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それは、一通の書簡から始まった。
神聖星教会本部からリヒタール伯爵家へ親書が届いたのは、新学期から二ヶ月程度経った頃だった。
休日にリヒタール家のタウンハウスに呼び出されたイングリッド・リヒタールは、久しぶりに見る父――リヒタール伯爵の顔がやや憔悴していることに気が付いた。
「……私に何のご用でしょうか、お父様」
イングリッドは、すでにリヒタール家から離れて学園の学生寮に入っている。できればあまりリヒタール家の敷居を跨ぎたくなかったので、始めにそう言った。
タウンハウスの居間で待ち構えていた人物は父だけではなく、腹違いの妹アイラとアイラの母である後妻の伯爵夫人も当然含まれていた。
何やら含み笑いをしながら、アイラが愉しそうに言う。
「お父様! やっとお姉様を説得して下さる気になったのですね。やっぱりお姉様なんかには、神学科は似合わないもの」
ところどころ棘のあるアイラの言葉に刺されながらも、イングリッドは堪えて受け流した。
リヒタール伯爵は、若干言葉を選ぶように口を開いた。
「……いや、それとは違う。今回お前たちを集めたのは、神殿からの命で伝えておくことがあるからだ」
「ぶぅ。何ですか、それ? 神殿?」
思った展開ではなかったため、アイラが口を尖らせた。
リヒタール伯爵の手元に目を留めた夫人が、書簡を指して尋ねた。
「それは……、今朝届いた神殿からの書簡ですか?」
「あ、ああ。そうだ。まさか……。間違いとは思ったが、今しがた神殿に出した遣いの者が戻って来た。大神官ツクミト殿の署名に間違いはないと……」
「どういうことです?」
夫人が片眉を跳ね上げた。イングリッドとアイラも、話が呑み込めずに首を傾げている。
リヒタール伯爵は亡くなった前夫人、つまりイングリッドの実母ほど信仰心がないとはいえ、このアシュトーリアという国で――いや、この世界で神聖星教がどれほどの影響力を持っているかは分かっていた。
リヒタール伯爵は、書簡の内容を読み上げた。
「曰く、新しい巫女選任の託宣が降りたと。神の名は星光龍神シリューズ。選ばれたのは……、リヒタールの娘と……」
「シリューズ様がっ!?」
思わず腰を浮かせたイングリッドが、龍神の名を呼んで興奮気味に瞳を輝かせた。
「何なの?」
と、しゃしゃり出たイングリッドに苛ついたリヒタール夫人が、ぎろりとイングリッドを睨み付けた。
それに怯みながらも、イングリッドは答えた。
「……お父様もご存知でしょう。星光龍神シリューズ様は、お母様の実家が代々信仰してきた神様です。私もつい先日、神殿で帰依を表明してきました」
「それが何だって言うの!? あの女の話はしないで頂戴ッ!」
後妻である今のリヒタール夫人は、イングリッドの実母であるリヒタール前夫人のことをたいそう嫌っている。もちろん、その娘であるイングリッドのことも。
「たくせん? って、何?」
アイラから飛び出したのは、アシュトーリアの貴族とは思えない質問だった。家の外でそんなことを口にすれば、よほど無知だと思われかねないだろう。
有史以来、アシュトーリア王国が永世中立国を維持できているのも、神聖星教の本部でありその聖地も有しているからだ。
しかし無知な子ほど可愛いのか、リヒタール伯爵は咎めもせずに説明した。
「ああ、アイラは知らなかったね。託宣というのは、巫女や覡が降ろす、神のお告げのことだよ」
「ふぅん……」
その時、アイラがゆらりと立ち上がり、突然テーブルの上をダンと拳で叩き付けた。
「お父様……。まさか、お姉様が選ばれたなんて言わないわよね?」
言いながら、そんなことは許さないとアイラの表情は語っていた。
(巫女だか何だか知らないけど、私よりお姉様の方が優れているなんて絶対認めないわ――!!)
