同したのでそれ以上は言わなかった。孔明であれば、うまく同盟を成立させ、何事もなかったように帰ってくる、と信じることにした。
関羽は張飛や趙雲とともに兵の調練に励むことにした。3万近い軍に膨れていたため、それまでの調練とやり方を変える必要があったし、今回付いて来た者たちはみな気骨のある者たちだがまともな調練も受けてこなかったようなのでその点から鍛え直す必要があったからだ。実際曹操軍との戦を、江東と組む前提で動き、かつその江東との交渉を孔明に任せた以上関羽たちには兵を精強にしておくことしかすることがない。いつ開戦となるかわからないので時間を惜しむ必要があった。
調練を続けて10日ほども過ぎたとき、張飛と趙雲が関羽のところへ来て、もどかしげに言った。
「兄貴!孔明殿から連絡はないのか?戦はいつなんだ!?」
張飛が単刀直入に言う。自分も聞きたい事だと思ったが、そう返すわけにもいかない。
「孔明殿は江東との同盟のために行かれたのだ。行ったきり返事もない。待つしかあるまい。」
「待ちくたびれてるぜ!どんな状況か連絡くらいあるのではないのか?」
「まだ粛々と対応中ということだろう。連絡があるにしてもうまくいったという結果報告以外は、思う通りにいかないときにくるものだ。それがないという事は今のところは問題なく対処しているという事だろう。」
関羽も本当はやきもきし始めていたが、自分と同じ気持ちを張飛からまっすぐな言葉で聞くと冷静になれるところがある。
「けっ!兄貴はいつも泰然自若ぶりやがる!」
「いや実際待つしかあるまい、張飛。関羽殿にあたるな」
「趙雲らしい優等生発言だな!お前も本当は暴れたいのに抑えてるんだろう!?」
張飛にしろ趙雲にしろ、戦場で駆け巡ってなんぼの武将だ。自分もそうありたいと思いながら、そうできなくなってきている。そして二人を見ているとこういう豪傑を統率しろ、という事が劉備や孔明が自分に期待している事なんだろうと、よくわかる。わかるが、二人の気持ちもそれ以上によくわかってしまう。自分はやはり野戦の将として暴れたい、というのが根底にあるのだと、強く感じる。
「暴れる機会は必ずある。そのときに思う通りに動けん兵を率いるのか?今は兵を鍛えるしかあるまい。孔明殿が戻られて、すぐに兵を動かせと言われたときにモタモタした軍を率いるわけにいくまい。」
自分に言い聞かせるように関羽は言った。自分も本当は二人と同じ気持ちなのだ。
「関羽殿、調練は欠かしておりません。ですが調練は戦のためにやっておるのです。その戦がいつ頃なのか、それがわからねば単調な調練になってしまう、それを我らは危惧しておるのですよ。」
趙雲が言ったように、何のための調練か、ということを明確に出さなければならないかもしれない。
「孔明殿が戻られれば全て分かろう。だが戻られたときには即指令が届くであろう。そのときに自分の手足のように軍を動かせられねば"何をしていたのですか?“と、馬鹿にされるぞ!余計な事を考えず、あらゆる局面に対処できる軍にしておけ!」
張飛と趙雲は、不満気ながら引き返していった。関羽も気にしてはいるが今は軍を精強にしておき、孔明が戻るや否やすぐに戦ができるようにしておかねばならない。今はそれだけで十分だった。
数日が経ち、調練中に劉備がふらりとやって来た。「どうだ軍の方は?」
「長兄、順調に鍛えられております。張飛と趙雲も余計なことを考えず集中しております。」
「そうか、安心した。明日、孔明が戻るそうだ」
さらりと言った。
「そうなのですか!?同盟はうまくいったのですか?」
関羽はすぐに同盟のことを確認した。
「詳細はまだわからんが、予定通り、とのことだ。孔明が言うのだから心配はあるまい。」
「ではいよいよ戦ですね。」
