5.二人の距離は少し縮まって
ギルディス様に連れられて意気揚々と彼の執務室に入った私は、見慣れないものの存在にちょっと目を見張った。
彼の執務机、そのすぐ近くに別の机と椅子が置かれている。机はそこそこの大きさがあり、椅子は中々に座り心地がよさそうだった。そして、机の上にはペンと紙も置かれている。
前に、ギルディス様の執務を見学していたときに使っていた小机と椅子とはまるで違う、しっかりとしたものだ。
「執務を手伝うのなら、これくらいのものは必要だろう。お前に声をかける前に、運び込ませた」
驚きを隠せずに机を眺めている私に、ギルディス様が悠然と言い放った。
「見とれている場合ではないぞ、ラーライラ。あれだけ俺の執務を手伝いたがっていたのだ、それなりにはこなせるのだろうな?」
「はい、頑張ります。ミルファの法についても一通り目を通しましたから、全くの足手まといにはならないかと」
「ふっ、もし難しいようなら遠慮なく聞くといい。お前は初心者だからな、俺が教えてやろう」
そんなやり取りの後、それぞれ席について仕事に取りかかった。
「……お前、何者だ?」
「テルミナの公爵家の娘で、今はあなたの妻ですが」
作業を始めてから、二時間ほど経ったころだろうか。ギルディス様が困惑しきった顔で尋ねてきたので、素直にそう返す。
「……質問を変える。テルミナの貴族の娘がおかしいのか、お前がおかしいのか」
「おかしい……ですか?」
「ああ。お前は武勇に優れるのみならず、不慣れなはずのミルファの書類仕事にもあっという間に慣れた。俺が思っていたより、お前は遥かに有能だ」
あ、褒められた、嬉しいな。そう思っていたら、彼は眉間に深々としわを刻んでしまった。
「もしテルミナにこんな娘がごろごろしているというのであれば、俺は認識を改めなくてはならん。二国間の関係も、変わりかねない」
「ごろごろ……はしていないと思います」
とっても真剣に考え込んでいる姿がおかしくて、ちょっぴり微笑みながらそう返す。
「普通の令嬢は、たしなみ程度の護身術を身につけることはあっても、私のように全力で戦う経験は積みませんし、書類仕事についても一切覚えない者もいますから」
話しながら、またしてもマナのことを思い出していた。彼女は護身術どころか、体を動かすのも好きではなかった。護衛をつければいいだけじゃない、と言って。
というか、その護衛って私のことだったのだけれど。テルミナでは女性は騎士になれないから、今彼女の護衛をしているのは十中八九男性の騎士だ。
あの子、またごねていないといいのだけれど。むさくるしいですわ、とかなんとか叫んでいそうな気がする。
そして書類仕事に関しては、テルミナの令嬢たちの間でも色々な考え方があった。
いずれ夫の仕事を手伝うのだと言って学問に勤しむ者、それよりも社交などの分野で夫の役に立てばいいじゃないと考えている者、そもそも領地の統治は全部夫任せにするつもりの者など。
マナは「公爵家の血を引くわたくしがにっこり微笑んでいたら、だいたいはうまくいくわよね?」という、ある意味間違いではないけれど、理解はしがたい考えの持ち主だった。
そんな物思いを、ギルディス様の感心したような声が打ち破る。
「つまり、お前がとびきり変わっているということか……肩書だけで求めた妻だったが、悪くない……いや、いい拾いものだった」
その言葉に、ちょっと胸が苦しくなる。武術も学問も、私が努力の末に身につけたものだ。それを彼は、こうして認めてくれている。
それは嬉しいけれど……彼が求めた肩書だけは、私は持っていない。それを持っているのは、私ではなくマナのほうだから。
彼がどうして『マナ・コリン』を求めたのか、その理由を知りたいと思う。でも同時に、知らないほうがいいのかもと思った。その理由が重大なものだったなら、私は彼に対して裏切りを働いているような気持ちになってしまうから。
「さて、そういったわけで、今日の執務はやけに早く終わったのだが」
考え込んでしまっていたら、ギルディス様の明るい声が聞こえてきた。
「いつものように手合わせをしてもいいのだが……せっかく時間があるのだ、一つ聞きたいことがある」
そう言って彼は、視線を落とす。彼は私の手首、そこにはまっている魔導具をじっと見つめていた。
「一度、じっくりとそれを見てみたくてな。……触れてもいいか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
今外しますから、と私が言うより先に、ギルディス様は私の左手をしっかりとつかんでしまった。そうして手首に顔を寄せ、動物みたいに匂いを嗅いで……。
彼は本当に、魔導具を確認しているだけなのだろう。それは分かるのだけれど、とんでもなく恥ずかしい。
だってだって、さっきからギルディス様の吐息が手のひらに当たる! くすぐったい!
