37.夫婦水入らずの休息
アトルの城の外、明るい林の中。
丈の低い草と花々が生えた美しい草地に、私とギルディス様はやってきていた。すぐ近くには小川も流れていて、さらさらという水の音が心地よい。
「昔は、よくここに息抜きにきていたんだ。反子猫派の活動が活発になってからは、自然と足が遠のいていたが」
「護衛を連れてくればよかったのでは? メルティンとか、イリアエとか」
あの二人は、アトルの城の中でも一、二を争う実力者だ。だいたい、ギルディス様本人がとても強い。二人がついていれば、多少どころかかなりの人数に襲撃されたところで問題ないはず。
そう考えていたら、ギルディス様が草地のど真ん中に寝転がった。
「俺は、ここの静けさが好きなんだ。メルティンを連れてきたら台無しだろう。イリアエは静かだが、なんというか……あいつが黙って立っていると、こう、圧力のようなものが、な」
彼の言葉に、ついくすりと笑ってしまう。戦いのときはとても勇猛なあの二人、普段はそれぞれに個性的で、面白いのだ。
「それより、ほら、お前もこい」
草地にあおむけに寝転がったまま、ギルディス様が左手で隣の地面をばしばしと叩く。そろそろと近づいていって、隣に寝転んだ。
「ああ……空が青くて、辺りが静かで、隣にお前がいて……最高の気分だ」
「そうですね。こうやってあなたとのんびりできる……とても、安らいだ気持ちです」
などと答えつつ、そっと彼の手を握る。そして、彼の肩にこつんと頭を寄せた。
「……ラーライラ。そんな風に触れられると、俺も触れたくなるだろう」
ギルディス様が寝返りを打って、こちらを向いた。幸せそのものの、にこにこ顔だ。あ、この表情は、たぶん……。
「捕まえた」
そんな声とともに、彼がしっかりと抱きついてきた。
どうにも彼は、全身でぎゅっと私を抱きしめたがる癖がある。愛されてるなっていう実感があっていいのだけれど。
「……まだ昼間で、しかも屋外です」
「細かいことを言うな。どうせ誰も見ていない」
ちょっと照れくさくなって口ごたえしてみたら、即座にそんな言葉が返ってきた。私を抱きしめている腕に、さらに力をこめながら。
「だいたいお前、こないだ子猫の俺をさんざんなでまわしただろう。しかも、大勢の目の前で。あちらのほうが、よほど恥ずかしかったんだが」
彼が言っているのは、あの大騒動が片付いたあと、ギルディス様と話していたらいきなり彼が子猫になってしまった、あのときのことだ。
緊張から解放された私は、人前であることもお構いなしに、子猫のギルディス様を愛でて愛でて、愛でまくった。
「人間族は愛らしい猫を愛でるときに、ああいったふるまいをすることがあるんです。可愛すぎる猫が悪いんですよね」
さらりとそんなことを付け加えてみたら、ギルディス様が小さく笑った。
「俺を可愛いなんていうやつは、遠慮なく黙らせてきたんだが……やっぱりお前だけは、腹が立たない。それが悔しい」
そう言って、彼が黙り込んでしまった。と思ったら、私を抱きしめたままそっと起き上がった。
「……そんなに俺を愛でたいというのなら、愛でてくれ」
草地に座ったまま、彼は一度私から体を放す。そうして、間近から見つめてきた。
「め、愛でる……ですか?」
何をどのように愛でろというのか。大きな猫耳こそついているものの、彼は立派な成人男子で。
「あの……さすがにちょっと、恥ずかしい……です」
そう答えると、ギルディス様はぐっと眉を寄せた。
「子猫の姿の俺のことは、平気でなでまわしてもみくちゃにするのにか?」
「……かなり見た目が違うのですが」
「確かに、俺は愛らしいというよりは凛々しい、といったほうが正しいのだろうが……ほら、耳。尻尾。大きくなった分、触りやすくなったぞ」
時々お願いして触らせてもらうことはあった。ただ、この姿のギルディス様を、猫を愛でるのと同じようになでまわしたことはない。
「俺たちは夫婦。触れ合っていても問題ない。遠慮するな」
しかしギルディス様は、大変乗り気のようだった。ここは明るい林に囲まれているし、アトルの城からも見えない。ちょっとくらいはめを外しても、たぶん誰にもばれはしない。
そろりと手を伸ばして、猫耳をなでる。そのままついでに、髪もなでる。最初は優しく、それからわしゃわしゃと。耳の後ろを軽くかいてやると、ギルディス様はきゅっと目を細めた。……どこからどう見ても、完璧に猫だ。
「……前から思ってたんだが、お前、なでるのがうまいな」
「テルミナにいたころに、猫を飼っていたので……。それにしても見事な手触りですね。隠しておくのはもったいない」
ついそんな本音をもらしたら、ギルディス様がぴぴっ、と耳を動かした。
「ああ、それなんだが」
大きく笑みを浮かべて、まっすぐにこちらを見つめてくる。
「もうこれからは、帽子はかぶらない。他の獣人族と同じように、己の姿を誇りにして生きていく」
思いもかけない、けれどとても嬉しい言葉に、思わず手を止めて目を見張った。
「お前と出会えて、そう思えた。この前の戦いで自信がついた、というのもあるが……」
そこまで言ったところで、ふっと彼の顔がくもる。
「俺はずっと、王宮で息をひそめて生きていた。俺のせいで母上に肩身の狭い思いをさせていることが辛かったのもあるし、それ以上に……俺は、自分のことを認めてやれなかった」
