逃走
諸葛亮が出仕してきて最初の日すぐに関羽は依頼をされた。劉備軍内の案内を頼まれたのだ。
「関羽殿が一番劉備軍全体を把握されていると思いまして。このような役を関羽殿に頼むのも気が引けるのですが今後のことを考えると下手な人にお願いするわけにもいかないものですから。気を悪くしないでください。」
「いえ、少ない軍です。それほどの時間はかからないので構いません。私も普段は調練をしておりますが、今日は張飛に任せてきました。張飛と趙雲がおれば調練は間に合うのですが、私も手持ち無沙汰になるもので。」
「劉備軍の要は関羽殿でしょう。張飛殿が先鋒でかき乱す。時には趙雲殿も。敵が乱れたところへ残りの軍を率いる関羽殿が掃討する。これが劉備軍の基本と思っております。軍は精強なため、数で劣ってもここまで生き延びてこられたのでしょう。何とか荊州を治められれば数の不安は払拭できるのですが。」
「諸葛亮殿は、」
「関羽殿、孔明で結構です。司馬徽先生の元で学んでいた時から周りからは孔明と呼ばれていたので、今更字以外で呼ばれるとこそばゆいので。殿を始め、他の皆様にも同様にお伝えしてあります。」
「しからば、孔明殿。孔明殿は荊州を足がかりに益州、と仰られましたが客分に過ぎぬ我らがどのように荊州を足がかりにするのですか?」
関羽は自分なりに考えてみたのだがわからなかった。この荊州に留まる間に軍学を学び自分なりに学問を向上させたと自負しているが、だがそもそも発想が違うのだから、ここは機会があれば素直に尋ねようと思っていた。今はまたとない機会だった。
「荊州を足がかり、といっても荊州は踏み台ではありません。益州に向かうにもちゃんとした基盤がなければどうにもなりません。まずは荊州を押さえて、その後益州を臨む、これがブレてはいけない戦略です。そのためには劉表殿はおろか、蔡瑁なぞにも荊州を好きにさせてはなりません。殿が荊州の主にならねばならぬのです。」
「それは、そうでしょうがどのようにすれば?」
「劉表殿はもう長くありますまい。ご子息たちもまだ幼い、そして後見は蔡瑁。このままだと蔡瑁が実権を握ることは火を見るよりも明らかです。世代交代のこの時を狙い、荊州を奪ってしまうのが最も取るべき道でしょう。」
「それは!私や張飛ですら考えておりました。しかしそれはなかなか実行に移せない!」
関羽はその程度なのかと失望よりも怒りの気持ちが沸いた。
「はっはは、そうでしょうな。私も無理だと思いながら殿に話しました。殿は『忍びない』と仰られた。そもそも殿はここで悪人と呼ばれたくないのです。普通に考えれば一番の近道なのですが、それができぬから次の手が難しいのです。正直劉表殿が亡くなられた後蔡瑁が実権を握った荊州をひっくり返すことはまず無理でしょう。おそらく蔡瑁は曹操と手を組むでしょうし。」
「では孔明殿はどのような策を?」
「それを考えるためにまずは劉備軍の全容を掴みたいと思い、こうして関羽殿に案内いただいているのです。これからは殿がどんなに善人に見せたがっても軍事行動が真っ先にきますからな。これは避けられませぬ。」
怒りはこの言葉でおさまった。やはりその程度ではなかったと思った。
「ではどのように?」
「正直なかなか難題なのです。具体的にはなかなか策が見つからない。だだ、やれることはやらねばなりません。そしてやはり荊州は必要なのです。幸い関羽殿はこれまでの7年間荊州で無駄な日々を送っておりません。荊州の豪族の中には関羽殿のおかけで殿がひとたび立てば賛同するものは多い。そうではありませんか?」
関羽は驚いた。地道に人脈を作ってきた。それは誰の目に留まるものではない。しかし孔明は知っていた。この青年はどのように知り得たのだろうか。
「大殿に心を傾けている豪族は多いと思います。劉表殿が守りの人なので黙って曹操の傘下に入る、といことは見過ごせない、と。」
「しかし荊州を分断するような大事にもしたくない。」
