4.拍子抜けの新婚生活
決闘から始まった私たちの新婚生活。それはやはり、思っていたのとはかなり違うものになっていた。
形としては政略結婚なのだけれど、ギルディス様とは意外と良好な関係が築けていた。
たぶん、いきなり決闘を申し込んだのが良かったのだという気がする。いまだに信じられないけれど。
ただなぜか、寝所は別だ。そしてあちらから通ってくるような気配もない。
逆にこちらから押しかけたらどうなるかなと思わなくもなかったけれど、それをやったら嫌われそうな気がするので止めておいた。一応、夫婦なのに。
そして今日も、私は執務をこなしている彼をのんびりと眺めていた。執務室に椅子と小机を持ち込んで、そこにちょこんと座って。
「ラーライラ、そう見つめられると仕事がやりづらいんだが」
「でしたら、私にも仕事を分けてください。二人で片付ければ、手合わせの時間をたっぷり取れますよ」
「お前の言う通りではあるんだが……そもそもお前、ミルファの法やら何やら、知らないだろう」
だいたいいつも、彼はこんな感じで煮え切らない。こういうときは、どうにも距離を感じる。手合わせのときは、逆に距離がとっても近い気がするのだけれど。
というか、暇だ。思えばここに嫁ぐ前は、学問に鍛錬にマナのお守りと、ずっと忙しくしていた。こんなにゆったりした時間って、いつぶりだろう。
ため息をつきつつ小机に頬杖をついていたら、ギルディス様がそろそろと声をかけてきた。
「……そんなに暇なら、書庫にでも行くか? ミルファについて書かれた書物ばかりで、あまり面白くもないだろうが」
「やった!」
つい勢いよく立ち上がってしまい、あわてて澄ました顔を作る。ギルディス様が不思議そうに首をかしげていた。
「ずいぶんな喜びようだな? というか俺の仕事を手伝いたがることといい、人間族の令嬢は仕事が好きなのか?」
「そうですね、人によります。私は単に、新しい知識を身につけ、自らを高めることが好きなだけです」
もし彼のもとに嫁いできたのがマナだったら、仕事を手伝うどころか執務室に入ろうともしなかったし、書庫なんて言葉を耳にしたとたんに逃げていただろう。
そんな想像をした拍子に、自然と笑みが浮かぶ。あの子、私がいなくなってちゃんとやれているだろうか。わがままを言ってみんなに迷惑をかけてなければいいけれど。
「自らを高める、か。その気持ちは分かるな。とはいえ、獣人族はどうしても武術に重きを置きがちだが」
苦笑しながらギルディス様が立ち上がり、執務室の入り口に向かう。すれ違いざま、私に声をかけながら。
「案内してやる、ラーライラ」
上からのいたずらっぽい流し目に、ちょっとどきりとする。
私は女性の中では、やや背が高い部類に入る。けれどギルディス様は、その私より頭一つ分くらい大きい。こんな風に誰かを見上げることなんて、あまりないので新鮮だ。
彼の背中を見ながら、廊下を歩く。ぱっと見は細身なのに、きちんと筋肉がついていて均整が取れたいい体つきだ。他の獣人族のように薄着になってくれたら、もっときちんと確認できるのだけれど。
彼は相変わらず、帽子を外さない。そして、きっちりと服を着こんでいる。その謎は、まだ解けていない。
こうやって一緒に過ごせば過ごすほど、彼のことがあれこれと気になってくる。妻としては当然のことなのかもしれないけれど、自分のそんな感情にちょっととまどいもある。
私も年頃の貴族の娘だし、そろそろどこかに嫁ぐことになるんだろうなとは思っていた。それに、時々貴族の令息と引き合わされることもあった。
けれど彼らには、びっくりするくらいに興味が持てなかったのだ。だから、こんな風に気になるのはギルディス様が初めてだ。
……たぶん、だけれど……あの決闘の時に、私は彼に魅せられていたのだと思う。それしか考えられない。
