荊州の客分
荊州北部の新野におさまった。
荊州の北の押さえは樊城になるが、そこから少し北に寄ったところだ。最前線で曹操の防波堤になれ、ということだ。劉表は外征に興味がない。今が乱世でなければ無難に平和を保てるだろうが、曹操と袁紹の戦で曹操が勝つならこの平和は保てないと改めて感じた。荊州は戦から離れすぎている。そして関羽は、劉備もだが曹操が勝つと確信している。現に官渡では曹操が勝った。そこからは袁紹も粘っているが、勢いは完全に曹操軍にあった。
劉表は袁紹側の人間だと見られている。表向きには中立なのだが裏では袁紹と繋がっている。劉表は袁紹の天下になると思っているのだろう。だが乱世は甘くない。この感覚が平和ボケの証左だと関羽は思っていた。
「いかがでしたか長兄?」
関羽は軍議から帰って来た劉備に聞いた。劉備はうんざりした表情で、「駄目だな、兵は出さんとよ」と答えた。
劉備は、曹操が袁紹を官渡で破ったとはいえ、まだ華北に地盤がある袁紹には挽回する機会があると思い、烏丸(北方の異民族)を焚き付けて圧力をかけ、その間に南から劉表軍が許都を突く戦略を提案していた。
しかしその案は却下された、ということだ。劉表は動かないという。
「このまま平穏に天寿をまっとうしたいなら、隠居すりゃあいいんだ!」
張飛は代弁するように吐き捨てた。関羽は、劉表はこの乱世では老害にあたる人物だと思った。運がいいだけだとも思った。劉表にしてみれば、歴戦の劉備軍を受け入れることにはかなりの打算があるとわかる。
うまく防波堤になってくれることがまず第一、次に劉備軍が敗れれば責任は劉備軍になすりつけられる、うまく防御してくれれば交渉を有利に進められる。
劉備軍と劉表軍は別、と考えればいくらでも脚本が書けると関羽は思っている。
だが劉備もこの荊州で地場固めができないかと考えているように思う。戦乱に巻き込まれておらず、土地が荒れてないというのが強い。曹操が南よりも北でまだ袁紹と覇権争い中ということも計り知れないほど大きい。
劉備がある日、張飛と自分を呼んで先の話をしたことがある。
曹操が華北を押さえるだろう、だがそれには少なくとも5年はかかる、その間に力をつけたいが、それには場所がいる、その場所は荊州だ、こういうことだと理解した。張飛はすぐに徴兵して調練したい、と言ったが関羽がたしなめた。兵を集めるのは老いぼれた劉表でも警戒する、今は荊州の有力者と繋がりを持ち、兵は最低限の数に抑えて少数精鋭軍団にするしかない、ということを諭した。
関羽はしかし、荊州で人脈を作ることに徹していた。いざの時、劉備が一たび立てば味方になってくれる、そういう豪族を増やしておく必要がある。劉表は迎え入れてくれたが、はっきり言ってそれ以外の面々は快く思っていない。対曹操の前面に出し、戦になっても関わらず劉備が勝手にしたことだと言い逃れる腹づもりだろう。しかしそれは曹操にきっかけを与えるだけで、荊州は間違いなく飲み込まれる。中原の戦果にさらされていない分、平和ボケしている。豪族の中にはその危惧を抱いている者が実は多く、劉表陣営にその空気を感じている者が一人もいないことに関羽は驚くとともに、天運だと思った。ここを地盤にしたい、できると感じたのだ。
豪族回りは関羽が自ら進んでしているが、劉備には全て報告している。張飛は調練、関羽は人脈作り、このような役割になっていた。
劉備のことを快く思っていない劉表陣営の者が、劉備暗殺も考えているであろうから、護衛が必要と思っていた。だが袁紹側についていた時に加わった趙雲が、護衛隊長のようになっており、その心配はなくなった。趙雲の武芸は自分や張飛に匹敵すると、関羽も認めるところであったからだ。劉備の周りには確実に人材が集まり出している。