「その通りです。それで荊州の主に収まっても火種が残ります。それではたちまち曹操に飲み込まれてしまいます。また偽善ではなく劉表殿にはこれまで客分として十分な対応をしていただいたという恩義も感じているのです、大殿は」
「それが“忍びない“ということの意味ですね。」
関羽は黙って頷いた。孔明には戦略の幅を狭めることになると思い、関羽は申し訳ない気持ちで頷くしかできなかった。
「どちらにしろそろそろ状況が動きましょう。劉表殿が亡くなられれば嫌でもそうなります。その時の状況で臨機応変に対応するしかありません。」
劉表はこの乱世には向いていない。荊州を治めてきたといっても、たまたま戦禍に巻き込まれなかったというだけだ。関羽は荊州滞在の間にそれがよくわかった。曹操は必ず南に目を向ける。先に孫権を降すのか、荊州か、順序だけの問題だった。孔明は熱心に調練の様子を伺い、ことあるごとに細かいところまで関羽に尋ねてきた。
「いや、関羽殿、大変よくわかりました。戦となれば私はそれほど役に立ちませんが、この陣容なればいろいろな策を練れましょう。」
「お役に立てましたかな?」
「もちろんです。軍の精強さ、将軍の元統制が取れていること、そして何より関羽殿、関羽殿がこの荊州を治めていける方だということがよおくわかりました。」
「わ、わしが荊州を治める?」
関羽は孔明が何を言っているのかわからなかった。主君である劉備を差し置いてなぜ自分が荊州を治めるのか?そんなことより今日は軍を見せただけだ。何を見て何を思ってそんなことを言い出したのか、さっぱりわからなかった。
「孔明殿、言い間違われたのか?」
「いえ、そんなことはありません。」
「ではなぜわしが荊州を治めることになるのか?」
「すぐの話ではありません。益州を治めるにしても荊州がないと無理と言いました。殿は益州の地で中心となります。誰かがこの荊州を治めねばならない。それは関羽殿をおいて他にいない、そう言っているのです。」
「それは...!」
「ゆくゆくの話です。今はとにかく状況を好転させることが先決です。」
わしが荊州を、考えたこともなかった。だが確かにそんな先のことよりも目先の状況を打破しなければならない。しかし、孔明からの話で間違いなくこれまで意識しなかったことを意識の中に置くようになった。
まだまだ先のことだ、関羽は一度軽く短く息を吐いて孔明を館まで送った。
劉表死す。孔明に軍を案内し5日しか経たないうちにその報が入ってきた。関羽は劉備、孔明とともに劉表の館へ向かった。入り口のところで兵に止められた。
「劉備様は中に入れないよう言われております。」
関羽は斬り伏せて押し入ろうと肩を怒らせた。それを感じた劉備が関羽のところを振り向きもせず手で制して言った。
「わしは劉表殿から荊州の守備を任されておった。その劉表殿が亡くなったのに手を合わせることもできないのか?そもそもなぜ亡くなる前に声をかけなんだのか!?」
劉備は門兵に言うというより、中にいるであろう蔡瑁たちに聞かすように大音声で言った。
「大恩ある劉表殿にせめて手を合わせることをさせてくれい!蔡瑁殿!」
劉備の目から涙が流れている。関羽は心を打たれて冷静になった。孔明を見ると少しうつむき加減ながら口元はわずかにニヤリとしている。関羽は劉備の涙に心打たれたばかりだったが、それは芝居であったかよ、と愕然とした。劉備と孔明は事前に打合せていたのだろう。この光景は荊州中に伝わるだろう。反蔡瑁派は完全に劉備に付くし、日和見派や蔡瑁派の中にも劉備に靡く者も出てくるかもしれない。そういうことか、と孔明の強かさに舌を巻いた。
その時城壁に人の気配を感じた。蔡瑁だ。
「劉備殿、今は亡き殿の葬儀の準備をしておる。殿が亡くなられる時に来ず、今頃来られて門前で大きな声で騒ぐのは謹んでいただきたい!」
「なんだと?葬儀の準備?今頃だと?劉表殿はいつ亡くなられたのだ!?」
