10.妻も秘密を打ち明ける
私が発した言葉に、ギルディス様は耳を疑っているようだった。大きな猫耳を、まっすぐにこちらに向けている。
「……離縁……? お前を……? どうして、そんな……」
彼は呆然とした顔でぶつぶつとつぶやき、考え込んでいた。やがて、はっと顔を上げる。
「……やはり、ミルファの暮らしは過酷だっただろうか? もう、テルミナに戻りたいということか? 確かに、ここに残るということは、それだけで危険を伴うからな……いや、あるいは俺のことが気に入らないのか……子猫では、仕方ないか……」
一気にしょんぼりしてしまったギルディス様に、あわてて声をかける。
「いえ、ここでの暮らしは楽しいですし、テルミナに未練はありません。身の危険なんて蹴散らしてみせますし、あなたのもう一つの姿も、かわいらしくて好きです」
すらすらとそう答えてから、また口ごもる。
言わなくては。打ち明けなくては。もうこれ以上、彼をだましていたくないから。彼の目的が達成されていないことを、伝えなくては。
「だったら、ずっとここにいればいい! 使用人たちも、みなお前に一目置いているぞ。それに俺は……お前がいなくなったら、寂しい」
まっすぐな彼の言葉が、胸に突き刺さる。ぐっとこらえて、口を開いた。
「けれど私は……マナ・コリンではないのです。私は、この縁組に恐れをなした彼女の身代わりとして送り込まれた、彼女の乳兄弟です」
向かいに座ったギルディス様が、きょとんとした顔で目を瞬いている。さすがに、私の言ったことがすぐにのみ込めていないらしい。
その隙を突くように、一気にたたみかける。
「私の本当の名は、ラーライラ・ニュイ。侯爵家の娘です。ずっとマナの面倒を見てきたということもあって、コリン公爵には懇意にしていただいています。けれど、やはり私の身分はマナより下なんです」
ああ、もうこれで戻れなくなってしまったな。胸がきりりと痛むのを感じながら、それでも平然と言葉を続けた。
「テルミナとのつながりを作るという点においては、私でも務めを果たせるでしょう。ですが、私があなたを守るための後ろ盾になれるかどうかは……厳しいところです」
彼を守るためには、強い後ろ盾が必要だ。私では、その役目を果たせない。そのことが、ただひたすらに悔しかった。
学問も武術も懸命に磨いてきたし、そのどちらもギルディス様に認められるまでになった。でも、血筋は、生まれだけはどうしようもない。
「あなたの妻として、私はふさわしくない。私は、あなたの足を引っ張ってしまいます」
それでも、ギルディス様は何も言わない。行儀悪く立てひざで座りなおし、じっとこちらを見つめていた。
うつむいて彼から視線をそらし、ぼそぼそとつぶやく。
「……一度テルミナに戻って、マナ本人と話をしてこようと思います。獣人族たちについて、ギルディス様について。私が見聞きしてきたものを伝えれば、彼女の心も変わるかもしれません。改めて、ここに嫁いできてくれるかも」
「それ以上聞きたくない」
冷ややかな声が、私の言葉をばっさりと切り捨てた。そして立て続けに、ギルディス様が尋ねてくる。
「そのマナとやらは、戦えるのか。知らない国について自分で調べ、学び取るだけの根性はあるのか」
思いもかけない質問に、少しだけ冷静さが戻ってくる。考え考え、ありのままを答えた。
「え、ええと……ないですね。あの子はダンスしか踊れませんし、勉強は嫌いです。どうしてもというときは、私にあれこれ押しつけてきましたし……」
「聞いているだけでうんざりするな。向上心のない者は、ミルファでは歓迎されない。俺は嫌いだ、そのマナとかいう女が」
鼻の頭にぐっとしわを寄せ、怒っているときの猫のような表情をしながら、ギルディス様はまっすぐに私を見た。
「それに、俺が気に入っているのは、添い遂げたいと思っているのはお前だけなんだ。今さら、よその女がやってこられても困る」
彼の言葉が、じんと胸に染みる。彼との間に信頼関係を築けただろうとは思っていたけれど、ここまで言ってもらえるなんて。
「それとも、お前は俺から離れたいと、そう思っているのか……?」
はっと何かに気づいたような顔で、ギルディス様がつぶやく。しかしすぐに、その顔は凛々しく引きしめられてしまった。