すると、夫人も便乗して伯爵を追及した。
「そうよ! イングリッドのはずないじゃない! リヒタールの娘というなら、アイラこそ相応しいわ! 神殿が巫女にというなら、アイラがなればいいわよ! ねぇ?」
「ええ、お母様」
アイラは都合のいいことを言う夫人に相槌を打つと、リヒタール伯爵に向き直って言った。
「……お父様。そんな栄光ある役職なら、私は構わないわ」
「アイラ!? あなた……!」
イングリッドが耳を疑ってアイラを見ると、アイラは自信たっぷりと笑ってみせた。
「お姉様と違って、私なら何だってできるわ。『ヒロイン』だもの」
「ヒロイン? そうよ~。私の娘だものぉ」
おほほと笑いながら、夫人もアイラをおだてた。
夫人は『ヒロイン』の意味するところの真実――アイラが転生者であることまでは知らないのだろうが、自分の娘の評価を上げられるのなら何でもいいのだろう。
あり得ない、とイングリッドは思った。
アイラは神学の勉強はおろか、信仰心の欠片も持ち合わせてはいないだろう。
第一、『愛、レゾナンス』略称『愛レゾ』というネット小説には、アイラが巫女になる展開など存在しない。
イングリッドが領地から逃げてアムリタ統合学園へ入った時から、すでに『愛レゾ』のストーリーからは外れている。
いくら『ヒロイン』のチートがあるとはいえ、ルートの存在しない技能まで身に付けていることなど考えにくいのだ。
「あなた。それで神殿は、いつアイラを迎えに来るのかしら?」
もはや決定事項のように夫人が尋ねると、リヒタール伯爵はしきりに言葉を濁しながら言った。
「そ、それが……。専属巫女としての試練を行うとある。……時期は三ヶ月後、秋の大祭前。場所は……。この学園都市エクスの教会でとある」
「試練ですって?」
夫人は伯爵を咎めるように眉を顰めた。まるでアイラに試練など不要だ、とでも言いたそうだ。
「あ、ああ。専属巫女ということは、星光龍神の専属……つまり『星光の巫女』を選ぶということだろう。あのカレン・スィードたちと肩を並べることになる。我が家にとって大変な栄誉だ」
栄誉の肩書きと聞いて、今まで興味がなさそうだったアイラが急に態度を変えた。
「まあ! 大神官様は慈悲深くていらっしゃるのね。私とお姉様を公平にテストして下さるということでしょう」
「あら、そういうこと? それなら仕方ないわね。ま、私の娘が勝つに決まっているけれど」
アイラは夫人を丸め込むと、にやりと昏い笑みを見せながら得意気にイングリッドを見た。
何か悪いことを企んでいる時の顔だと、長年共に過ごしたイングリッドには分かった。
「さ、それなら色々準備しないといけないわね。今のうちにアイラも神学科へ転科させるのよ。ほら、あなた。そうと決まれば、さっさと手続きの書類を用意して頂戴」
「いや、しかし……」
「私なら大丈夫よ、お父様」
「ほら。アイラも、ああ言っているのだから平気よ」
「わ、分かった……」
夫人に背中を押されながら、リヒタール伯爵たちが退室していった。
居間に残ったアイラは頭の大きなリボンを揺らして振り返り、イングリッドを見て嗤った。
まるで勝ち誇ったようなその笑みに、イングリッドは嫌な予感しかしなかった。
「ふふ……」
「アイラ、どういうつもりですか?」
「えぇー。そんなの決まってるじゃない、お姉様♡」
アイラは可愛い子ぶりながら言った。イングリッドは溜息を吐きながら、ゆるりと首を振って告げる。
「あなたに神学科は無理よ、アイラ」
「ふふん。残念ね、お姉様。せっかく必死に考えて『愛レゾ』のストーリーから逃げようとしたのに……。神学科なんて、最初は興味なくてどうしようかと思っていたのよ。でも……、『星光の巫女』だなんて、いい響きじゃない。ヒロインの私にぴったり♡ だから、お姉様が神学科で手に入れたもの、手に入れようとしていたもの……。全部、もらっちゃうね♡」
(今度こそ、根こそぎ奪ってあ・げ・る♡)
アイラはわざとイングリッドに近付き、耳元で囁くように勝利宣言をした。
イングリッドは身震いを覚えて、アイラの言葉を否定した。
「……アイラ、あなたは勘違いをしています。私に信仰心を与えたのは、シリューズ様なのです」
イングリッドの脳裏に、目標とする人物――カレンの言葉が思い浮かぶ。
私のものは何もない、と言ったカレンの境地には到底及ばないけれど。
彼女のようになれれば。彼女のようにあれば。
イングリッドのものでなければ、アイラは何も奪うことはできないだろう。
「神様が与えて下さったものを、神様以外の何人が奪うことはできません」
毅然と言い放つイングリッドに、しかしアイラは嘲笑で返した。
「ぷふッ。ばっかねぇ、お姉様。私たち『ヒロイン』は、とっくにその〝神様〟から祝福をもらってんのよ。悪役令嬢なんかに負ける訳ないじゃな~い♡」
「祝福?」
どうやら、アイラが自信満々なのは『ヒロイン』特有の何か理由があるらしい。
アイラとは、それ以上話しても時間の無駄だった。
「……失礼します」
ケラケラと嗤う妹を残し、イングリッドはリヒタール家のタウンハウスを後にした。
そこはもはや、イングリッドの居場所ではない。