そんな折、袁紹が死んだ。血を吐いてとのことだ。華北の情勢が動き出すことは間違いない。曹操はこの機に一気に攻め込むかと思ったが、逆に兵を退き、袁紹の長男袁譚と和睦した。
「長兄、曹操は華北を諦めたのですかね?」
「そんなことはあるまい。おそらく南の我らを討ちに出てくるぞ」
「華北の袁紹領は放っておくのですか?」
「そうだろうよ。袁紹は後継者を選んでいない。おそらく曹操の狙いはその辺りだな。その間に小うるさい南の始末をつけにくるのだと思うぞ」
内紛か、関羽は瞬時にそう思った。無理に攻めずとも勝手に自滅する、その間南を固めておけばそう遠くない先に華北制圧軍を出しても後ろを突かれることはない、ということだろう。
「曹操軍が近づいてるそうです!」
張飛が報告に来た。
「曹操、早いですな」
「そういう御仁よ」
曹操軍は夏侯惇に于禁と李典をつけ10〜12万の軍で侵攻してきた。
「多いな」
「それでもやるしかありますまい。それが我らの役目です。」
「調練は出来上がってるぜ!いつでも飛び出せる!」
「はは、頼もしいな張飛。では迎え撃つとしようか」
劉備は農作業にでも出かけるような口調で言った。
数では全く勝負にならないと思うが、ここは久々に劉備の意見を聞きたいと思った。新野を出て北へ向かうと博望坡というところがある。そこまで出て迎撃をするという。
劉備は関羽と張飛にそれぞれ1,500の兵で林に潜み敵軍が目の前を通過してから撃って出るよう指示した。劉備は残り3,000を率い正面に布陣するという。
「長兄、地形を利用するとは言え、120,000に3,000ではいくら何でも抗しきれないと思います」
「心配するな。久々にわしの用兵を見せてやる」
劉備は戦はうまい。見切りもいい。その劉備が言うのであれば勝てる見込みがあるのだろうと思う。関羽は素直に劉備の指示に従うことにした。張飛も役割が明確なので納得しているようだ。
劉備は3,000を布陣し、曹操軍を迎えた。
曹操軍は数を頼んで真っ直ぐに掛けてくる。劉備は自らの陣営に火をかけ退却するように見せかけた。3,000はゆっくりと後退する。迎撃体制を取りながら下がっていく。夏侯惇は進みながら両側に茂みがあるところを抜けそうなところではたと気づいた。しかし遅かった。その時には関羽と張飛の1,500ずつが両側から討って出だ。劉備も反転し追い討つ。夏侯惇は混乱した軍をまとめながら後退した。夏侯惇の軍は全軍を進めたわけではなく、李典が守りを固めて後方に待機していた。李典は夏侯惇の軍が混乱しながら後退してくるのをみとめ、救援のため軍を進めた。
劉備は救援が来るのを確認すると兵を引かせた。
「長兄、見事に撃退できましたな。」
「数が多いのを頼りに力押しをしてくるだろうと思ったからな。夏侯惇はあまり戦はうまくないから」
「俺はもう少し暴れたいところだったがねえ」
「圧倒的に数が違うんだ、長引けば逆にこちらが殲滅される、兄上は見切りもよいからあれくらいでいいのさ、張飛」
しばらく対陣し、睨み合いが続いた。ほどなくして曹操軍は退却した。鄴の袁尚を攻めるためのようだ。袁尚は袁紹の三男である。袁紹の息子たちは兄弟喧嘩の末、曹操に攻める隙を与えたようだ。
劉備は劉表に戦果を報告すると劉表はたいそう喜び、手厚く賞した。劉備軍はそのまま新野で北に備えた。
