06 夜の森の狼
赤ずきん視点
施錠されていない玄関の扉は簡単に開いた。
人の気配のない無人の家を見てまわりながら、ルーファスは思ったより気落ちしてる自分に気が付いていた。
森に入ると決めた時点で、この家を探し出して叔父を頼ることを選択したようなものだった。なのに肝心の叔父が行方不明とは。
しばらく人が入っていない室内も埃まみれで、ふさぐ気持ちに追い打ちをかけた。ガタゴトと鎧戸を外して、窓を開放していく。外の光が入り少しはましになるかと思えば、空気中を舞う埃がしっかり目に見えるようになり、さらに気が滅入った。
(落ち込んでる場合じゃない。今日の宿は必要だし、今後どうするかも考えなくてはいけない)
何日滞在するかはまだ決めかねているが、この家をしばらく拝借するのは決まったようなものだった。どうせならきれいな方がいい。
だが、一つ問題があった。
(掃除ってどうやるんだ……?)
整えられていた部屋でしか生活したことのないルーファスには、具体的な掃除の仕方はわからない。が、箒で掃くというのは知識として知ってる。
他の掃除道具というのは見当がつかなかったから、納戸に残された箒を見つけて手に取ってみた。
軽く床を箒でなでるように動かすと、それだけで薄汚れた白い埃が舞って、土埃の乾いた匂いが鼻先を刺激する。これは、扉をはじめ窓という窓を開け放って埃を外に出すしかないだろう。
とその時、開け放った窓の一つに、ガッと音がして何かが窓辺にとりついた。
一瞬、何が現れたのかと驚いたが、あの狼だった。窓枠にしがみついて身を乗り出し、のんきそうな顔でこちらを見ている。
その緊張感のない様子に、ルーファスは思わず笑った。
気持ちが軽くなってるのがわかった。
「お前、仲間のところに帰ったんじゃないのか? ここにきても何もないのに」
家の中にルーファス以外の人間がいないと判断したからか、それとも声をかけられたからか、狼は、タッと床に飛び降り、いたずらに足跡をつけて回った。
足についた埃を嫌そうに、水に濡れた猫みたいに足をふるっている。
その度に埃も舞った。このままでは黒っぽい毛皮の狼が、埃で白い狼になりそうだ。くすりと笑みが漏れる。
「これは掃除するしかないな」
埃の積もり具合はまだそこまで厚くない。人が去ったのはそれほど昔ではなさそうだ。
埃を払うのも、大仕事にはならないだろう。
巻き込まれるのを嫌って、狼は外へ逃げていった。
ルーファスの掃除が一通りおわった頃、狼はうさぎを一匹狩って戻ってきた。
掃除は不案内だったが、狩りの作法は一通り習っている。ルーファスはうさぎを捌いて、夕飯にすることにした。
部屋がきれいになると、狼は物珍しいのか、家の中を探索していた。
興味深そうに、ルーファスのやることなすことを眺め、ルーファスの話す言葉に耳を傾けてると錯覚するほど、人の意思をくむ狼だった。
まるで人間の言葉を理解してるようだ。
だから、狼が初めて大きな声で吠えたときルーファスは驚いたし、まるで呼びかけられてると錯覚した。
昨日から、片づけながらルーファスはこの家に残された前の住人達のものを探していた。
風見鶏を家の外にかかげること。それが空き家となったこの魔女の家を借りるためのルールだと、聞かされていた。
どういう方法か知らないが、ここに人が住んでいることを周囲に知らせることができるらしい。
その風見鶏を、狼が見つけてくれた。
床下の隠し場所に、金属でできたプレートと棒は話に聞く風見鶏で間違いなかった。
箒と同様に、風見鶏に触るのも、ルーファスは初めてである。
簡単な作りだったからどう組み立てたらいいのかはすぐにわかった。片方の棒についた穴に、もう一本の棒をとおし、上に風見鶏のプレートをはめ、完成させる。
あとは外にかかげるだけだ!
