7.初めてのお留守番
毎日が忙しく、充実していた。マナのお守りがない分、コリンでの日々よりも気が楽だったし。それに、ギルディス様と一緒だったから。
しかしある日の午後、緊急で届けられた書類を見たギルディス様が、一気に険しい顔になった。
「……また、小競り合いか」
そうして彼は、ここミルファの現状について説明してくれた。
獣人族には、とにもかくにも力で解決しようとする傾向がある。
そしてそのせいで、ちょっとした喧嘩や、統治者へのささやかな陳情だったはずのものが、気づけば集団対集団の戦いにまで拡大してしまいがちなのだとか。
「平民同士の争いであれば、俺が出るまでもなく衛兵たちがどうにかしてくれるのだが……今回は、侯爵と伯爵が正面からにらみ合っている」
「侯爵と伯爵が正面衝突、ですか……テルミナでそのような事態になったら、内乱と呼ばれますね。めったにない、一大事です」
「ところがミルファでは、またいつものか、で済まされる程度のことだ」
さらりとギルディス様が口にした内容に、頭を抱えそうになる。テルミナとミルファ、人間族と獣人族には、思っていた以上に違いが多い。
「というわけで、俺もいつも通りにこの件を片付けてくる。少し、留守にするぞ」
「あの、片付けるって、具体的には何を……」
「簡単だ。配下ともども、にらみ合いの現場に突っ込む。そうして、両陣営を叩きのめせば終了だ」
力技だ。説得とか、そういうのはないのだろうか。考え込む私の肩に、ギルディス様がぽんと手を置いた。
「何、俺はずっとお前と手合わせをしてきたからな。おかげで、ずいぶんと強くなれた。さっさと片付けて、すぐに戻る。それまで、この城を頼んだぞ」
「はい……」
私の声がちょっぴり暗くなっていることに、ギルディス様は気づいていないようだった。
そうしてその日のうちに、ギルディス様は旅立っていった。城にいる使用人たちの、一部だけを連れて。道中、彼の配下の兵士たちとさらに合流するらしい。
城門のすぐ内側で、どんどん遠くなる彼らの背中を見送る。
「……どうか、ご無事で……」
ギルディス様は、とても気軽な態度のまま出陣していった。城のみんなも、全く緊張していなかった。つまりそれだけ、今回の仕事は楽なものなのだろう。
それでも、祈らずにはいられなかった。彼が無事に戻りますように、と。
ほんの少し重い足取りで、居間に戻る。食後などに、ギルディス様と一緒にくつろぐその場所には、誰もいないはず……いや、いた。
「ラーライラ様、見送りは終わられましたでしょうか? 外の風に当たって冷えてはおられませんか? お茶をどうぞ」
「心配しなくても大丈夫ですよ。ギルディス様は、この城で一番強いお方です。この城の全員と戦った私が言うのですから、間違いはありません」
そこにいたのは、イリアエとメルティンだった。イリアエはおっとりと、メルティンは生き生きと声をかけてくる。二人とも、一足先にお茶を飲んでいた。
「ありがとう、いただくわ。……ところで、二人がここでくつろいでいるって、珍しいわね?」
獣人族は、人間族ほど礼儀を気にしない。だから使用人が鍛錬場に乱入してきたり、中庭で堂々とくつろいでいたりなんてことも起こる。最初は驚いたけれど、もう慣れた。
でも、他の使用人たちと同様に気ままにふるまっているこの二人は、なぜか居間には長居しない。お二人の時間を邪魔したら悪いですから、とか何とか言って、すぐにいなくなるのだ。
「私たちは、お留守番のお供をしにまいりました」
「ギルディス様、あれで乙女心には疎いですから。ラーライラ様をここに残して、これで安全だって思ってるんでしょうが……ラーライラ様は、やきもきしてらっしゃいますよね」
礼儀正しく会釈するイリアエに、思わせぶりに笑っているメルティン。そして私は、メルティンの言葉に反論できなかった。
「できることならついていきたいって、そう思われていたんじゃないですか? ラーライラ様は、この城の中でもかなり強いほうに入っておられますし」
彼女の言う通りだった。本当は、私も連れていってくださいって言いたかった。けれどあのときのギルディス様の態度からは、その言葉を拒むようなものが感じられたのだ。
「おや、メルティンさん。かなり強いほう、ですか。私からすると、ラーライラ様はもっと上……ギルディス様といい戦いをできるところまで来ておられるように見えるのですが」
「はい、イリアエさん。純粋な戦闘能力だけなら、その通りですね」
灰色の耳を得意げにぴんと立てて、メルティンが堂々と語る。
「ですがラーライラ様は獣人族相手の立ち回りに慣れておられません。そもそも、実戦経験がないように思います。打ち込みのときの気迫が、やはり違うんです」
そこまで話したところで、メルティンがくるんとこちらを振り向く。明るい笑みを浮かべて。
「それこそが、ギルディス様があなたをここに置いていった理由なんです」
「つまり、私はやっぱり足手まといということなんですね……」
ここミルファでは、とにかく戦いが多い。そして老若男女身分を問わず、みな戦いは得意だ。私も身のこなしには自信があったけれど、実戦経験はさすがにない。
ギルディス様の役に立ちたかったのになあ。そんな思いを、ため息に乗せて吐き出す。
「……ラーライラ様。違いますよ。足手まといだから、じゃないんです」
そんな私に、メルティンがひどく優しく声をかけてきた。続いて、イリアエがほっとするような穏やかな声で説明してくれた。
「大切な、しかし戦には不慣れな妻を戦場に連れ出して、もしものことがあったら大変だ。守りの堅い城に残しておけば安心だ。ギルディス様は、そう考えられたのですよ」
「だってギルディス様、私とイリアエさんにわざわざ命じたんですよ。『俺が戻るまでの間、ラーライラの身を守れ』って」
「それと、奥方様が退屈しておられるようなら、話し相手になるようにとも」
「とにかく、ラーライラ様が少しでもいつも通りに過ごせるよう、ギルディス様なりに一生懸命考えたみたいですよ」
二人の言葉に、胸がいっぱいになる。ギルディス様が、そんなことを考えていたなんて。獣人族の妻であれば、きっと夫の隣に立ち、共に戦場を駆けるのだろう。
けれどそれができない私を、彼は気づかってくれている。大切に、守ろうとしてくれている。
感動してしまって、言葉が出ない。無言で立ち尽くしていたら、メルティンが手を引いて椅子に座らせてくれた。そしてイリアエが、空いたカップにお茶を注いで差し出してくる。
「どうぞ、奥方様。心を落ち着ける、特製のハーブティーです」
「私はちょっと眠くなるので、昼間は飲まないんですけれどね」
カップを受け取り、口をつける。日なたの草のような、それでいてほのかに甘い香り。そして目の前には、笑顔の二人。
ギルディス様がいないこの時間を、どうにか耐え抜けるような、そんな気がした。
ちなみに、この後私は二人に頼み込み、実戦における心構えをみっちりと学んだのだった。心を落ち着けるハーブティーを飲んだはいいものの、少しも眠くならなかったし。
「勝負を決めるのは、やはり勢いと気迫ですね。ひるんだら負けですよ、ラーライラ様」
「私たち獣人族は頑丈ですから、安心して殴ってください」
「あ、それと、私たちの動きもよく見ていてくださいね。私が狼でイリアエさんが馬、どちらも割と多い種類ですので、練習にはちょうどいいですよ」
二人はやはり笑顔で、そんな物騒なことを言っていた。