北からの脅威に備えているとはいえ、曹操は華北攻略に力を入れているところだ。基本的にすることといえば刺諜を放って警戒を怠らないくらいのものだ。劉備は隙を見ては北への攻撃を進言している。夏侯惇を撃退してからというもの、ほとんど無駄骨に終わる進言をするくらいで、結局それも身にならないため、荊州の名士と触れ合うことがもっぱらだった。おかげで人脈は増えた。優秀な人材が多いことも知った。中でも仲が良くなったのは徐庶という者だった。仕官する気はない、と言っているものの劉備とは気が合った。関羽もよく話をするが、自分にはないものを持っているため素直に話を聞けた。軍学を中心に話すため、理解も早い。徐庶は各所の大きな戦のことはもちろん、劉備軍の細かな戦歴にも詳しく、あの戦いの時の動きは流石だ、あそこはなぜそう動いたのか?こう動くべきだ、こう見せてこう動けばその場の局面だけでなくその後にも影響が出る、など関羽は視野が広くなる思いだった。これも学業だな、と感じた。実践を例にした軍学である。関羽は早く実戦で試したい気持ちになっていた。しかし、劉表は兵を出さない。こんなことで数年を費やしている。ためになっているが、逼塞した時を過ごしている。徐庶と話をしている時に、ふと徐庶から気になる話を聞いた。今度ある男が劉備を訪ねに行くだろうと言うのだ。いろんな名士と接点があるし、それも求めていることなのであらためて言うことでもないだろう、と思った。しかし徐庶はその男はこれまでの人物とはものが違うという。これまでの劉備軍に足りないところを補って余りあるとのことだ。買い被りすぎではないのか?と言ったが、徐庶は会えばわかる、とだけ言った。関羽も会っておいたほうがいい、とだけ言ってこの日は徐庶は帰ろうとした。
「その者の名は?」徐庶が席を立つ際に関羽は聞いた。
「諸葛亮孔明」
徐庶はそれだけ言って立ち去った。
「諸葛亮...」
徐州にいた時に耳にしたことのある名だとぼんやりと思った。徐州に確か同じような名門の家があったという記憶があった。
それから間もなくある青年が訪ねてきた。劉備の運命を変える話をしにきたと言う。関羽は報告を受けたが、放っておけ、と追い払うよう兵に言ったが、また兵は戻って来て劉備様に会わせろとしつこいのです、と言う。この兵のことは関羽も見覚えがあり、追い払えと言えば必ず実行するはずだ。しかし追い払えなかったのか。その青年は何者だ?という気持ちになった。
関羽は自分で会うことにした。
「大殿に何用か?」
「劉備様を天下人にしに参りました」
関羽はこの青年が何を言っているのかすぐにはわからなかった。天下人?乱世とは言え一介の書生にしか見えないこの青年はほら話をしに来たのか、とすぐに追い返そうと思った。
「関羽殿ですね?劉備殿の右腕であり、義の人で有名ですね。武芸においては並ぶ者がないと。張飛殿と両輪で支えていると思いますが、欠けているものがある。」
「欠けているもの?」
「戦略眼です」
「戦略眼?」
「この先劉備様をどのように押し上げていくのですか?世の流れでここ荊州まで来られたが、この先はどうするつもりか、戦略はあるのですか?失礼ながら劉備軍には戦略がなく、その場しのぎの戦術でこれまで過ごしてきたように思えます。」
痛いところをつかれた。関羽が悩んでいた重要事項である。劉備という大将をうまく活かす頭脳にあたる人物が劉備軍にはいなかった。自分もできない。劉備の頭脳における右腕がどうしても必要だった。この青年はそのことをずばりと言い抜いている。
「そういうからにはあなたには戦略があるのか?あなたは何者だ?」
「もちろんある。劉備様に会わせてくれたら話しましょう。できれば名乗りもその時にしたいが、それは許されませんな?」
「わしのことも知っておるのであろう?何処の馬の骨ともわからん輩を拙者が会わせるとお思いか?」
「そうでしょうね。私は諸葛亮孔明と申します。」
「諸葛...」
徐庶の言っていた男だ。こんなに若いのか、と関羽はたじろいだ。徐庶が言うくらいなので、もっと壮年を想像していた。目の前にいるのは明らかに30歳に達していない。
「諸葛亮殿は徐州の出か?」
「いかにも。徐州での曹操の大虐殺、あの時以来荊州に移り、司馬徽先生のもとで学んでおりました。私が訪ねてきたということだけでもお伝え願いたい。」