「……お前が俺を嫌っているというのなら、このまま帰してやる。だが少しでも俺に対して情があるのなら、俺は全力でお前をここに引き留めるからな。それこそ、決闘を挑んででも」
彼が私を手放したくないのだと、必死になっているのが分かる。けれどそれでも、私に返せる言葉は一つだけ。
「……私だって……できることなら、ずっとあなたのおそばにいたいです……でも、家の格が……」
「そんなもの、どうだっていい。ごちゃごちゃ言うやつが現れたら、遠慮なく叩きのめしてやれ。お前は強い。尊敬されるべき女だ。それで十分だ」
確かに、それはあり……なのかもしれない。隣国テルミナの貴族はこんなにも強いのだぞと示すことができれば、テルミナと縁続きになったギルディス様には有利に働くだろう。
実際、ここミルファでは、やはり力のあるものが優遇されるみたいだし。人間族のことも女性のことも軽く見ていたギルディス様や、そもそもが人間族嫌いのメルティンも、決闘一つで態度をころりと変えたし。
……もしかしたら、私はここにいてもいいのかもしれない。そんな希望が芽生え始めたとき、またある事に気がついた。
「あの、でも、既に婚姻にかかわる書類なんかが提出されてしまっているのでは……」
書庫の本は、まだ全部読んでいない。だから、ミルファでの婚姻制度がどのようなものなのか、私は知らない。……知りたくなくて、そういった事柄が記された本をつい避けてしまっていたから。
「ミルファでは、婚姻の際に書類はいらない。当人たちの合意があればいいんだ。記録として王宮に証明書を出す者もいるが、俺たちの分はまだ書いていない」
ギルディス様は、ちょっと得意げにそんなことを教えてくれた。ということは、彼の妻がマナ・コリンであることは、まだ確定していないの?
私が問いかけるより先に、ギルディス様は結論を出してしまった。
「……ならば、さっさと提出してしまうか。『ミルファの王子ギルディスと、テルミナの侯爵令嬢ラーライラ・ニュイは夫婦である』という書類を。それでいいな、ラーライラ?」
「あ、はい……」
拍子抜けするくらいにあっさりと、私の悩みは片付いてしまった。……どうしよう、嬉しい。まだちょっと、現実味がわいてこないけれど。
「結婚、か……そういえばあの花嫁衣裳、ろくに見ていなかったな。惜しいことをした」
ぽかんとする私に、ギルディス様はさらりとそんな言葉を投げかけてくる。そのことが嬉しくて、思わず息をのんでしまう。
「……私も、ちょっと寂しいなと思っていました。せっかくの可愛い衣装を、夫となる人に見てもらえないなんて、って」
あの日のみ込んだ本音を、そっと吐き出してみる。するとギルディス様は苦笑して、すっと手を伸ばす。私の頬にそっと触れ、優しい声でささやいてきた。
「あのころは、お前のことをあくまでも飾りの妻として、いわゆる白い結婚を貫くつもりだったからな。お前にうかつに近づかれぬよう、あえて突き放していた。そのせいで、花嫁衣裳を見る余裕すらなかった」
そして彼はもう片方の手で、私の手をそっと握る。
「俺の大切な妻、ラーライラ。あの花嫁衣裳、また着てみせてくれないか?」
「はい、喜んで。……あなたにきちんと見ていただける機会を得られるなんて、思いもしませんでした」
そうして、二人うっとりと見つめあう。私たちの間には、とても甘い、幸せな空気が満ちていた。……私が、うっかりくしゃみをするまでは。
次の瞬間、それまでは上機嫌だったギルディス様が顔色を変えた。そして私を押し倒して毛布をかけ始めるわ、メイドたちに薬草茶をいれさせるわ、大騒ぎを始めてしまったのだ。
「……私、ただの過労なんですよね?」
「ああ。だが、弱っているときに体を冷やすのはよくない」
意外な過保護っぷりを発揮したギルディス様は、私が薬草茶を飲み終えると寝台のすぐ隣の椅子に腰を下ろした。
「さあ、もう眠れ、ラーライラ」
そうして私を横たわらせると、彼は突然歌い出した。
この優しい旋律……たぶんこれは、子守歌だ。あまりなじみのない、ゆったりしたその旋律は、しかしとても優しく、心を揺さぶってくる。
その心地よさに、まぶたが重たくなってくる。とってもよく効くのね、この子守歌……。
意識が真っ暗になる直前、おやすみ、という穏やかな声が聞こえた気がした。