「うむ。江東軍が戦うと決めたのなら、おそらく水戦になる。曹操も江陵を取ってからは水戦の準備に明け暮れていると言うし。だが最後は陸戦だ。攻め立てられて押されるにしても、我らが曹操を押し出すにしてもだ。その時のための準備をしておかねばならん。」
「わかっております。水戦は江東軍に任せて我らは陸戦のための調練をしてきておりますゆえ。」
劉備は満足そうに頷いた。
「明日孔明が戻れば酒宴を開き、そこで今後のことを確認しよう。」
そう言って劉備は張飛たちが調練をしている方向へ歩き出した。兵の様子を確認したいのだろう。どのみち今のことを伝えるために向かうつもりだったので、関羽は劉備に続いて歩き出した。
「諸葛軍師が戻られました。」
劉備、関羽、張飛、趙雲が対曹操戦について話していた時、知らせが入った。今日戻ると聞いていたので、この日の調練は休みにしていた。
「俺が迎えに行きます。」
張飛が言って出て行った。昼過ぎということもあり、いつ孔明が戻っても始められるように酒宴の準備はできている。
張飛がすぐに戻ってきた。後ろに孔明が続いて入ってくる。
「おお!孔明。首尾は上々だな?」
「はい。江東軍と劉備軍は対等の同盟を結び、曹操軍にあたることになりました。」
対等の同盟。劉備軍がこだわったところであった。
「さすが孔明殿!」
関羽は思わず声に出して言った。
「いえ、関羽殿。私の力ではなく、江東にも人物がいたということです。魯粛殿もそうですが、もう一人大変な人物がおられましたよ。」
「魯粛殿が言っておられた江東の行末に不可欠、というもう一人の者か?」
劉備が聞いた。魯粛がこの前来た時確かにそう言っていたことを関羽も覚えていた。
「そうです。周瑜公瑾。魯粛殿と双璧をなす、と言える人物です。」
孔明が名前をあかしたその人物は、関羽も名前は聞いた事がある。江東水軍を作り上げた男だ。かつて江夏太守で孫堅を討ち取った黄祖が荊州水軍の最前で戦っていたが、江東にとっては仇とも言えるこの黄祖を打ち破り雪辱をはらしたのが、他ならぬ周瑜であった。
「周瑜殿がはっきりと言ったことは一つ。水戦は我らに任せよ、ということです。」
孔明は淡々と話した。対等の同盟のはずが、水戦については協力不要とはっきり言われたのだ。
「同盟と言いながら俺たちは指を加えて見てろだと!?孔明殿はそれを承諾したのか!?」
張飛が鼻息を荒くして言った。
「しました。というよりも、願ったり叶ったりではないですか。我らは水戦の準備はしておりません。不慣れな土俵で無理に戦わなくとも、そこは任せて我らは我らの土俵で遅れを取らぬようにすればよいだけです。」
「そういうことだ、張飛。江東水軍のお手並み拝見だ。揚州との取り決めや、今後のことは飲みながら話そうではないか。」
劉備がそう言って張飛をなだめ、みんなを席に付かせた。孔明の話では、抗戦派は魯粛他数人で、張昭という文官の長を中心にほとんどが和平派だったそうだ。曹操軍30万、その数を聞けば文官ならば戦うという選択はしないだろう。魯粛は徹底抗戦をうたうものの、賛同する者がおらず、だが孫権も講和になびかず議論が膠着している時に周瑜が現れてあっという間に抗戦に決まったらしい。
孫権以外は講和しても曹操の元で官職につき、今と変わらぬ仕事で、なおかつ給金も上がる可能性もあり、良いことしかない。しかし孫権はそうはいかない。食い扶持をあてがわれ、辺境の地へ流されて飼い殺しにされるだけだろう、と。講和派は上が変わるだけで自分らには関係ない、そう思っているだけだ、このように話し、最後に揚州の力を老いぼれに見せるべきだと述べたらしい。
「それは孫権には響くでしょうが、それで揚州が一致団結で抗戦に傾くのでしょうか?」
珍しく趙雲が真っ先に疑問を口にした。こういう時は張飛がまくし立てながら言うのが今までだったので、皆冷静になり、その通りだという雰囲気になった。
孔明がにこっと笑いながら答えた。