関羽は少し考えた。徐庶の言っていた人物なのだから会わせたいが、若過ぎないか。会わせるべきか。
「なんだ、客人か?」
張飛が調練から帰ってきた。張飛は直感で動くが人を見る目はある。
「長兄に会わせろというのだ。」
「荊州の豪族の一人なら会ってもらった方がいいんじゃないか?」
張飛はあっさりと言った。
「ふむ...」また自分は考え過ぎたか、と思い「失礼した諸葛亮殿、お通ししましょう」と、関羽は渋ったことを謝罪し劉備に会ってもらうことにした。
「では兄貴は客人を案内してくれ、俺は先に大兄貴に伝えて来る。」
張飛は奥に消えて行った。
「今のが張飛殿ですか?」
張飛の去って行ったところを見ながら諸葛亮は言った。
「さようです。挨拶もせず申し訳ない、無骨者ゆえお許しいただきたい。」
「いえ、とんでもない。豪傑で有名な方ですのでもっと粗暴な方かと思いましたが、とても気遣いのできる方なのですね。」
関羽は驚いた。張飛はがさつを装っているが気配りのできる男だ。今も調練から戻ったばかりなので埃まみれの自分が長居せず、かつ劉備が空いているか先に確認し、客人を待たせないようにしたのだ。そのことをちらりと見ただけでこの青年は見抜いたようだ。
関羽は劉備のいる居室まで案内していたが、軽装に着替えた張飛が戻ってきて、
「大殿から広間の方に案内するよう仰せつかりました。こちらへ」
と、通常客人を通す広間の方へ案内した。張飛は後ろに回り、関羽、諸葛亮、張飛の順で歩いた。
広間の前で趙雲が立っていた。趙雲が頭を下げてから中へ声をかける。
「諸葛亮様がお見えになりました。」
「お入りいただけ」
張飛が扉を開け、関羽が先に中へ入り、横にさっと開き手を差し広げて奥へ進むように促した。
「さ、お進みくだされい。あれに見えますのが我が主人、劉備にござります。」
劉備は膝をつき拱手して待っていた。
関羽と張飛は二度見した。かつて数々の名士と会ってきたが、ここまで礼を尽くした態度で迎えたことはなかった。
「ややっ!劉備様、そのようなことはお止めくだされい!」
諸葛亮が慌てて近づき、劉備の手を取り立ち上がらせた。
「ようこそおいでくださった、諸葛亮殿。司馬徽先生をはじめ、いろいろな方からあなたの名を聞いた。ぜひお会いしたいと思っていたのだが、会う勇気が出なかった。あなたの方から訪ねてくださり、まことにかたじけない。」
「勇気が出なかったですと?歴戦の勇者であられる劉備様が?」
「はい、周りの方々のお話を聞いて、我が陣営に加わって欲しいと思っていました。だが、私どもは劉表様の客分に過ぎない。拠って立つ地もない。兵も少ない。このような陣営においでくださらんか、というお話をしようもありますまい。」
関羽は、劉備がこの青年に陣営に加わって欲しいと思っていたことを初めて聞いた。張飛も同じようだ。どんぐり眼をさらに丸くして驚いている。
「劉備様は今の境遇を嘆いておられますか?」
「情けないとは思っております。」
「そうとも言えますまい。黄巾の乱以来、天下は乱れ、各地に名乗りを上げる将軍が数多ある中、いろいろな者たちが消えていきました。劉備様よりも勢力が大きく、天下を取るのではないか、とまで言われる者たちがたくさんいました。実際董卓は一時世を治めるかの如くの勢いでしたが、呂布に討ち取られました。その呂布も曹操に討ち取られた。董卓討伐の戦の最中、孫堅は討ち死にし、袁術も死に、天下に一番近いとされた袁紹でさえいなくなり、袁紹一族はもはや風前の灯です。他にも名を挙げればきりがない者たちが次々と消えていく中、劉備様はしっかりと生き延びております。しかも少ないとはいえ将兵は減るどころか少しずつ増えておられる。これを私は情けないとは思いませぬ。むしろ驚異的なことと思いまする。」