「3日前にお亡くなりになられた。危うくなってきたので来てほしいと知らせを出したに、貴殿はついに現れなかったではないか!」
劉備に殺気を感じた。蔡瑁はとぼけている。劉表の死を秘匿にし、死んだ3日後に劉備に知らせたのだ。関羽はこのまま劉備が怒りに任せて蔡瑁に襲いかかると思い、すかさず言った。
「蔡瑁殿!われらを謀ったか!知らせなど来ておらん!よくもそのようなことを言えたものだな!我らへの知らせを遅らせて死に目に立ち会わせぬようにしたのであろう!不埒者めが!この関羽が斬り伏せてくれる!」
「よせ!関羽!」
劉備が一括した。関羽は肩を怒らせ、ものすごい形相で蔡瑁を睨みつけている。劉備は関羽を見て少し冷静さを取り戻しているようだ。だが目はギラついている。
「蔡瑁殿、荊州はこのまま曹操に降るのですか?荊州の軍備は籠城しても10年は保つときいています。ですが一戦も交えず降るというのですね?」
孔明が冷静に言った。
「後継の劉琮様はまだ幼い。このような時に曹操殿に歯向かえますまい」
「劉琮殿が幼いのは何も今わかった話ではない。劉琮殿を盾に曹操に降る道をあなたは選ぶのですね?」
「それがしは劉表様ご存命の頃からこの荊州に尽くしてきた。荊州を戦禍から回避させてもきた。ここで荊州を戦場にはできんのだ」
劉表には二人の息子がいる。長男が劉琦で次男が劉琮だ。劉琮は劉表の後妻の子で蔡瑁の姉であった。そのため、後継は劉琦ではなく劉琮だろうと衆目の知るところだった。劉琮は幼く、後見となる蔡瑁は曹操とは馴染みがある。劉表が生きていた時からだが、荊州には初めから戦う気などないのだ。関羽は蔡瑁の話を聞いてあらためて感じた。
「帰ってもらおう、劉備殿。荊州は曹操殿に与することになろう。戦にはならん。しかしいつまでもそのように抵抗するようなら、我らも手を打たねばならなくなると思いなされよ。」
「手を打つとはなんぞや!本当に手を打たねばならぬ時に何もせず、このような荊州の危機に曹操ではなく我らに対して手を打つとは本末転倒!貴様なぞこの関羽の刀の錆にしてくれるわ!降りてこい!蔡瑁!!」
蔡瑁は冷たく見下ろしているだけだった。
「我らは引き上げよう。だが我らは決して曹操には降らんぞ!曹操に尻尾を振ってまで生き延びようとも思わん。蔡瑁!お主の取った道は滅びの道だ!生き延びたところで、曹操の犬となって畜生のような人生しか残っておらぬ。死んだも同然だ。これ以上死人のような輩と話す口は持たぬ!我らは最後まで戦い、誇り高く散って見せようぞ!」
劉備は言い放ち、踵を返した。関羽もならうが、首だけは城壁に向けて最後まで蔡瑁を睨みつけていた。
孔明が劉備の隣にすっと並び小声で話しかけた。
「殿、よろしかったと思います。」
「言いたいことは言ってやれたと思うが。」
「蔡瑁の消極的な姿勢、殿の言い分、衆目は殿の方に集まるでしょう。」
「ここからだな。」
「はい。あとは私にお任せを。」
全ては劉備に心寄せる者を集めるための芝居だったのだと関羽は悟った。蔡瑁に悪態をついた自分は真剣だったのだが結果的には一役買ったようだ。少し恥ずかしい思いもあったが結果が良ければそれでよしとした。ただ、結果が良かったのかはこれからの動き次第だ。
劉備たちは引き上げるとすぐに軍を整え出陣の支度にかかった。すでに蔡瑁は曹操に降伏の申し入れをしてしまっているだろう。長居は無用だった。
「蔡瑁と一戦交える気になったのか?」
張飛が嬉しそうに聞いた。
「蔡瑁とは戦いません。ただし蔡瑁の元へは行きましょう。そこから可能であれば江陵を押さえます。江陵を押さえれば兵も十分入れられますし、何よりあそこには武器や船が潤沢に保管されています。江陵を押さえたら孫権と結び曹操に備えるのです。」
孔明が皆に説明した。
「じゃあ江陵を拠点として対抗する作戦ということか。そんなまどろっこしいことせず劉琮も蔡瑁も倒して荊州を押さえちまえばいいのに。」
「私も念の為殿に進言しましたが、やはりそれは忍びないとのことです。」