「その通りですね。ただそのあとに周瑜殿はこう言われたのです。『曹操軍は数は多いがその多くが荊州兵の併呑で膨らんでいます。数は多いが質は悪い。揚州を攻めるなら水戦になるので荊州兵が中心になる。だが荊州で骨のある兵は黄祖の兵だけでそれも今はいない。また曹操軍の主たる兵は南の土地に慣れていない。優勢になる条件は我らにばかりあるのです。長江は我らの庭ではありませんか。余所者が兵力だけで何とかできるところではないのです。恐るるに足らずです。』とね。それで孫権殿が肚を決め、開戦を述べられ講和派が口をつぐんだというわけです。孫権殿はそのまま立ち上がり、剣を抜いて机を切り付けました。『揚州は曹操には降らぬ。徹底抗戦だ。以後講和を口にする者はこの机と同じ目に合うと思え!』そう言って抗戦を決定しました。講和派から反対の意見は出ませんでした。」
周瑜と孫権が示し合わせたような話だと関羽は思った。だが揚州の気質から必要なことなのだろうとも思った。
周瑜という男は胆力と知謀を備えた人物だと皆が思った。武闘派のように見えるが、その実深く考え、それが講和派をも抑えるだけの説得力がある。孔明が言うように大変な人物だ。
「なるほど。それだけ気骨のある武者ならば、我らの水戦への介入は断りましょうな。」
関羽は素直に言った。
「足手まとい、ということか?」
劉備が答える。それに皆んなが頷いた。
「ですから水戦は周瑜殿に任せるのです。曹操との戦は水戦だけで決着はつきません。陸戦は必要になります。ただ、船ですな。周瑜殿は曹操軍を叩き、追い返すことを考えておりますが、再戦を考えさせないほどに追い返さないといけない。再戦を諦めさせるには長江から攻め下る船を持たせぬのが良い。」
孔明が言ったが、関羽は真意を測りかねていた。
「わかりますが、水軍を率いてくる曹操軍の数は膨大です。その兵を乗せられる船団はそう簡単には...」
関羽が疑問を口にした。皆が思っていることだ。
「焼き払います、此度の戦で。一戦にして船がなくなれば、頭のいい曹操のことです、簡単に攻めてこぬでしょう。」
確かに、荊州を無傷で手に入れたことで今回の揚州攻めを考えていると思える。兵の損耗はなく、労せず船が手に入り、揚州を一飲みにできる、そう考えてもおかしくはない。勢いにも狩られているであろう。そこで兵や船を一戦で無くせば曹操も冷静に慎重になるかもしれない。
「水戦は揚州に任せます。我らは曹操軍の船を焼き払う準備と、陸戦になった時に曹操軍を追い立てる、これが肝になる戦略と心得ます。」
孔明は深く頭を下げた。
「火攻めか。」
劉備が言った。その通りだった。孔明は周瑜と内々で火攻めがよい、という話までしたという。ただし、この時期の風向きは西から東へ吹いている。火攻めをかければ火の勢いはそのまま自軍に向いてくる。曹操はそこも頭に入っているだろうから、どうやって火攻めをかけるか、それが問題だった。
「揚州軍がうまく火攻めを仕掛けられりゃあそれでいいが、ダメな時は俺たちが曹操軍の川上から火をかけられないかな?」
張飛が難しいことを言った。曹操軍は川上から長江を下って攻めてくる。受ける側はどうしても川下側になるし、軍の数も違う。少数精鋭で動いても見つからずに大軍をかわして動けるのか。
「張飛殿、それが難しいと誰もが思うものですが、策があるのですか?」
孔明が聞いた。孔明には策があるように見える。
「策というほどのもんではない。俺たちは水戦には加わらないだろ?だったら最初から陸路を行く。布陣しているのはバレるだろうがそこから少数の部隊をひっそり北側に回らせて火を掛けられんかな?」
「簡単に言うな、張飛。偵諜の数も相当だろう。見つからんように動けるかな?」
関羽は否定したが、それができれば揚州軍に頼らなくても曹操軍を混乱させられる、とどうにかできないかという気持ちであった。