ルーファスはそれを持って家の外に向かう。
今は手の中で何も感じないが、魔女の持ち物なのだ、魔術具といえよう。日常品以外のマジックアイテムなど使うのは初めてだった。
魔女の風見鶏をかかげたら、どうなるのだろう。
期待と興味が湧きあがり明るい予感で満ちていた。扉を開けるまでは。
そこには見知らぬ貧相な恰好をした男たちが立っていた。
ヒュと息を飲むと同時に忘れかけてた緊張が戻ってくる。
反射的に扉をしめようとしたが、男が足をねじ込んできた。グイグイと足首から、膝、太ももと、足を押し込んでくる。近くに立てかけてあった箒をつっかえ棒にしようとしたが半端になった。これではすぐに折れそうだ。
ルーファスの力でなんとか持ちこたえられるわけがない。大人と子供。しかも鍛えられてる男たち。最初から力の差がありすぎる。押し負けて扉をこじ開けられるのは時間の問題だった。
(どうしよう、どうする? 考えろ、考えろ……)
とその時、ルーファスの頭上を飛び越えて、狼が外へと出た。驚くべき跳躍に目をみはる。だが驚くのはそれだけではなかった。
グルグルと威嚇に喉を震わせる狼の大きさが見る間に膨れ上がっていく。あっという間に、倍以上の大きさになった。
大きさだけなら熊と同じくらいの狼。
けれどルーファスには不思議と怖いと思えなかった。なぜ、と混乱だけがある。しかし、他の人間たちはそうは思わなかった。
男の一人が震えるような声で狼を見て言った。
「よ、夜の森の狼だ……!」
唸り声をあげ、三人の男たちを威嚇する狼に、ガタガタと震えだす。剣を抜いて、脅すも、男たちは狼相手に慄いている。
夜の森の狼。森の主だというのか。
だが、熊のように大きくなった狼が、普通の狼であるはずがなかった。
やがて一人が恐怖に負けて逃げ出したのをきっかけに、彼らは狼の前に散り散りになった。
狼は残った一人を捕らえ、まるで玩具のように口にくわえて振り回した。人ならざるものの力を見せつける。
止めるべきか、止められるだろうかと逡巡していると、狼の様子が急変した。
咥えていた男を放り出し、それを見て嘆きだした。
「ど、どうしよう、ひとごろしになっちゃう? やだ、ど、どうしよう」
狼の形をしたものから若い女性の声がしたと思ったら、狼の姿は巻いてあった布をすらりと広げるように縦に長く高く伸びる。そしてその毛皮を脱ぐようになめらかな肌の人の姿が現れた。
そこには黒髪に桃色がかった肌の乙女が立っていた。
森の中にきれいな裸体を晒しながら、彼女は涙をぽろぽろと流して、彼女は地面に倒れた男を見て震えている。
彼女の言動には、奇妙な戸惑いばかりが浮かんでくるが、今は考えるのをやめる。
ルーファスは急いで家の奥のベッドからシーツを引き剝がすと、家の外へ飛び出した。
寝藁がパラパラと落ちるのをひるがえして払う。
その間も、少女は動けずに立ち尽くしたままだった。
ルーファスは怖がらせないように、穏やかに話しかけた。
「大丈夫だよ。そいつは死んでない。それよりも」
彼女は人としての意識が希薄なのだろうか。恥じらって裸体を隠したりはしていないが、ルーファスは人としてまず隠してやるべきだと思ったのだ。大きく広げたシーツで彼女を包むと、彼女はルーファスより背が高かった。
驚いた泣き顔で少女がルーファスの顔を見下ろす。
黒髪に黒い目の少女が、不思議そうにルーファスを見ている。やや童顔で、びっくりしながら軽く首を傾ける仕草が、狼であった時の威厳も何もない姿と重なって、少し笑いそうになった。
さっきまで狼だった彼女は、今は人間の姿で立っている。
こんな特殊な狼は、この森には一つしか存在しないだろう。
ああ、本当に彼女は夜の森の狼なのだと、ルーファスは思った。