「その手段は避けたいのよ。まあなんとかなろう。というよりそこは孔明が策を練るところよ。」
「しかし江陵を押さえられる可能性は高くありますまい。その場合に備えて関羽殿には江陵へ向かわず、劉琦殿を封じて東へ向かってもらいたいのです。」
「東へですか?まさか孫権のところへ?」
「いえ、孫権のところへ行っても今は受け入れられますまい。関羽殿には道々劉備軍に参画する兵を集めながら夏口に待機してほしいのです。関羽殿は豪族たちに顔がきく。その関羽殿が劉琦殿を封じて動けば付いてくる兵は多いと思います。おそらく2万近くが集まりましょう。その兵を夏口に駐屯させて一勢力として確保しておいてほしいのです。」
「なるほど。して、大殿はじめ皆はどうするんです?」
「我らは江陵を経由して夏口を目指すことになるでしょう。問題は曹操軍の追撃です。振り切れるかどうか。」
関羽はもどかしかった。そういう難しい状況の時に自分は別行動をする。しかも殿が特に難しい、数の違いがあり過ぎてどこが殿かわからないような戦になりそうだ。そういうとき自分が踏ん張りたいところなのだが、自分はそこにはいないのだ。
「難しい戦になりませぬか?」
「難しいです。関羽殿にもそばにいてほしい。しかし、ここを切り抜けたあと寄るべきところがないとそのあと動けません。関羽殿が集結する場所を確保していただければ我らも安心です。それは関羽殿以外にお願いできません。」
「役割、ですな。大殿の側を離れるのは不満ではありますが、これも重要な役割です。お引き受けいたそう。」
「心配ない兄貴、俺がついてるんだ。趙雲もいる。大兄貴には誰にも指一本触れさせんよ。」
「頼むぞ、張飛。」
張飛は丸い目を大きく見開き、大きく頷いた。趙雲も険しい目をしながら覚悟を決めたような表情をしている。
「さて、さっそく動いてもらいます。こういう時の曹操はのんびりしてはくれますまい。」
孔明は全体の説明をした後各人と個別に打合せをした。とりわけ関羽とは一番時間をかけた。劉備と行動を共にせぬとはいえ、実は一番難しいのが関羽の役割だった。兵を集めながら夏口を目指す、しかし孫権軍を刺激しないようにする。夏口は孫権軍の領域に極めて近いのだ。万を超える軍が駐屯するとなれば、江東へ侵攻する意思ありなのか、などと警戒されるに決まっている。豪胆な関羽であるが根回しなど地味で億劫な対応も求められるのである。荊州滞在中に関羽はその辺りのことは学び、実際豪族への対応はまさにそのように動いてきた。張飛たちにはできないことだった。
夏口へ向かうにあたっては途中から舟を使うことにした。集まる兵の数を想定すると舟のほうが移動に便利だからだ。劉備たちは江陵へ向かうため陸上移動となる。こちらの方が問題だ。曹操軍の軽騎兵は張遼が率いている。呂布軍譲りの騎馬隊だ。追いつかれずに江陵まで行けるのか?江陵を先に取られるのではないか?その場合逃げ切れるのか?関羽の心配は尽きない。
関羽の心配をよそに劉備隊は江陵に向けて進発した。途中劉琮と蔡瑁のいる襄陽により、最後の言葉を伝えた。
荊州の蓄えは曹操軍を追い返すだけのものがある。一戦も交えずむざむざ曹操に降るとは何事か。自分は劉表から荊州の防備を任されたのに何もせずに降るなど劉表殿に顔向ができん。劉表殿の息子ならば自分とともに曹操と戦おう。自分が劉琮殿の盾となり先頭に立ちます。一緒に戦いましょうぞ。
といったことを城へ向けてまくしたてた。それは荊州中に知れ渡るだろう。内容を知った非降伏派は劉備軍に加わる可能性が高い。いや、実際加わる。劉琮、蔡瑁の元を去るにあたり一芝居打つ。それを合図に蔡瑁と訣別する。劉備軍に加わってくれるならここではなく夏口に集結してほしい。あまり兵数が多くなると小回りが効かなくなるため関羽の元に集結してほしい、と主だった豪族にはすでに伝えてあった。劉備は劉琮や蔡瑁に向けて言ったが、実は荊州中に言ったのだ。戦う者は付いて来い、と。劉備は、臆病者には用はない、私は最後まで曹操と戦う、戦わざる者の元にはこれ以上はおれん、さらば!と言い残して引き上げた。向かうは江陵だ。
