プロローグ1:邂逅ヒロイン
気が付くと、宇宙空間のような暗い世界にいた。
一条リクはセントラルの大学に通う傍らネットワーク・ステートの事業を立ち上げ、世界貢献に励んでいたはずだった。
三年後、すべてに失敗するまでは。
「おや、何か仰いましたかお嬢さん?」
「――ッ!?」
見知らぬ男に声を掛けられ、リクは初めて顔を上げた。と、同時に目の前に落ちてくる女の子を認識した。
「……って、ええーっ!?」
彼女はリクの目の前で転がって「あ痛た……」と腰をさすりながら起き上がった。高校生とおぼしきブレザーの制服を着ている。
「これはこれは……。どういうことでしょう? お呼びしたのは一人のはずですが……。まあ、いいでしょう」
見知らぬ男はひとりで首を捻り、勝手に納得して頷いた。
男の出で立ちは奇妙だった。黒髪に全身黒ずくめの黒服。真っ黒い瞳の右目に、左目には黒いグラスの片眼鏡をかけている。そこには逆さになった「?」マークが描かれている。身長は高く、青白い肌の相貌は均整が取れていて美形と呼べる部類だ。
リクはどちらに声を掛けるか一瞬迷ったが、まず女子高生に声を掛けた。
「大丈夫?」
「う……うん。ありがとうございます」
彼女は初対面のリクの差し出した手をためらいもなく掴み、屈託のない笑顔を見せた。
「私はアミ。鳳アミっていいます」
「……私は一条リク。敬語じゃなくていいわ」
「で、でも年上ですよね?」
「気にしないで」
リクはアミと名乗った高校生の女の子と握手を交わしながら彼女を観察した。
サイドアップにされた髪はリクの黒髪よりも若干色素が薄く、赤みがかった茶髪寄りだ。顔は東洋系でも色白な方で鼻筋もすっとしており美人の部類だが、あどけなさが残っているので可愛いと表現する方が相応しいだろう。初対面の人間に対する態度や先ほどの笑顔といい、この種類の人好きのする人間は老若男女問わず好かれるはずだ。
今の時点で分かる分析をそこまでして、リクは次にもう一人の怪しげな男に視線を移した。
「ここはどこなの?」
リクの問いに、男は嬉しそうに答えた。
「ああ、やっと私を見てくれましたね。なかなか気付いて下さらないから、ちょっと傷付いてしまいましたよ」
そんなことは聞いていないとばかりに、すんと表情の消失したリクを見て男は大げさに肩を竦めた。
「つれないですねぇ。混乱して警戒心が増しているのは分かりますが……。では自己紹介をしましょう。私は貴女方を呼んだ神様の代理でガイドをしております。名前は……」
「逆さはてな」
「え」
だから、と前置きしてリクは男を指差した。片眼鏡の模様を見てアミが「……ああ!」と納得して手を打った。
「ひどいですねぇ……」
言わせてもくれないんですか、と男はしゅんとした。
「……とまあ、前置きはこのくらいにして本題に入りましょうか。『おめでとうございます。貴女方はヒロインに選ばれました』!」
「は……?」
リクとアミは目を点にした。
「貴女方にはこれから別の世界へ行って頂きます。いわゆる異世界転移というやつですね。最近では転生ものが流行りですが、今回は今の体のままあちらへ行って頂きます」
男が手を翳すと、真っ白い空間に映画のような光景が映し出された。中世ファンタジー風の建物や衣服、そしてゲームで見るようなモンスターや見たこともない植物など明らかに地球ではない別世界がそこに広がっていた。
一種の恐怖を覚えたに違いない、アミが慌てて口を開く。
「な、何で? 元の場所に戻してくれないんですか?」
「おや。いいのですか? そんなことをしたら……」
その時、記憶をたぐり寄せたリクがその場に膝を着く。それを見たアミが心配して駆け寄った。
「どうしたの?」
「……私、死んだの?」
「えっ……」
茫然と呟かれた言葉にアミは驚いたように目を見開き、逆さはてな男は口端を歪めた。
「ええ、ええ。実際には命を落とす前にこちらへ来て頂いたので、死んではいませんが。戻ればそうなるでしょうね。あなたもそうではないのですか?」
「えっ、私……は……」
