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数ヶ月前のことだった。
その日、イングリッド・リヒタールは学園都市エクスのはずれにある教会を訪れていた。
神学科の教会区にも近い規模の小神殿があったが、人の目があるため特別な懺悔やお祈りをする時は街の教会へわざわざ遠出していた。
学園では異母妹のアイラや婚約者トバイアスの実家であるデ・クヴァイ伯爵家の監視の目が、どこにあるか分からないからだ。
妹アイラとは違う、サファイアブルーの髪にアイスブルーの瞳、そして冷たい白磁の肌。物静かさ故に見る人によっては冷たい印象を与えるかもしれないが、それは真実ではない。
人を色眼鏡で見る者のなかには、リヒタール姉妹の生い立ちを揶揄する者もいる。しかし、この教会にはそんな者はいない。イングリッドにとって、数少ない心安まる場所であった。
イングリッドは馴染みの老司祭ペイルマンに声を掛け、告解部屋に入った。神職者を神の代理人と見て罪を告白し、赦しを請う場所である。
しばらくして中央の仕切りの向こうに現れたのは、ペイルマンではなかった。
「それでは、罪の告白を」
いつもの司祭かと思っていたイングリッドは、緊張して言葉を詰まらせた。
「どうした?」
「すっ、すみません。司祭様かと思っていたので……」
「私では役不足かな?」
「い、いえ。そんなことは……!」
仕切りの向こうに垣間見えた襟元の法衣は、白地だった。いつもの司祭よりも遙かに位の高い高位神官だと分かる。
そういえば、教会にあまりに見ない顔の神官が来ていたようだと、イングリッドは思い出した。
高位神官相手に申し訳ないと思いつつも、ここにはアイラの目もない。イングリッドは訥々と、悩みを打ち明け始めた。
「……あの。信じてもらえないかもしれませんが、私には前世の記憶があるのです」
「前世?」
「はい。私の前世は異世界……チキュウという星の、ニホンという国に住む女性でした……」
イングリッドが話し始めたのは、地球に生きていた頃の記憶だった。
イングリッドの前世はシホ・フジタという名の、広告業界で働く枯れ女だった。
寝る間どころかプライベートすら返上して働いた挙げ句、心臓発作で生涯を終えた。享年三十四歳であった。
そんな前世のシホが唯一楽しみにしていたのが、恋愛モノのネット小説である。
死の直前に特にハマっていたのが、『愛、レゾナント』略称『愛レゾ』というネット小説だった――。
「ねっと小説?」
「ネット、というのは……そうですね。誰でも時間や場所を問わず自由に本などの情報を公開したり読んだりすることのできる、目に見えない公共の情報集積場……とでも言いましょうか。そういったところに、多くの人が作品を公開している場所があるんです。『愛レゾ』は、その中の人気作のひとつでした」
イングリッドは、覚えている限りの『愛、レゾナント』のストーリーを説明した。
貴族の娘に生まれた主人公アイラは、陽だまりのように温かく美しい少女だった。
母の再婚をきっかけに腹違いの姉にいじめられながら育つが、持ち前の前向きさと誠実さで周囲の信頼を獲得し、やがて姉の婚約者であった伯爵子息と恋に落ち、非道な姉を追い出して幸せを得るという物語だ。
そこで後妻の子であるアイラを目の敵にしていじめ抜く〝意地悪な姉〟として登場するのが、イングリッドという名の令嬢である。
いわゆる悪役令嬢ポジションだ。アイラとは対称的に氷のような美貌を持つが、その冷たさから他人に敬遠されていた。
皆に好かれているアイラをいじめたことにより、イングリッドは両親や友人から見放され、婚約者からも捨てられて独り家を追い出されることになる。
破滅したその先は、二度と物語に登場することはない。
よくあるシンデレラ・ストーリーだが、主人公アイラは意地悪な姉を追い出した後、色々な男性にアプローチを受ける。複数の男性に取り合われるという、悪役令嬢排除後のストーリーが大人気だったのだ。
憎んだ妹に全て奪われた後、意地悪な姉がどうなったか興味のある読者などいない。イングリッドの前世であるシホもそうだった。
「私がこのイングリッド・リヒタールというキャラクター……いえ。自分の名前や容姿に見覚えがあることを思い出したのは、初めて腹違いの妹アイラに会った時でした」
その時のことを思い出したイングリッドは、ぞっとして身震いをした。
流行病でイングリッドの実母が亡くなった数ヶ月後、父であるリヒタール男爵が後妻に迎えた夫人の連れ子――それがアイラだった。辛うじてイングリッドの方が誕生日が早かったが、歳は変わらなかった。
リヒタール伯爵が、イングリッドの母が生きていた時から余所で作っていた子供である。
伯爵は長い間、イングリッドの母を裏切っていたのだ。
そのことを知ったショックと、アイラからの嫌がらせで前世の記憶を思い出したのだ。
イングリッドにとっては、忘れもしない出来事だった。
「――あんたが悪役令嬢?」
十年前、腹違いの妹アイラが発した最初の言葉が、それであった。
当時、まだ何のことか分からなかったイングリッドは、アイラと仲良くなろうとしていた。
「えっ……? あくや……く? 何?」
「フン。まあまあキレイな顔してるわね。ま、私の方が可愛いけど」
アイラはイングリッドをじろじろと見つめた後、背後に回って足を引っかけた。
「きゃあっ!」
当然転んでしまったイングリッドの上に足を乗せて踏みつけ、アイラは子供らしからぬ黒い笑みを見せた。
「痛い……。何するの」
「あんたはこれから私をいじめて、トバイアス様に成敗されるのよ」
アイラがよく分からないことを言った。
(え……、いじめ……私が……? それにトバイアスって……)
むしろ今、いじめられているのは自分ではないかという疑問がイングリッドの心に湧き起こる。
そしてトバイアスとは、最近親同士が決めたイングリッドの婚約者のことだ。そのことを何故アイラが知っているのか、この時は見当もつかなかった。
「や、やめてアイラ。私たち、姉妹でしょ……」
「はぁー? まあ、半分はね。でも、あんたたちは愛されなかった半分ね」
「え?」
「お父様に愛されたのもあんたの母親じゃなくて、私のお母様。同じようにお父様に愛されてるのも、私。これからトバイアス様に愛されるのも、わ・た・し♡ ……あんたたち母娘は、リヒタールの惨めな方ってわけ」
バカみたいに嗤うアイラの前で、七歳のイングリッドは目の前が真っ暗になった。
自分だけではなく、亡くなった実母まで侮辱されたからだ。
絶望と悲しみに呑み込まれた刹那、イングリッドの頭に鋭い痛みが走った。
「痛……っ」
「あはははは! せいぜい、私の幸せの踏み台になってよ、お・姉・さ・ま♡」
脳内に疾る痛みと共に、自分の知らない様々な光景が頭の中に浮かび上がった。地球人だった前世の女性、シホの記憶だった。
死の前の記憶。
地球の知識。
ネット小説が好きだったこと。
そして今、『愛、レゾナント』の登場人物や設定にそっくりな状況であること。
この時、イングリッドは確信した。
目の前にいるのは、心優しい原作のアイラではない。彼女もまた、自分と同じ転生者に違いないということを――。