8.背中を押してくれたもの
朝起きたら、気のせいか喉が痛かった。ここミルファは祖国テルミナより温暖だし、薄着でも寝冷えするようなことはないのに。
昨日、少しお喋りが過ぎたかな。あとで、喉にいいハーブティーをいれてもらおう。
そう思いながら、メイドを呼ぶ。コリン公爵家から一緒にやってきた、人間族のメイドだ。
メルティンのおかげもあって、獣人族のメイドともかなり仲良くなれた。けれど、身支度の時だけはまだ人間族のメイドに頼んでいる。
獣人族のメイドたちが「奥方様は華奢過ぎて、うかつに触ったら壊しそうで怖い」などととんでもないことを言っているのだ。まあ、今のところ困っていないし、強制するつもりもない。
「……ラーライラ様は、すっかりこちらでの暮らしになじんでおられますね」
私の着替えを手伝いながら、人間族のメイドが笑顔でそうつぶやいた。
「私たちも、お二人のことをお似合いのご夫婦だって思ってるんです。それに、この城の獣人族の人たちも、みんなよくしてくれて」
彼女たちも、それぞれ城の獣人族と交流している。それぞれの国の違いを話し合ったり、料理を教え合ったりしているらしい。中々に刺激的で、楽しいのだそうだ。
しみじみと微笑んでいた彼女が、不意に私に呼びかけてきた。
「いっそ、ラーライラ様の正体をギルディス様に打ち明けてしまわれてもよろしいのでは、と思うのですが……あのかたなら、きちんと説明すれば分かってくれるのではないかと。ミルファでは、身分はそこまで意味を持たないようですし」
彼女の言う通りだ、と思った。でも一つだけ、確かめなくてはならないことがある。
「ええ。……でも、一つ気になることがあるの。ギルディス様が、どうして『マナ・コリン』を妻にと望んだのか……」
彼は、これは政略結婚だったのだと言っていた。ならば、コリン公爵家の娘であるマナでなければならない理由があったのかもしれない。
そしてその理由によっては、私は彼のそばにいられなくなるかもしれない。そう考えたとたん、胸がぎゅうっと苦しくなった。
朝食後、ささっと書類を片付けてから、いつもの手合わせ。なんだか体が重い。集中していないと、ひざをついてしまいそうになる。
「どうした、調子が悪いようだが」
「最近忙しくしていましたから、疲れが出たのかもしれません」
首をかしげながら、昼食。気のせいか、味が薄い……というか、苦い?
いつもとってもおいしい食事が、なんとも妙な味になっている。失敗作かな、と思ったけれど、向かいのギルディス様はいつも通りに幸せそうな顔で食事をとっていた。
昼食の後は、また書類仕事……おかしいな、文章の内容がちっとも頭に入ってこない。えっと、この場合はあの法律を適用して……それから、何だっけ。
鈍った頭を懸命に動かして、必死に考える。と、額にひんやりとしたものが当てられた。
「おかしいと思ったら……お前、熱があるぞ。それも、かなりの高熱だ」
ギルディス様が私の額に手を当てて、心配そうにのぞき込んでいた。言われてみれば、さっきからやけに頭がほわほわするような。
「今日の手伝いはもういい。治るまで、ゆっくり休め」
彼は私の手から書類をさっと奪い取ると、そのまま私の手を引いて立たせる。さっとかがんだと思ったら、私をしっかりと横抱きにしていた。
「あの……自分で、歩けますから」
「病人は黙っていろ。ほら、部屋に戻るぞ」
そうして有無を言わさずに、部屋まで運ばれてしまう。恥ずかしいという気持ちよりも、ふわふわして何だか幸せだなあという気持ちが勝ってしまっていた。
ぼんやりしていたら、寝台に放り込まれた。寝具をかけられたら、急に眠くなってきた。
「急ぎ、薬を持ってくる。だが、まずはたっぷりと眠るのが先だな。……ゆっくり休め、ラーライラ」
そんなギルディス様の声を遠くで聞いているうちに、すっと意識が遠のいていった。
それから、記憶があまりない。とろとろと眠って、目覚めて食事をとり、薬を飲んで、また眠る。
今日で何日目かな、と考えてはみるものの、どうにも思い出せない。途中で、医者らしき人物が来たことだけうっすらと覚えている。