「揚州軍も、我らも、火を掛けるようにしましょう。私も張飛殿と同じ考えで思案していました。揚州軍を囮にして我らが陸路から火を掛ける。できれば川によく燃えるものも流せればなおいいのですが。」
「目立たずに回り込めるか、とういことだな。」
「そこです関羽殿。まあ何か策を考えてみます。」
孔明はからりとした顔で答えた。すでにいくつか考えがあるのだろう。
「ところで孫権という男は武闘派だと思っていたが、そうでもないのかな?」
劉備が不思議そうに唐突に言った。孫権の父、孫堅とは黄巾の乱のときから同世代として活躍していた。孫堅は強かった。その印象がそのまま孫権にあるのかもしれない。
「孫権殿は武将のところもあり、分治の人という面があります。兄孫策殿が完全な闘将だったため、穏やかに見えるかもしれません。そして孫策殿が広げた領地を落ち着かせる、という役割でもあったので、どうしても武闘派にみられないのでしょう。講和派はそこを見ているのです。むしろそこしか見ていない。」
孫権の統治がうまくいっていると言える。平和が続けばその状況に満足する。かつて混迷にあった揚州は孫堅が現れ、孫策が勢いをつけ、孫権が落ち着かせた、それにより良い時代になったと思う平和ぼけの状況に入ったのかもしれない。そこに最大の脅威が迫ったとき、対抗する気がなくなるのかもしれない。荊州がそうであった。孔明の話を聞き、関羽はそう感じた。それは老いと同じではないか?自分もぬるま湯に浸かって劉備を天下人に!という思いからずっと遠ざかっていたのではないか、話を聞きながらそう思った。
どちらにせよ揚州が戦を選んだのなら狙い通りのところに落ち着いたわけで、あとは曹操を追い返すために自分たちが存分の働きをするだけだ。張飛と趙雲も話を聞いているうちに目つきが変わった。今回はこの二人以上の働きをしてみせよう、関羽はそっと誓った。
「そうか。周瑜という者はまだかなり若いと聞いていたが、肝も太そうだし、揚州の抗戦派の急先鋒といったところか。孔明にしてもそうだが若い者が台頭してきているな。関羽、我らも負けておられんな?」
劉備に振られ、関羽の反発心にも多少火がついた。
「今度の戦では若造が及びもしない働きをしましょうぞ!」
「おっ!関の兄貴が久々に熱くなってるな。ここのところ大人しかったから少し心配だったが、さすがは兄貴だ!余計な心配だったみたいだ。」
「生意気言うな、張飛。長坂では暴れられなんだから、わしもうずうずしておるのよ。」
「頼もしい限りですね。今後は周瑜殿と連携しながら対曹操戦の策を練ることになりましょう。それがしは留守にすることも多くなりますが、各々方にはいつ戦になってもよいように準備しておいてください。」
孔明が言い、三人が頷く。劉備軍は今戦になっても動ける、劉備は思い、杯に入っていた酒を一息に煽った。
周瑜から黄蓋が裏切る、という話を密かに聞かされた。黄蓋は孫堅の代から支えてきた猛将だ。抗戦派だと思っていたが、講和派の話にもよく耳を傾けていたらしい。
「いよいよ戦になります。これはそのきっかけなのです。」
孔明が皆の前で言った。どういうことだ?関羽は疑問に思ったが、すぐに気がついた。偽装だ。
「黄蓋の裏切りは信用されるのかな?」
劉備がポツリと言った。
「さすが殿、駆け引きのことをよくご存知ですね。これは半々だと思います。信用はしないでしょう。ですが信用したいという気持ちが強くなる。」
孔明は期待を高めるようなことは言わない。半々であれば作戦としては微妙なところだ。
「信用はしないが受け入れる、ということですか?」
関羽は素直に聞いた。重要なのは黄蓋の裏切りを曹操がどう対処するかである。信用されなくとも受け入れるなら展開は大いに変わってくる。
「曹操は思いがけずほぼ無傷で荊州水軍を手に入れました。荊州が一戦も交えず降伏したためですが、それが曹操の判断を鈍らせ、黄蓋の裏切りに過度の期待を寄せてしまうのではないか。大きな戦をせずに降すことができれば、と荊州の結果と比較するのではないかと推測します。」