夏口行きの準備が終わり、出発し始めた途端にとんでもない報告が関羽の元に入った。劉備が江陵へ向かうと聞いて民が付いて行くというのだ。しかもその数10万。そのほとんどが老人と女子どもだ。あり得ないことだった。関羽はすぐに孔明に使いを出した。
心配には及ばない、関羽殿はご自身の役を果たされよ。それだけの返答だった。心配に決まっている。曹操軍が迫ってくる中で10万もの足手まといを引き連れての行軍など聞いたことがない。しかも追走してくるのは張遼の騎馬隊だろう。あっという間に追いつかれてしまう。江陵で武装させる算段だとしても、老人や女子供だけで何ができるのか。そして江陵が取れる確証もない。しかしあれこれ考えてもどうにもできない。自分は離れるわけにはいかないし、孔明の言う通り自分の役目を果たさねばならない。ここは孔明や張飛たちを信じるほかなかった。
「こりゃあどうにもならんぞ。江陵にたどり着く前に曹操軍に江陵を押さえられてしまう。付いて来た民には悪いが見限らないと格好の餌食になるぜ」
張飛が馬を走らせて孔明のところへ訴えてきた。
「そういうわけにもいきません。ここで見捨てるなら最初からついて来させなければ、となります。」
孔明には策があるのか?張飛は焦れた。策があるならそれを聞き、それに従って動くだけだ。だが全てを明かされていない気がした。
「俺は言われた仕事はちゃんとこなす。策があるなら言ってくれ。そうでないと全力を出せない。」
孔明は少し考えたがすぐに決心したように顔を上げて言った。
「江陵には辿り着けますまい。我らは途中で転進し、夏口の関羽殿と合流します。民にはそのまま江陵を目指すように言い含めましょう。不本意かもしれませんが。そして我らは身軽になりますし、多少なり曹操軍の足止めにもできます。」
張飛ははっとした。10万の民を防波堤にしようというのか。
「最初からそのつもりだったのか。てっきり江陵で武装させ籠城戦をするのかと思っていたが。」
「籠城しても援軍の当てはありません。関羽殿が兵を集めたとて、調練もしていない軍では曹操軍には通用しますまい。ならば被害は最小限にとどめ、なんとか逃げ切るしかありません。」
「大兄貴も承知なんだな?」
孔明は小さく頷き、「苦渋の決断です。」とだけ答えた。
「わかった。どこで転進し、そのあとどう動くか指示してくれ。足止めもわずかなものにしかならんだろう。逃げ切るためには役割をきっちり果たさにゃ。」
張飛は割り切りが早い。そして考え方が明快だ。目的を作り、そこに向かって全力を出す。そういう考え方なのだろう。最高の軍人だ。
「転進の場所はだいたい把握しております。ただ状況を見ながらにはなるので、合図を出します。転進したら長坂橋を目指してください。張飛殿には長坂橋で可能な限り足止めをしてもらいたい。ここが殿になります。そして折を見て橋を落とす。あとは夏口で関羽殿と合流です。」
「わかった。合図は旗や狼煙の類か?」
「ええ、そうです。知らせも走らせるつもりです。」
劉備軍は転進するが、民はそのまま江陵を目指す。民の流れの真逆に動くこととなるが、劉備軍の通った後を曹操軍が通れば容易に追いつかれてしまう。張飛はそのことを孔明に伝え、策を練っておいてくれ、とだけ言い残して戻って行った。孔明は張飛の言動を見て少し安堵した。頼もしい限りだ。関羽がいればさらに安心なのだが、と思い、そう考えるのをすぐにやめた。関羽には関羽にしか頼めない重要な役を頼んだのだ。それだって思惑通りに運ぶとは限らない。全てギリギリの綱渡りたった。
「曹操軍騎馬隊5,000が急追!あと二刻(2時間)ほどで追いつかれます!」