ほんの少しではあるけれど、徐々に良くなっているのを感じるから、いずれ元気になるだろう。そう思いながら、やはり延々と眠り続けていた、ある日のことだった。
なんだか、気配を感じる。動き回ってはいないし、ほとんど音もしない。でも確かに、誰かがすぐ近くにいる。
ゆっくりと目を開けたら、夜だった。枕元の小さなランプと、窓から差し込む月の光以外に、明かりはない。
首だけを動かして、気配がしたほうを見る。私の寝台のすぐ隣に置かれた椅子に、ギルディス様が座っていた。というか、うなだれていた。
「……ギルディス、さま……?」
眠り過ぎで少しひび割れた声で呼びかけると、彼はのろのろと顔を上げてこちらを見た。その顔は、いつになくしょんぼりしてしまっている。
「起こしてしまったか、すまないな」
「あの、どうして、あなたがここに……それも、こんな夜に」
さらにそう問いかけたものの、返事はない。どうしたものかと思っていたら、彼はまたうつむいてぼそぼそと話し始めた。
「……前に、お前をここに残して出陣したときに、俺はお前のことばかり考えていた」
力のないその声とその内容に、驚かずにはいられなかった。
「今はどうしているだろうとか、お前と手合わせがしたいとか。いつの間にか、お前と日々を過ごすのが当たり前になっていた。そんなことを思い知らされた」
ひどく悲しげに、彼はつぶやく。けれどその言葉に、私はちょっぴり嬉しさを感じていた。
「そうして無事に帰宅し、これでまたお前との平和な日常が戻ってきたと、そう思っていた。だがお前はこうして、病に倒れてしまった」
絶望しきったような彼の態度が気になって、そろそろと尋ねてみる。
「あの、私の病状って、そんなに悪いの……ですか?」
「いや、ただの過労だ。薬をきちんと飲んで休んでいれば、じきに良くなる」
なあんだ。確かに、たっぷり寝たおかげでちょっと頭は軽くなったかも。そっと身を起こしたら、ギルディス様が下を向いたままぼそぼそと言った。
「……つまり、ここまで体調を崩すほど、お前は疲れてしまっていたということだ。人間族がここまでもろいとは、思いもしなかった」
「いえ、単に慣れない他国での暮らしのせいかと……」
そう抗議してはみたものの、彼は聞く耳を持たないようだった。相変わらずどん底まで落ち込んだ様子で、ぶつぶつとつぶやいている。
「だからこそ、だ。俺はなんだかんだでお前の一番近くにいた。お前の体調不良に、もっと早く気づけた」
「あの、ギルディス様がそこまで責任を感じなくてもいいかと……」
「……俺は、お前の夫だ。俺にとってお前は、かけがえのない存在になっていた。だからこそ、気づかなかったのが悔しくてたまらない」
嬉しいような、ちょっと落ち着いてほしいような。
とりあえず、あの落ち込んでいるのだけはどうにかしないと。あわてながら、寝台のすぐ隣に座るギルディス様に手を伸ばし、そっと袖をつかんだ。
すると彼は、弾かれたように顔を上げ、私を見た。
「もう、過ぎたことです。だいたいそれを言うなら、自分の体調の変化に気づいていなかった私のほうが間抜けじゃないですか」
明るくそう言って、軽く頭を下げた。
「……お見舞いにきてくれて、ありがとうございます。何だか、すぐにでも治りそうな気がしてきました」
「ラーライラ、全くお前というやつは……」
ギルディス様は、ちょっぴり泣きそうな顔で笑っている。けれどじきに、何かを決意したような顔で息を吐いた。
「……俺とお前は、夫婦だ。助け合い、支え合っていく関係だ。だったら、変に隠し事などしないほうがいいだろう」
彼の言葉が、思い切りぐさりと胸に刺さる。彼が何について話しているのかは分からないけれど、私には特大の隠し事がある。
……こないだ、メイドが「打ち明けてみたらどうでしょう」と言っていたけれど……本当に大丈夫だろうか。
まだ打ち明ける勇気が出せず、口ごもる。
と、ギルディス様が帽子に手をかけた。初めて会ったその時から、頭にくっついているんじゃないかってくらいにいつでもかぶりっぱなしの、大きな帽子。
そうして彼はおもむろに、帽子を外した。