「つまり曹操は厭戦気分になってきている?」
劉備が確認する。大きな戦をせずに終わらせたい、と考えるに至るのは、曹操軍の中に疫病が流行っている、ということが大きく関与している。これは劉備だけではなく、江東軍・劉備軍の中で共通情報として入ってきている。
「そうです。ですから黄蓋の裏切りをきっかけに一気に降して終わらせたいのです。だからそこに期待を寄せたい。」
「曹操でも30万もの大軍になると判断が鈍るのかな?」
劉備は意外にも残念そうな顔で言った。これまで勝てなかった相手ではあるが、どこかで尊敬する気持ちもあるのだろう。関羽はわかる気がした。相容れないが、見事な生き様というところで尊敬の念がある。黄巾の乱以来頭角を表した群雄の中で残っているのは曹操と劉備だけなのだ。孫権は父、兄の地盤を受け継いだだけで、立ち上げの苦労をしていない。曹操は敵ではあるが特別な思いもある、ということだろう。かつて曹操の元にいたことがある関羽にはそれがわかる。
黄蓋の偽装は火攻めだろう。偽装自体がうまくいくか微妙である以上、やはり劉備軍としても火攻めの準備をしておく、ということに決まった。曹操軍の輜重隊の振りをして曹操軍後方にまわり火をかける。輜重隊であれば燃えやすいもの、油などを運んでもそんなに怪しまれることはない。油といっても獣脂だ。豚や羊の脂の部分を輜重に紛らせ運ぶ。黄蓋の火攻めの時にも燃え移りやすくなる。劉備軍か江東軍の火、どちらでもよいので火種に付けばいい。劉備軍の輜重隊偽装、これも成功するかはかなり微妙だ。どちらも不確かだが、今回は方策は一つではない方が良い。結果はある策を打ったから出る、という一対一の関係ではない。いくつもの要素が絡み合い、その結果導き出されるものだ。手数は多い方がいい。そして決戦の時は近い。
孔明が朝早くから周瑜に呼ばれて出て行った。曹操が船同士を鎖で繋ぎ、まるで陸のように陣取っている。それは知っていた。火攻めのまたとない機会だとみんな思ったが、風向きが悪い。孫権・劉備連合にとっては向かい風だ。火を放っても焼けるのは連合軍の方だ。そのことで相談があるのだろうと、関羽は思ったが出掛けの際に孔明は言った。
「いよいよ黄蓋が動くのでしょう。今夜にも曹操軍に火が放たれましょう。我らも動きますよ。黄蓋が成功しようがしまいが我が軍は曹操軍の北側から火を放ちます。そして曹操軍が乱れ逃げ始めれば、そのまま追い打つ軍となる。そこは陸戦、劉備軍の本領発揮です。私は周瑜殿の側からこの戦を見ることになりましょう。あとは手筈通りに。皆さんの経験がこの戦に役立ちましょう。」
孔明は今夜決戦になると言い残して行った。関羽も張飛も不思議に思っていたが、劉備が、
「孔明が言うなら今夜決戦だ。軽装で近づく。劉備軍の大半は夏口から南下し、柴桑への道を遮る形で布陣。軽装の隊を3手に分けて烏林側へ回れ。脂を持って曹操軍の北側から火を放て。」
と命令を下した。
瞬時に関羽たちは返事をして準備に取り掛かった。劉備が孔明を信じて命を下すなら迷うことはない。三隊はそれぞれ、関羽、張飛、趙雲が率いる。劉備軍の主力は劉備自身が率いる。関羽も、最初は劉備が側にいるように言ったのだが、ここは引けませぬ、と強引に偽装隊に回った。300ずつのニ隊を考えていたが、200ずつの三隊とした。数としてはその方がいいと思ったが、関羽が本隊にいないと不自然だというところが劉備は引っかかっていたが、諦めた。関羽の頑固さは百も承知だからだ。関羽の影武者を本隊に置くことにした。
関羽たちは順番に少し時間差をつけて動くことにした。最初は関羽、次が趙雲、最後が張飛の隊だ。関羽の隊が肉を持ってきたと言って曹操軍内に脂ののった肉を置く。趙雲の隊が調理隊と言ってそれを焼いて準備する。そこで上がる煙を合図に張飛の隊が火をかける。関羽隊、趙雲隊は烏林に潜み、追手に変わる、こういう算段である。こういうことにかけては我らがずっとやってきたことだ、と関羽は久々に心が躍った。