そういう見方もあるのか、と関羽は驚いた。関羽も自分たちがうだつが上がらないと思っていたが、この青年は全く逆の目で自分たちのことを見ていたのだ。
「ただ必死に足掻いてきた結果です。私には過分な将がおります。今ここにいる関羽、張飛、趙雲の三人はそれごれ五万の軍も率いることができましょう。しかし私についたばかりにわずかな一部隊を率いるばかり。願わくば、この者たちに存分の働きができるくらいまでにはなりたいと思っておるのですが...」
「それがお望みですか?」
劉備の眉がわずかに動いた。関羽は劉備がその程度の志であるはずがないとわかっている。張飛はもちろん、趙雲もだ。何せ関羽と張飛はその志を聞いて劉備についていくことを決めたのだ。劉備はなんと答えるのか、関羽はひどく緊張した。
「劉備様がご自分の配下に存分の働きを、と思われる真意はどこにあります?」
劉備は諸葛亮の目をまっすぐに見た。
「失礼した諸葛亮殿。私は天下を穏やかにしたいと思っております。その一念で今まで駆けてきた。今はこのような有様ですがその思いは変わりませぬ。皆にもそのような大それた思いを抱く大将のもと、曹操や袁紹などと対等に渡り合い、存分に働いてもらいたい、と思っております。」
劉備の真っ直ぐな気持ちを聞いた。ここは素直に思いをぶつけたようだった。諸葛亮はどう返すのか。
「失礼ながら劉備軍6,000でどう渡り合うおつもりか?私は確かに驚異的だと申し上げましたが、今のままでは事態は好転しますまい。」
「その気になれば兵はもう少し集まると思っております。だがそれをすると劉表殿、というよりも蔡瑁あたりに警戒され不穏な事態になりましょう。だが北は曹操、東は孫権が力を伸ばしており、私も今後の策が思い浮かばんのです。劉表殿に曹操を後ろから脅かすよう何度も進言しておりますが、首を縦にふらん。」
劉備は本当に困った顔をしている。関羽にも策はない。このままここ荊州で埋もれていくのか。
「ふむ、劉備様の言う通りですな。曹操はいよいよ袁紹の遺児たちの征伐の仕上げに入ろうとしております。遼東へ出兵するようです。ここまでくれば華北は曹操が完全に押さえましょう。東では孫権が兄の孫策の広げた領地を確実に固めており、こちらももはや容易く揺るがすことはできますまい。されば劉備様にはこの荊州の地を足がかりとして西の益州を取られませ。益州を取ったのちは涼州、雍州を合わせ中原をにらむのです。およそ天下は三分され、孫権と同盟して曹操にあたり、曹操を屠ったのちは孫権と雌雄を決するのです。」
「それは…!」
劉備は絶句した。関羽も言葉が出ない。張飛はどんぐり眼をこれ以上ないほど丸くさせている。この荊州からどうすればいいのかと考えていた。しかも客分だ。この地を支配しているわけでもないため、先が見えなかった。しかしこの青年は、この荊州は単なる足がかり、西に目を向けそこに地盤を作り曹操、孫権と五分に渡り合う、と言う。思いもしなかった。関羽は先も見えない暗闇に一筋の光明が見えた気がした。
「よく、よくわかった、諸葛亮殿。」
劉備も少し興奮しているように関羽には見えた。
「わしはこの荊州の地で朽ち果てていく気がしていた。だがまだ道はあるのですな!?」
関羽は二人のやり取りを聞き漏らさぬように、戦の時以上に力が入った。
「劉備様、道などいくらでもあります。しかし、ここが限界、これ以上は無理だ、などと言っていればそれがそのまま現実になりましょう。」
「諸葛亮殿!ぜひ我が陣営に加わってくださらぬか!?我らは戦はできる。だが今先生が仰ったような戦略を立てるのが苦手だ。荊州の中だけでしか考えられなんだ。荊州は足がかりで本拠は西、さらに北も押さえて版図を広げて渡り合う、など思いも及ばない。これからもいろいろ策を巡らせねばならん。関羽や張飛、趙雲らが存分の戦ができるよう、我らの知恵袋となり一緒に戦ってくだされい!」
