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街の礼拝堂で竜の子供を保護してから、数ヶ月。
すっかり懐いた竜の子供は親や故郷を探しに行く様子もなく、学生寮のイングリッドの部屋に居着いていた。
竜の子供は、基本的には他の人間には見えないようだった。
見えない人間がいるところで竜の子供に構えば、何もいないところに話しかける気の触れた令嬢ということになってしまうだろう。
今のところそうならずに済んでいるのは、ルームメイトがいないおかげでもあった。
それというのも異母妹アイラの嫌がらせで、婚約者であるトバイアスの実家デ・クヴァイ伯爵家からの圧力があった。神学科へ転科したイングリッドを孤立させようという策略であったが、それが逆に好都合となっているとはアイラは夢にも思っていないだろう。
(はぁ……。まさか、アイラのおかげだなんて皮肉です)
教会区にある神学科の学生寮は、白壁にベージュ屋根の建物だ。一見質素にも見えるが、部屋の中はそれなりに広く、学習机などの調度品も他科と比べてほとんど遜色がない。貴族科だけが金をかけ過ぎている印象だ。
貴族令嬢でありながら侍従のいないイングリッドは、洗濯物も自分でしなければならなかった。そのため、寮の使用人用の洗い場や水を借りて洗っていた。
洗濯物を抱えたイングリッドが寮の部屋に戻って来ると、テーブルの上からガサゴソと音がしていた。
「『御遣い』様?」
見ると、クッキーの紙袋に頭を突っ込んでいる子供の竜が、尻尾をふりふりと動かしていた。
イングリッドが戻ったことを知ると、竜の子供は紙袋から顔を出して下から紙袋を覗き込んだ。食べ足りないようだ。
「あとで食堂から何かもらってきますね」
苦笑しながら、イングリッドは小遣いが足りるかと心配になった。竜の子供の育ち盛りとなれば、どれだけ食べるか想像もできない。まだリヒタール伯爵家から予算が出ているのが、不幸中の幸いだった。
おそらく父であるリヒタール伯爵は、イングリッドが卒業したら適当なところへ政略結婚させようという意向は変わっていないだろう。
婚約者のデ・クヴァイ伯爵家長男トバイアスは、今や妹のアイラにべったりである。
月一回のお茶会もイングリッドを無視し、アイラと過ごすようになってから久しい。
まだイングリッドとの婚約が正式に破棄された訳ではないが、正直どうなるかはイングリッドにも分からない。
悪役令嬢のイングリッドが原作にないアムリタ統合学園の神学科へ転入したことで、すでにルートから逸脱している現状では――。
原作の『愛レゾ』でイングリッドが追放されるのはもう少し先の話だが、アイラの様子を見れば油断はできそうになかった。
仮に追放を免れたとして、アイラにトバイアスを取られたからといってイングリッドの政略結婚自体がなくなる訳ではないのだ。
「…………」
『どうした?』
急に立ち止まってぼうっとするイングリッドに、温かい声が降ってきた。
イングリッドは、どきっとした。
亡くなった母や、母方の家系が信仰していた星光龍神シリューズ。竜の子供が姿を現して以来、イングリッドはその声が聞こえるようになっていた。
「このお声は……。本当にシリューズ様なのですか?」
『そうだよ』
竜の子供はテーブルの上で、でんぐり返しをしている。くしゃくしゃになった紙袋が、床に落ちた。
イングリッドは紙袋を拾ってゴミ箱に入れると、おもむろに言った。
「シリューズ様……。私では、いつまで『御遣い』様のお世話ができるか分かりません。お父様の気が変わって、卒業を待たずにどこかへ嫁がされるかもしれませんし……」
自分で言いながら、イングリッドは落ち込んでしまう。
『愛レゾ』の筋書きから完全に解放されない限り、そしてアイラから逃れない限り、自分は役立たずだと思えて仕方なかった。
「恐れながら、そうなる前に他の方に『御遣い』様を預けられた方がよいのではないでしょうか……」