関羽や張飛は目立ちすぎるので、実際には烏林に潜んだまま手下の者たちに実行してもらうしかない。孔明の話では夜になるまでは黄蓋の軍は動かないということになる。時間は十分にあったので、北へ回り込みながら三人で十分に話した。軽装のため追っ手側に回った時に馬がないことが懸念だった。しかし、そこまでの状況に持っていくことの方が先決だった。
そして黄蓋の投降に合わせた形でこちらも火を放ちたいので、交代で偵諜も放つ。黄蓋が動く気配があればこちらも作戦決行だ。すでに準備は整っている。三人はうずうずしながら待った。
夕方になり江東陣営が騒がしくなった。黄蓋裏切り、陣営中に瞬く間に広がった。動揺している兵も多い。
黄蓋は孫堅、孫策、孫権と三代にわたって仕えてきた忠臣だった。それが裏切るというのはただ事ではない。しかし、講和派先鋒の張昭は全く動揺しておらず、それを見て動揺していた講和派だった者たちも落ち着きを取り戻した。抗戦派の将たちは前衛の兵にざわつくよう指示していた。偽装投降の開始だ。火蓋が切られる。
黄蓋の部隊が小型の舟で曹操軍目指して漕ぎ出している。その様子は曹操陣営からも伺うことができ、曹操陣営からは興奮気味の歓声が沸いていた。
偵諜の帰りを待たずに関羽たちは作戦が始まったことを知った。両陣営の声はそれほど大きかった。関羽の隊が動いた。黄蓋の軍が降伏、祝いの肉を持ってきた、これで押し通る。曹操軍にも黄蓋投降の噂は流れていたようで「準備がいい、さすがは丞相!」と、怪しまれることなく肉を運べた。「調理隊ももうじき到着しますので、酒でも飲んでお待ちください」と言い残して関羽隊は引き上げた。趙雲隊が到着し、「これより調理しますので楽しみにお待ちください」と言うと、曹操陣営は盛り上がり酒宴が始まった。手早く火をかけ、肉以外にもよく煙の出るものを忍ばせて焼き始めた。瞬く間に煙が上がる。ほどなくして張飛の隊が松明を持ちながら猛然と走ってきて肉の置いてあるあたりに投げつけた。あっという間に火の手が上がった。趙雲隊は肉を艦板の上に直に置いていたため、艦もどんどん燃え始めた。
劉備隊の放火とほぼ同時に、黄蓋の投降部隊から火矢が飛んだ。曹操陣営は前後から火が出て混乱している。しかも黄蓋が出て間もなく、風向きが変わり始めていた。連合軍にとって追い風になったのだ。曹操陣営にもそれに気づいた者はいたものの、すでに遅かった。黄蓋の隊はあっという間に矢の届く距離まで来て火矢を放った。劉備隊の放った火もあり、曹操軍の船はあっという間に火の海となった。
燃える炎を見つめながら、周瑜は「勝った...!」と呟き、孔明は「関羽殿!」と口にしていた。
江東軍は全軍前進し黄蓋はそのまま先鋒に変わっていた。曹操軍には戦意はなくただ逃げ惑うばかりであった。だだ劉備軍が艦後方を燃やしたため、逃げ遅れるものも出た。戦闘での被害よりも炎による被害の方がずっと多い。
曹操軍の本陣が逃げたという報が入り、関羽たちはすぐに華容道へ向かう方向に向けて転進した。黄蓋軍の成功を確信して後方から本陣を突くつもりであったが、思いの外本陣の引き上げが早かった。火の混乱を鎮めるために本陣は簡単に動かないと思っていたが、早々に引き上げたようだった。曹操のいない本陣あたりに突っ込んで行ったらしい。
「ちっ!こんなにすぐ引き上げるなら戦に出てくるなってんだ!」
張飛が怒り任せに吐き捨てた。曹操の厭戦気分は相当なもののようだった。見切りが早過ぎる。関羽は、曹操が接収した荊州軍のみで戦をし、もとからの曹操軍が傷つくようなことはしたくない、と対陣しながら考えたのかもしれない、と思った。その頃から見切りをつけていたのではないかと感じた。