物見からの知らせが入った。孔明はすぐに全軍転進の指示を出した。張遼軍はまず江陵を押さえるべく動く。途中でこちらの転進に気づくだろう。そこからは遮二無二追撃してくる。もしかすると民を蹴散らしてでも。しかし今から転進すれば長坂橋にはぎりぎり間に合うはずだ。孔明はそう推測した。
「孔明殿」趙雲が馬を寄せて来た。
「なんでしょう、趙雲殿」
「転進後民の周りに少し軍勢をバラしておいた方がいいと思うのだ。曹操軍の目を誤魔化せる。」
「しかしもたもたしていてはあっという間に追いつかれます。」
「わかっているが、曹操軍も歴戦だ。追うだけとなれば民に阻まれようとどう転ぶかわからない。民を護衛していると思わせる動きも必要だと思うのだ。もちろん張飛の軍よりは早く離れるつもりだが。それは私がやろうと思うのだ。」
「しかしそれは危険です。」
「私は奥方の護衛もある。そもそもそうそう早くは動けん。奥方だけの護衛の軍ではなく、民も含めた全体が役割だと思わせればよいではないか、今回の場合は。そうなれば多少なり交戦することになるだろうが、精強な軍が護衛しながら、と思わせられれば追撃の足も鈍ろう。」
その通りではあるが、それでは趙雲が最も危険にさらされることになる。命の保証はない。
「なんとかなりますよ、孔明殿。いざの時は民に紛れながら逃げのびる。これは張飛とも話し合ったことです。私は陽動、張飛は殿、少しは暴れさせてくだされい。」
こうやって戦い抜いて来た猛者たちだ。こういう細かい戦術は任せたほうが良いのかもしれない。孔明は決断に迷った。
「孔明殿は我が軍の行く末まで見通して、大きな戦略を立てられる方だ。我らはそれに従って動くが、こういう細かい現場での動き方は臨機応変だ。細かな戦術はいくらか任せてほしい。こういうことは我らは得意だから。」
迷いが顔に出ていたのか、趙雲が付け加えるように言った。戦場の気、臭い、そのようなものを感じる能力は軍人の方がはるかに高い。
「わかりました、お任せしましょう。」
「では!」趙雲がにっと笑い、駆けて行った。やはりその背中は頼もしく感じられた。これが劉備軍の戦場での姿か、と改めて思った。
関羽は予定通りみちみち豪族の軍を接収しながら夏口を目指した。豪族の軍を接収しながら舟も集めた。関羽は漢津に寄り軍を集めながら待機した。長年の人脈作りに加え、最初に劉琦を誘い入れていたので、軍を集めるのはさほど難しくはなかった。舟を持っている豪族も多く、舟集めも時間がかからなかった。関羽の役割はここまで順調だった。あとは夏口を目指しそこに拠点を構えればよいだけだが、それが一番の難点だ。江東を刺激しないこと、劉琦を中心とした拠点を作ること、集まった軍を一つにまとめること、そして何より夏口を目指すのは劉備と合流してからの話だった。劉備たちは曹操軍の追手から逃れられるか微妙なところで、乱戦にもなりかねない。死と隣り合わせの状況になるが、関羽はそちらの方が性に合っていると思った。しかし今はそこにいない。本領を発揮できない役割だと思うが、張飛や趙雲ができるとも思わない。自分にしかできない役割だと言い聞かせて我慢するしかない。戦場でこそ自分は力を発揮すると思っているが、これも違う形の戦場だ。後方支援の苦しさを身をもって感じた。
劉備軍主力と集まってきた兵を合わせて15,000ほどの軍になっていた。おそらく20,000ほどにまでにはなるだろうと見立てている。江東から使者が来た。「漢津で軍勢を集め、舟まで用意しているのは江東への敵対行為か、侵略の意図ありか?」という内容だった。孔明との話通りだった。個人的な思いだけなら後先考えずにこの使者を斬ってしまいたかったが、事前の打合せ通りの流れなのでこちらの意図を冷静に伝えた。
曹操の侵略を避けての結果だ。劉琦は曹操軍に降る気はなく、そうは言ってもとても曹操軍に抗しきれない。劉備は劉琦の後見であるが、最後まで劉琮を説得しようとしている。しかし恐らくうまくいかないであろうから、受け入れ先が必要だ。その状況では荊州内で勢力は張りづらく、そうは言っても江東領内には入れないためぎりぎりの所で陣を張る。それが夏口なのだ。江東を略すなど微塵も思っておらず、むしろ共闘して曹操に対したい。孫権殿になにとぞよろしくお伝え願いたい。