アミは困惑気味に口元を手で押さえ、考え込んだ。
「最後に覚えてるのは横断歩道を渡っていたような……。え? 事故に遭ったってこと……?」
「正確には死の瞬間にこちらへ来たことになりますね。それまでに負った怪我などは我らが神のお力でリセットされていますよ」
「そ、そんなことって……」
「…………」
リクは自分の衣服を確認した。無造作に羽織ったジャケットには傷一つない。これまでに負った怪我、と逆さはてな男は口にしたが何処まで知っているのだろうかとリクは思考を巡らせる。どう考えても彼とも初対面には違いなかった。
逆さはてな男は嗤った。
「これでも戻りたいですか? 我らが神は貴女方の命の恩人なのですよ? 貴女方は元の世界に殺されたのです。……でもご安心下さい。これから行く世界では、貴女方の幸せは約束されたようなものですから♪ 元の世界では大変だったでしょう。でもこれからはあなたが主役なのです♡」
この怪しげに語る男と話をしなければ情報は得られないだろう。リクは仕方なく対人モードに入った。
「――うさんくさい」
浮かれ心地で説明された言葉を、リクはバッサリと切って捨ててみた。逆さはてな男は精神的ダメージを負った顔をした。
「そ……そうだよ! そんなうまい話、今どきの詐欺でもないよ!」
「詐欺って……」
便乗したアミの言葉にさらに追い打ちを喰らいながらも、逆さはてな男はやっとの思いで自己浮上して話を続けた。
「……ゴホン。ですから詐欺ではありません。我らが神は『愛を見たい』と仰せなのです」
「愛を……見たい?」
興味を示したのか、アミがその単語を反芻した。獲物が食いついたとばかりに、逆さはてな男は意味深なそぶりで頷いた。
「左様。我々の世界には愛が足りないのです。ですから数ある乙女ゲームやネット小説のように、ロマ――ンスの世界に浸って頂いて。そしてできれば自分を含め貴女方の周りの方たちもハッピーにするような、そんな人生を送って頂ければ十分なのです。さすれば世界には愛が満ち、モンスターも数が減り多くの人々がより幸せな世界になるでしょう!」
逆さはてな男は熱弁が決まった、というような顔をした。その後ろでアミとリクは小声で相談を始めた。
「……ね、ねぇ。どう思う?」
「やっぱり、うさんくささしかないわね」
「うぅー。だよねぇ。……で、でも元の世界に戻っても死んじゃうっていうのは……」
表情を翳らせるアミの前で、リクは深い溜息を吐いた。
「自分の記憶が確かなら……それだけは本当みたいね」
「そ、そんなぁ……。私たち、もう家族には会えないの?」
泣きそうになるアミを見たリクはその手を取り、ぎゅっと力を篭めるように握った。
「私たちは運命共同体よ。これから何があっても一緒にいましょう」
「うん……!」
そうして二人は硬く手を繋ぎ、逆さはてな男に向き直る。逆さはてなは二人を見て「これはこれは美しい友情」と感心を表した。
リクは言いたくなかった結論を述べた。
「その異世界とやらに行くしかないみたい」
「ありがとうございます! そう言って下さると信じていましたよ」
「最初から選択肢ないくせに……」
アミが不満げに愚痴をこぼす。リクは逆さはてな男の方に腕を出し、人差し指を立てた。
「ただし条件がある」
「条件とな?」
逆さはてな男はぱちくりと目を瞬かせた。
「自分の人生は自分で決める。もちろん不幸になるつもりはないけれど、誰かの決めた筋書きに従うつもりもない」
「リク、かっこいい……! うん。私もそうする!」
アミに明るい笑顔が戻る。それは人を安堵させ、元気付ける笑顔だとリクは知っている。
「それで結構ですよ。自由な選択ができるよう、神の加護とスキルが与えられます」
そういうのはいらないと突き放したいところだが、未知の世界に放り込まれるのなら有利になる力は持っておいた方が得策だろう。
表情からそんなリクの考えを読み取ったのか、最後に逆さはてな男が「賢明ですね」と嗤った。
開く扉から光が漏れるように、世界に光が差す。
やがて二人は光の扉に吸い込まれていった。