「こちらは歩兵しかいない。追いつけるか微妙になってきた。深追いし過ぎて戻れなくなることも考えながら追わないといけなくなる。」
趙雲が先を考えて言った。曹操軍は追う。だが趙雲の言うように退けなくなると徒歩軍のこちらは逆襲に合えば簡単に屠られてしまう。難しい追い討ちになると関羽は感じた。
「こっちも見切りを見誤らないようにしよう。曹操の首を取ってやると思っていたが、曹操を追い散らして我らが勝利した、という結果だけを得られればよし。すでに我らは勝ったようなものだ、藪蛇は御免だ。」
関羽が言い、二人は頷いた。追いかけながら認識を合わせた。曹操軍の足取りは掴めない。近くにいると思うが追いつけるか?道が泥濘になってきた。馬でも通れまい。追いつける機会に見えるが、戻れなくなる可能性もある。
「この難路じゃ曹操の野郎も難儀してるだろ。もう少し追って追いつけりゃ討ち取ればいい、ずっと先に行ってるようならそこで考えよう。」
張飛が言った。少し進むと伏兵が出てきた。数は少ない。三人であっという間に蹴散らした。
「曹操も焦ってるぜ!待ち伏せを置くほどにな。」
張飛がニヤリとしながら言った。
「だがこちらも限界が近い。これ以上の深追いは返り討ちに合う危険が高まる。」
趙雲が言う。慎重派の趙雲らしい発言だ。
「もう少しだけ踏み込もう。」
関羽が決めた。やはり曹操を討つ、ということは賭けに出る価値があるのだ。
しかし少し進んだら泥濘ではない道になった。関羽は引き上げの指示をした。泥濘ではなくなれば馬のある曹操の方が圧倒的に有利だ。抑えの援軍も駆けつけているだろうし、完全に返り討ちに合う。なにせ600しかいないのだ。
「悔しいが今度はこちらが危うくなる。趙雲が先頭で、張飛が続け。わしは殿をする。」
「兄貴そりゃないぜ、殿は俺がする!」
張飛が言ったが関羽は断った。「わしの判断でここまで来た、殿はわしがせねばならん!」と、一蹴した。
後ろから喚声が聞こえてきた。やはり追手だ。
「すぐに戻れ!わしがここで踏ん張る!泥濘の道を少し戻れば追っ手は来るまい!」
関羽は二人に言い、先頭で青龍偃月刀を構えた。張飛が長坂でしたことに似ている。違う方向からも喚声が聞こえてきた。関羽は少し焦った。違う方向からも追手が来るとは予想していなかった。踏み止まってみせよう!と気持ちを引き締めた。後ろからの喚声が遠のいた気がした。違う方向からの喚声が大きくなる。旗が見える。“揚“の旗だ。どうやら味方の軍だ。危地は脱したようだ。
「関羽殿か!?私は揚州軍の呂蒙と申します!劉備軍がここまで追い討っているとは思いませなんだ!天晴れ!」
「引き返すところでした。さすがに徒ではこれ以上深追いできませんでな。来て頂いて助かりました。戻るのもしんどい道ですからな、はっはは!」
関羽が豪快に笑った。呂蒙はニッと笑い「もう少し追いかけてから戻ります。曹操は逃げおうせたようです。では!」
呂蒙もすでに戦は終わったと思っているようだ。形だけの追い討ちだろう。戦機の見極めのできる武将が揚州にもいるようだ。呂蒙と言ったな、覚えておこう、と関羽は心の中でつぶやいた。
張飛が待っていた。趙雲も留まっている。二人とも戦闘時の目をしていない。
「さ、のんびり帰ろうか。泥の中急ぐこともない。」
関羽は穏やかに言った。戦は終わった。曹操は討てなかった。だが勝った。劉備と孔明が、特に劉備が小躍りしていそうだ。あの曹操に勝ったのだ。もう少しのところまで追いつめたのだ。戻ったら潰れるまで飲まされそうだ。でも今はそれが楽しみだ。早く劉備に会いたい。喜びを分かち合うのが何よりの褒美になる。関羽にとってはその時間が最高の褒美だった。風に乗って焦げ臭い匂いが漂う。長江沿いの壁が火によって赤く照らされている。今になって火攻めの匂いに気づいた。焼ける匂いは好きではなかったが、今夜だけは風に乗ってくる匂いが心地よく感じた。