関羽は丁寧にこのように意図を伝えた。江東からは、侵略の意図がないとのことで安心した、夏口が戦場になる時は江東にとっても由々しき事態なので、劉備軍の状況も共有してほしい、可能な限りの援助もする、と回答が来た。
さすが孔明だと思った。孔明の思い描いた通りの流れだった。これで江東への警戒はほぼ取り払われた。劉備の状況は常に把握し、それを江東にも伝えることで東の憂はない。あとは劉備が無事に合流すればいい。乱戦になれば孔明ではなく、張飛と趙雲の働きにかかってくる。信じるしかなかった。
劉備が来たという報告が入り、関羽は飛び出した。確かに劉の旗だ。孔明もいる。どうやら虎穴を脱したようだ。
「兄者!」
「関羽...!」
「兄者よくぞご無事で!」
「お前もよく耐えて役割を果たしてくれた。今は大いに安心だぞ」
劉備も孔明も埃まみれだ。関羽は胸が詰まったが、しばらくして趙雲の姿を見た時目を見張った。趙雲は全身血だらけだった。しかし重傷を負っているようには見えない。どういことだろうか、と思ったが元気そうで胸を撫で下ろした。あとでゆっくり話を聞こうと思う。
「張飛も無事ですか?」
「無事ですよ、関羽殿。張飛殿が殿で時間を稼いでくれたおかげで何とか合流できました。」
「そうか無事でしたか、よかった。孔明殿の思い描いた通りになりましたね。とにかく幕舎の中で休んでください。話はそれからにしましょう。」
関羽は逃れてきた兵たちにも食事を与え、休むように指示を出して、劉備や孔明、趙雲を幕舎へ案内した。趙雲は身なりを替えてからと一人離れていった。その間に劉備と孔明も甲冑を外して着替えを済ませた。
しばらくして趙雲が入ってきた。全身血まみれだったのが嘘のように綺麗になっている。
「張飛が戻ったようです。」入ってきて趙雲が言った。
「張飛が来てからこれからのことを話そう。」
劉備が言った。孔明もうなずいている。
「それではそれまでに簡単でもよいので合流までの状況を話してくださらんか?」
関羽は少し不満げに言った。自分だけ詳細な状況がわからないまま今後のことを話されるのは困る。
「もちろんだ。そのうち張飛が入ってくるが先に話し始めようか。」
劉備が言い、孔明に話すよう促した。孔明が頷き話し始めた。
「関羽殿も民を連れて江陵を目指していたところはご存知でしょう。我らは、というよりも私は最初から江陵は取れないのでどこかで転進し、長板橋を目指すことを決めておりました。民を連れての行軍では江陵までに追いつかれるし、先に押さえられた上、追撃ということにもなる。転進するには場所で決めるか、臨機応変にするか、これは迷いましたが臨機応変としました。結局張遼の軽騎兵が二刻ほどで追い付くという報が入った時に転進を決めました。」
「民はどうされたのですか?」
「江陵へ向かってもらいました。」
「それは...!」
「ええ、目眩しの意味もあります。囮にして我らだけ逃れる。こういう打算はもちろんありました。ただ民には江陵に入った方が安全が確保されると考えてのことです。曹操は徐州での虐殺がこたえております。あれで相当世間の反感を買い、同じことは繰り返さないと考えておりましたので。」
「ぐうむ...」
関羽は唸るしかなかった。民を見殺しにしたのか、と思ったが民を引き連れての行軍は不可能だ。どういう了見だと使者も送ったほどだ。見方によれば途中ぎりぎりまで民を先導した、ともとらえられる動きだ。その後は民に危害が及ばぬように曹操軍を引きつけた、ともいえる。
「しかし転進してからは計算が立たなくなりました。あとは趙雲殿、張飛殿をはじめ各人の働きに頼るしかありませんでした。趙雲殿が転進後少しの間民の護衛をしてくれました。殿は張飛殿ですが、曹操軍の目を民、江陵へ向かわすためです。これは趙雲殿が自ら進言してくれたことです。」