いつも凛々しく堂々とした彼の、ひどく弱気な表情。それに、つい見入ってしまう。
「父上もレンも、いつも俺を励ましてくれていた。けれど、胸にぽっかりと穴が空いているような、そんな思いが消えなかった」
小さくため息をつき、彼は右手で胸元を押さえる。まるでそこに、穴があるかのように。
「どれほど鍛錬を積んでも、いくら学問を修めても、その穴は埋まらなかった。結局俺は、耳と尻尾を隠して、王宮から離れたアトルの城に移り住んで……俺は胸の穴から目をそむけて生きていくことにしたんだ」
と、彼の顔が険しくなった。申し訳なさと悔しさをぐちゃぐちゃに混ぜたような、そんな表情だ。
「……今だから、白状する。俺は人間族の偉い娘をお飾りの妻とすることで、安心を得ようとした。少なくとも俺は、人間族の連中よりは上だな、と。俺が申し出た縁組には、そんな意図もあったんだ」
初めて聞いたそんな内容に、ぽかんとしてしまう。まるでギルディス様らしくもないと、そんなことも思った。
「自分でも信じられないくらいに、醜い考えだ。だがそんなことを考えてしまうくらいに、俺は追い詰められていたのかもしれない」
語り続ける彼の顔に、ゆっくりと笑みが浮かんでくる。
「だが、そうしてやってきたお前は、こともあろうに初対面で決闘を申し込んできた」
その言葉に、二人同時に笑ってしまった。
「自分でも、めちゃくちゃなふるまいだったと思っています。ただ、後悔はしていません」
「そうだな。あの決闘があったから、俺はお前をただのか弱い女ではなく、興味深い存在だと思えたのだから」
晴れやかに笑う彼の目は、今日の青空と同じ、澄み切った青。
「お前を知って、近づいて。お前とともに、時間を過ごして。……気づけば、胸の穴はきれいに埋まっていた。だからもう、帽子はいらない。あれは、俺を偽るためのものだから」
そう言って、彼は私の手に頭をぐりんとすりつけた。ちょうど、猫がそうするのと同じように。
「それに帽子がなければ、いつでもこうやってお前になでてもらえる」
目を細めて彼の頭をなでながら、今度はこちらから言葉を返す。
「……私も、あなたのもとに来ることができてよかった」
彼が目を丸くしてこちらを見ているのを感じながら、視線をそらして語りだす。
「マナとの縁のおかげで、私は身分に釣り合わない高度な教育を受けることができました。学問も、武術も。珍しい魔導具まで、いただいてしまいました」
幼いころから、自らを磨くことが好きだった。色んな知識や技術を身につけ、より新しい自分になっていくのが楽しかった。
「けれどそれらは、きっと活かされることなんてないのだろうなと、そう思っていました。いずれどこかの貴族の妻となれば、それからは使用人の管理と客の応対ばかりを担当することになるのですから」
するとすぐ向かいから、あきれたような声が返ってきた。
「なんだそれは。お前ほどの人材をそんな風に使うなんて、宝の持ち腐れだ」
「ありがとうございます、ギルディス様。でも人間族の貴族たちの間では、それが普通なんです。だからこそマナのあのふるまいを、みんな大目に見ていたのですし」
マナの名前を出したとたん、ギルディス様がうえっ、と小声でうめく。
「……つくづく、あれが俺のところにこなくてよかったと、改めて心からそう思った」
「まあ、そこまで悪い子でもないのです。少々……かなり甘ったれで、怠け癖があるだけで。パーティーの席なんかでは、結構活躍していますから」
あの子が持っている、人たらしの才能。それがたまたま今回ばかりは、おかしな形で暴走しただけで。
小さく笑って、話をまた引き戻す。
「理解のある男性のもとに嫁ぐことができれば、領地の運営などには関われるかもしれない。でも、人妻となったらもう武術についてはあきらめるほかない。夫より強い妻なんて、前代未聞ですから。ずっと、そう考えていたんです」
ギルディス様は、何も言わない。ただじっと、青い目で私を見つめている。
「だから、身代わりの話が出たとき、いっそそれもありなのかもしれない、と思いました。面白みのない未来の代わりに、不確かだけど楽しいかもしれない未来をつかみにいくのもいいかもしれない、と」
順に語っていて、ふと気づく。この先は、ちょっと……。
「そうして、あなたと出会って……私も白状します、あなたの第一印象、かなり悪かったです」
「……参考までに聞かせてくれ。どういった具合だった」
そしてギルディス様がすぐに食いついてくる。覚悟を決めて、短く言い放った。
「偉そうで、威張っていて、女性を下に見ている」
「……まあ、間違ってはいなかったか。あのころの俺は、虚勢を張るので精いっぱいだったからな」
「でもその態度にかちんときて、ついうっかり決闘を挑んでしまったのですから、結果としてはよかったのかもしれませんよ」
「ああ、そうだな。出会ったいきさつには色々と問題があったが、俺たちはそれを乗り越え、こうして幸せな夫婦となれた。なんと幸運なことだろうか」
「ええ、そうですね」
そう答えたとたん、ギルディス様が座ったまま両手を伸ばしてきた。そのまま、彼のそばに抱き寄せられる。というか、ひざの上に座らされた。
「幸せだな、ラーライラ」
「幸せですね、ギルディス様」
小川のさらさらという音を聞きながら、私たちはただ黙って寄り添っていた。胸の内に、どうしようもない喜びがこみあげてくるのを感じながら。