「着いたぞ。ここだ」
考え事をしていたら、ギルディス様がいきなり立ち止まった。その背中に顔面から突っ込みそうになって、ぎりぎりのところで踏みとどまる。
幸い、私が後ろでばたばたしていたことにギルディス様は気づいていないようだった。彼は取り出した鍵で扉を開け、中に入っていった。何食わぬ顔で、彼に続く。
「わあ……」
そこはたっぷり二階分の高さがある、広い部屋だった。突き当たりの壁には大きな窓が並び、外の木々でほどよくさえぎられた陽光が差し込んでいる。
この部屋は大きな吹き抜けのようになっていて、左右の壁と入り口側の壁にずらりと本棚が並べられている。
ちょうど一階分くらいの高さのところに、細い通路も設けられていた。入り口のすぐ近くに、通路に上がるための階段もある。
そして、全ての本棚にぎっしりと並べられた、豪華な本の数々。窓辺に大机があるから、そこで読めということらしい。
「ここの書物は、基本的には持ち出し禁止だ。だが中でなら、好きに読んでいい。覚え書きをしたいのなら、鉛筆を使え。ペンとインクは持ち込み禁止だ。書物が汚れるといけないからな」
てきぱきと説明を終え、ギルディス様は鍵を渡してきた。さっきこの書庫を開けるときに使った銀色の鍵で、首や腰に提げられるように鎖がついている。
「ここの鍵だ。退室後は、必ず施錠しておけ」
「ありがとうございます!」
鍵を両手で握りしめて元気よく礼を言う私を、ギルディス様はちょっぴり苦笑したような顔で見つめていた。
それからというもの、私はせっせと書庫に通い詰めていた。ミルファの歴史や文化、獣人族の生態など、人間族がほとんどのテルミナにいては分からないことが、これでもかというくらいに記されていたのだ。
これからここミルファで暮らしていくため、ギルディス様を妻として支えていくため。そんな大義名分を抱えてはいたものの、私は単に、楽しくてたまらなかったのだ。こうやって、知識欲を満たすことが。
三度の食事はギルディス様と一緒にとり、あとはひたすら書庫で読書三昧。午後になると、執務が片付いたギルディス様が顔を出すので、鍛錬場で手合わせ。そんな充実した日々を過ごしていた。
ところが、そんなある日のこと。
「おい、ラーライラ」
まだ昼前にもかかわらず、ギルディス様が書庫に顔を出した。しかも、やけに不機嫌そうな顔で。嫁入りの日、最初に私に向けていたのと同じような表情だ。
「何の御用でしょうか、ギルディス様?」
ひとまずいつも通りに、さらりと尋ねてみる。しかし彼は眉間のしわを深くして、すっと目をそらした。
「……お前が執務室に入り浸っているのは落ち着かなかったが、いないとそれはそれで落ち着かん。どうしてくれる」
「あの、どうしてくれると言われましても……」
もしかして、ただ難癖をつけにきたのだろうか。いや、彼はそういう微妙な嫌がらせをするような人ではない。
困惑しながら首をかしげていたら、ギルディス様が消え入るような声でつぶやいた。
「……お前も、それなりにミルファについて学んだだろう。ならば、手伝え」
何を手伝うのですか、と尋ねようとしたとき、彼がさらに小さな声で言った。
「……俺の執務を、手伝わせてやる。ずっと、気にしていただろう」
「えっ、本当ですか!」
自分でも笑えるくらいに、弾んだ声が出た。それを聞いて、ギルディス様が苦笑する。
「仕事を手伝えと言われて喜んだのは、お前が初めてだな。じゃあ、俺の執務室までついてこい。……いや、その前に、ここの片付けを手伝うとするか」
嬉しかった。いよいよ私の力、書類仕事の能力を認めてもらえそうだというのもあったし、それ以上に、また一歩ギルディス様に近づけたような気がしたから。
いずれ、私たちはちゃんとした夫婦になれるような気がする。そんな予感に、そっと微笑んだ。