「張飛が殿なのでぎりぎりまで民の周りにいて撹乱し、さっと引き上げて張飛に任せる、それくらいのことです。なので張飛の方が一番苦しかったはずです。」
趙雲が続けた。
「ただ、張遼の軽騎兵が予想以上に早かった。張遼は隊を二つに分けたようです。江陵を押さえる隊と我らを追う隊。それで予想より早く追いつかれました。私の隊は牽制はしたものの抗しきれず、退却の指示を出し牽制しながら張飛の隊と合流する形になりました。その時に奥方が民の中に取り残されていると報を受けました。もちろん先行で長坂に向かってもらっていたのですが...私の落ち度です。そのため私は奥方をお連れするため単騎で戻りました。」
関羽はそれで合点がいった。趙雲が全身血まみれだったのは返り血だ。夫人を連れ戻すため敵の群れの中に飛び込んだのだろう。獅子奮迅の働きで。
「結局阿斗様は私が懐に抱えてお連れできましたが、ご夫人のお一人は...」
「致し方あるまい。可哀想だがこれが乱世だ。」
劉備は淋しそうに言った。
「申し訳ござりませぬ。」
趙雲はうなだれて言った。関羽は趙雲を責める気にはなれなかった。趙雲は地獄の中をくぐり抜けて来たのだ。
「やれるだけのことはやったんだ。ご夫人には申し訳ないが趙雲がいたからこそ阿斗様だって無事だったんだ」張飛が言いながら入って来た。
「趙雲が俺のところまでたどり着いた時は槍も持ち上げられんような状態だぜ、そんな姿を見りゃ逃げて来たわけもない、こっちだって奮い立つさ。」
阿斗を懐に入れながら敵陣の中を突き進んで来るなどなかなかできることではない。趙雲は疲れてはいたが怪我をしているようには見えなかった、と張飛は言った。
「長坂橋の前で俺は一人で見張っていたが、趙雲を通したあと曹操軍がぞろぞろとやって来た。張遼の軽騎兵以外にもいたな。『燕人張飛とは俺のことだ!死にたい奴は前に出て俺と勝負しろっ!』と言って凄んでやったぜ。」
「ふんっ!得意そうに言いおって。まあ、そのおかげで今こうしていられるわけだ。」
関羽は張飛が成長した気がして嬉しくなった。
「曹操軍からは一人も出て来なかった。だからもう一度言ってやったんだ。『やるのかやらんのかっ!』ってよ。雑兵の連中は尻込みしてやがった。将軍らにしたってまごまごしてやがったんで、こりゃあ勝負しないなと思って、睨みを効かせながらゆっくりと橋を渡って、橋を落として引き上げたんだ。橋を渡っても曹操軍は詰めて来なかったぜ。」
「あそこは張飛殿の独壇場でしたね。私は殿とおり、趙雲殿を労っておりましたが、張飛殿の声が聞こえて来ましたよ。」
孔明が言い、劉備も大きな声で笑った。
「張飛も趙雲もそれぞれの武を見せて危機を乗り越えたか。わしも負けてはおられんわい。」
関羽も悔しそうでもあり楽しそうでもあり、という言い方で返した。
「関羽殿は見事に役をこなしたではありませんか。今我らがこうしてくつろげるのも関羽殿のおかげです。」
孔明の言い方には安堵した気持ちがこもっていた。
「そうだよ。兄貴は曹操と袁紹の戦の時、敵陣の中を一人突き進んで顔良の首を取ったろ。兄貴ばっかりいい格好されちゃ困るんだよ」
「張飛の言う通りだな。とりあえず危地は脱した。ここからのことは孔明に任せるぞ。」
「お任せください」
劉備が言うと孔明は自信ありげに答えた。ここからが孔明の本領発揮だ。曹操の追撃を振り切り、さらに戦力を落とすどころか逆に増やした。だが曹操は東に目を向けるだろう。おそらく江東と協力して曹操に対するはずだ。だが傘下に入るわけではない。対等の同盟でなければならない。まとまった数になったとはいえ江東軍のほうがはるかに多い。はたして江東軍は対等な同盟を結ぶのか。考えても仕方がない、それを可能にするために孔明がいるのだと関羽は思い直した。関羽は外に出て深呼吸をした。東から吹く風は心地よかった。