そんな時、執務室の入り口の扉がノックされた。ようやく解放されるかと思ったのも束の間、ギルディス様は私の手を捕まえたまま、入れ、と声をかけていた。
やってきたのは老齢の執事であるイリアエと、若いメイドのメルティン。イリアエは馬の獣人で、メルティンは狼の獣人だ。
この城にいる獣人族の使用人たちは、私と私が連れてきた人間族の使用人たちをはっきりと警戒していたし、今でもちょっと遠巻きに見ている。
けれどこの二人とは、割とすぐに親しくなれた。私が連れてきた人間族の使用人たちとも、そこそこ仲良くやっているらしい。
イリアエは妹が人間族に嫁いでいるとかで、最初からかなり友好的だった。
けれどメルティンは、こんなに弱そうな、それも人間族の娘がギルディス様の妻になるなんて、とごねていたらしい。だから彼女は、私が嫁いできたときの出迎えすら拒んでいたのだとか。
もっともその問題は、私が嫁いできたその日に、私の知らないところで勝手に解決していた。またしても、あの決闘のおかげで。
あれだけ強い女性なら、ギルディス様の妻として認めてもいいですねとか何とか、彼女はそんなことを言っていたのだそうだ。
「仕事の進み具合を確認しにまいりました。が……終わっておられるようですね。ラーライラ様が手伝われたと、そう聞いておりますが」
処理済みの書類の山を見て、イリアエが目を見張っていた。ちなみにこの城の人は、みんな私のことをラーライラと呼んでいる。
ギルディス様が獣人族のみんなにこの名を広め、それを知った人間族のみんな――当然ながら、私が替え玉だと知っている――もそれにならっていた。ちょっぴり私に同情するような、そんな表情で。
「私は、お二人にちょっと休憩してもらおうと思ってお茶を持ってきたんですが……小休止ではなく、ゆっくりとしたお茶の時間になりそうですね、ふふっ」
メルティンが、お茶の用意が載ったワゴンを押してきた。にやにや笑いを噛み殺しつつ。ふさふさの灰色の尻尾は、ご機嫌そうに揺れていた。
「イリアエさん、お邪魔したら悪いですから、私たちは大急ぎで撤収しましょう」
「そうですね、メルティンさん。書類も回収しましたし」
書類をメルティンと手分けして抱えながら、イリアエも意味ありげに笑っていた。頭の上にぴんと立つ耳を、小さく動かして。
「それでは、ごゆっくり!」
こちらが口をはさむ隙すら与えずに、二人はそう言って風のように去っていった。二人の視線は、私たちの手元に注がれていた。私の手をにぎったままの、ギルディス様の手に。
「あいつら、やけに急いでいたな? どういうことだろうか」
「あ、いえ、ギルディス様はお気になさらず」
彼はただ魔導具を見たいだけで、それ以上でも以下でもない。
でもはたから見れば、今の私たちは中々に仲がいい二人といった感じに映るだろう。だからあの二人は、私たちの邪魔をしないようにそそくさと帰っていったのだ。
そのことに、ギルディス様だけ気づいていない。彼らしいというか、何というか。
「それより、お茶にしましょう。せっかく持ってきてくれたのですから、冷める前に」
「そうだな。……ただ、もう少し触れていたかった」
ちょっぴり残念そうに、ギルディス様がつぶやく。あれはあくまでも、魔導具のことだから。そう自分に言い聞かせたものの、どんどん頬が熱くなる。
彼に背を向けて、お茶の支度を始めた。喜べばいいのか残念がればいいのか、すっかり混乱してしまった胸をそっと押さえて。
 