関羽は期待やら不安やらが混ぜこぜになった気持ちになり、戸惑った。諸葛亮という青年の話は目から鱗だった。そんなことを考えたこともなく、考え付くこともなかった。だが劉備が諸葛亮を熱烈に求めている姿を見ていると、なんだかしんどい気分になってしまう。そこまで辞を低くして参画を請わねばならぬのか?諸葛亮という青年の力量はまだわからないが、今のような話を聞かされれば非凡な能力があるとはわかる。複雑な気持ちになった。
「少し考えさせていただけますか。もとより私も陣営に加えていただきたく馳せ参じたのですが、ここにおられる他の方々のご意見も聞かせていただけないかと思います。」
「ここにおる者どもに否はない。皆わしと心を同じくする者たちだ。」
「劉備様にそう言われれば反論のしようもありますまい。突然ふらりと現れて、生意気な口を叩き、いきなり共に戦おうと言われても戸惑いましょう。」
関羽は自分の気持ちを見透かされた気がした。この青年と付き合うのは骨が折れそうだと感じた。鋭敏すぎるのだ。こちらは常に警戒するような緊張感を持って接せねばならない。悪い男ではないとわかるが、少々気疲れをしてしまう。
「俺は構わないぜ。考えるのは苦手だ。見たところ腕っぷしでどうこうしようという型の人間ではあるまい。俺たちを存分に働かせてくれる戦法を考えてくれるってんなら歓迎しようじゃないか」
張飛は相変わらず単純な考えだが、その通りだと納得する。趙雲も同意している。
「関羽はどうだ?」劉備に促されて、ここは正直な気持ちをそのまま伝えようとと思った。
「我々が苦手なところを補ってくれる人材と見ました。しかし我々は客分の身に過ぎませぬ。諸葛亮殿が思っているような動きに制約がかかるやもしれませぬ。苦労も伴いますぞ、それでもよろしいのか?」
「皆様のこれまでの動きは把握しているつもりです。この荊州に落ち着かれてからの動き、置かれている立場も存じ上げているつもりです。そのうえで私はここへ参りました。関羽殿のご心配、ご無用にこまざりまする。」
「承知いたしました、諸葛亮殿。それでは大殿、我らに異存はござりませぬ。」
「ん、でほ諸葛亮殿、明日からでも出仕いただきたいが。」
「家の整理に3日ほどいただけませぬか。大した物もないのですが、近所の者たちとのことも含め全て整理しておきたいものですから。」
「承知いたした。では出仕を楽しみにしております。」
「劉備様を蜀の地から天下を臨める場所まで引き上げられるよう、全力を尽くします。」
孔明は拱手し、深々と頭を下げた。それから関羽、張飛、趙雲にも拱手し、下がっていった。
「兄上には随分とあっさりとお信じになられたようですな?」
「あの者のことは調べてあった。我が陣営にぜひとも欲しいと思っていたが、どうやって見極めようかと思っていたところへ思いがけず向こうから来てくれた。これは天啓ではないかと思ったものだ。会ってみて確信したよ、これは天が使わした導き手だと。」
「大兄貴が言うなら俺たちは信じるさ。俺たちの軍の至宝になってくれりゃ万々歳だ。」
「兄上、諸葛亮殿は“荊州を足がかりに“と申しておりました。我らは客分に過ぎませぬ。劉表殿はもうお年です。実権は蔡瑁が握っております。それで付け入る隙があるのでしょうか?」
「そこは孔明が出仕してから明らかになろうよ。兵の調練は怠るなよ。これから状況が目まぐるしく変わろうぞ。」
「承知いたしました!」
張飛は腕が鳴る、と嬉しそうだ。関羽は鬱屈したこの状況が打破されるならこんな晴れ晴れしたことはない、と明るい気持ちを持とうと思った。
窓から入る荊州の風が、とても清清しく感じた。