イングリッドは、テーブルの上で目を回している竜の子供を見た。ほとんどの人間は彼の存在が見えていないので、お世話をする以前の問題なのだ。
しかし、確実に竜の子供が見えていたと思われる人物が存在する。
「カレンさんはいかがでしょう? 『星河の巫女』様ですし、このあいだ教室で『御遣い』様にご挨拶をされていましたよね。他の方は気付いていないみたいでしたけれど、私には分かってしまいました。……カレンさん、きっと見えていて黙っていて下さっているんですね」
少し前、神学科の教室でのことである。
竜の子供は、ずっとイングリッドのそばについて回っていた。もちろん授業にも付いて来て適当にそばで遊んでいるのだ。誰も気付いていないが――。
ある朝、カレン・スィードがわざわざ近付いて来てイングリッドに挨拶をしたことがあった。
その時のカレンは、丁寧に腰を折って最敬礼をしていた。
「後ろのお方にも、ご挨拶申し上げます」
やけに恭しい態度だとイングリッドは感じていたが、それが自分ではなく竜の子供に対するものであったなら納得だった。
「やっぱり、カレンさんはすごいです。聖女であるはずのマリアーネさんやリクさんにも、『御遣い』様のお姿は見えていないのに……。私なんかより、『御遣い』様のお世話役に相応しいと思います」
『スィードの子、カレンか。確かにあれには見えているが、すでに至高者の手の中にある者だ。私と縁があるのは、お前だよ。イングリッド』
「そ、それはとても嬉しいのですが……」
何だか照れくさくなって、思わずイングリッドは俯いた。
その時、イングリッドはもうひとり気になる人物がいたことを思い出した。
「……そういえば、アミさんのあの言葉……」
アシュトーリアより少し南にあるグランルクセリア王国で召喚された異界人であり、イングリッドの前世シホの故郷である地球からの転移者。アミ・オオトリのことである。
始業式の日、イングリッドは青い鳥広場で初めて異界人の二人に会った。
その時、リク・イチジョウではなくアミが言ったことがずっと引っ掛かっていたのだ。
公衆の面前でアイラとトバイアスに詰められて騒ぎになり、二人が庇ってくれた時のことだ。
神学科へ向かうリクとイングリッドに対して、アミは言った。
「気を付けてね、リク。……あなたと、その子も」
教師陣に気付かれて群衆が散らばる中、退散する直前に掛けられた言葉だった。
額面通り受け取るなら「あなた」がリクで「その子」がイングリッドのことにも聞こえるが、「その子」という言い方がどうも気になっていた。
「もし、あのセリフの「あなた」が私のことで、「その子」が『御遣い』様のことだったら……」
『あの赤毛の異界人のことなら、見えているぞ』
「……やっぱり!」
イングリッドは予感が的中して高揚したが、同時に疑問が湧き起こる。
「同じ異界人で聖女候補のリクさんや他の聖女ヒロインの方も『御遣い』様のことは見えていないのに、どうしてアミさんは気付かれたのでしょう……? それに見えたのなら、何故黙ってくれているのでしょう?」
イングリッドは、その後も昼休みに学食で会うたびにアミを観察した。アミは毎回、竜の子供をこっそり確認しつつも、不審がって声を上げる素振りはなかった。
イングリッドはしばし逡巡した。本当のところは本人に尋ねるしかないが、アミに話をするとすればリクやミラフェイナ・ローゼンベルグにも竜の子供のことを話さなければならないだろう。ローゼンベルグ公女はともかく、リクはどう思うだろうか?
聖女候補である自分が見えないものを、他の者が見えているとすれば。
例えばマリアーネのような他の聖女ヒロインであれば、間違いなく不興を買うだろう。
「どうしましょう……」
話すべきか、話さざるべきか。
もはや『愛レゾ』の原作からは想像もできない展開になってきている。原作の知識は役に立たないのだ。
一体これからどうするのが正解なのか、イングリッドには見当もつかない。
悩んでも、破滅の運命にある自分には選択肢がないのだということを、イングリッドには分かっていた。