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七夕の真実

作者: 矢宮順晴

 昔々あるところに、神様の娘である織姫と、牛の世話をして生計を立てるしっかり者の彦星がいました。2人はやがて巡り合いました。織姫の美しさと奥ゆかしさ、彦星の明るさと真面目さにそれぞれ惹かれました。

「織姫さん、こんな僕で良ければお付き合いしてくれませんか?」

「はい。是非、お願いします」 

 2人が恋仲になるのに、時間はかかりませんでした。交際を始めてからの仲睦まじい様は、至る所で散見されました。なにしろ織姫は神様の娘なので、噂は矢を射抜く早さで広がりました。相手が彦星である事がわかると、この恋物語に好意的な声が多数挙がりました。お似合いの2人、結婚も想像出来ると皆口々にそう言いました。

 当然、こんな噂は織姫の父親である神様にも届きました。織姫の結婚相手を探していた神様にとっては、渡りに船といった話でした。神様は早速2人を自分の元へ呼び出しました。豪奢な飾りが施された黄金色の椅子に腰掛け、神様は彦星を観察しました。

「そなたが、彦星か。娘と交際をしているとは、まことか?」

「神様、いえお父様、ご挨拶が遅れてしまい大変申し訳ございません。織姫さんと、お付き合いさせて頂いている彦星と申します」

 彦星は、正座の状態から深々と頭を下げ、畏まりました。

「力を抜きなさい。君を叱責する為に呼び寄せた訳ではない。娘も年頃だから、結婚相手を探しておったら、君という存在がいるのを知って会ってみたかったのだ」

 たっぷりとした白髭を撫でながら、彦星に柔らかい笑みを向ける神様。彦星はゆっくりと頭を床から離し、遠慮がちに口角を上げました。

「お父様が急に呼びつけたりするから、彦星さんが怖がっているでしょ。彼は誠実で素敵な男性よ。私が胸を張って保証するわ」

 織姫は彦星の左手を握りしめて、大きく息を吸い、胸を膨らませて主張しました。

「普段あまり主義主張をしない織姫が、そこまで明確に答えるとは。彼の事をよほど気に入っておるのだな」

 織姫は彦星と見つめ合い、俯きました。織姫の頭を慈しむように撫でて、彦星は立ち上がりました。

「お父様、織姫さんは僕が一生をかけて守ります。織姫さんと結婚させて下さい」

 織姫は頬を赤らめ、彦星に見惚れていました。神様は静かに肯首し、「彦星君、よろしく頼むよ」と穏やかに言葉を紡ぎました。彦星は声高らかに「はい!約束はお守りします!」と宣言しました。

 晴れて神様からの公認を得て夫婦となった2人は、より色濃い時間を共有しました。来る日も来る日も2人は逢瀬を楽しみ、やがて織姫の身体に生命が宿りました。

「彦星、私幸せ。男の子か女の子か。どちらでも楽しみ。お父様も大喜びなの」

「織姫、僕も幸せ過ぎて信じられないよ。一層仕事頑張らないと。お父様との約束を果たす為にもね」

 彦星は毎日汗水流して働き、帰宅すれば織姫の身体を気遣い、家事を率先して行いました。織姫は彦星を伴侶とした自分の判断が、正しかったと感じ入っていました。

 10月10日が経ち、玉のような男の子が産まれました。織姫は赤ちゃんを抱き留めると、涙をはらはらと流しました。彦星は妻と息子を丸ごと抱きしめ、わんわんと大泣きしました。神様は3人の有り様を見て、目頭を静かに拭いました。

 赤ちゃんの名前は産まれた日にちなんで、七夕しちせきと名付けられました。七夕が産まれてからの日々は、目まぐるしさの極みでした。機嫌が良く、笑顔でいる時の七夕は天使そのものでしたが、一度泣き出すと母乳をあげたり、おしめを替えたり、必死にあやしたり、抱っこをして歩き回ったりしても、中々泣き止まないのです。

 それでも織姫は幸せでした。自分が全身全霊をかけて守らなければ、この子は生きてはいけない。その実感が、心地良かったのです。神様の娘として産まれ生きてきた織姫は、いつも絶対的な安心感の中にいました。大人になり彦星と出会い、彼と夫婦になってその役割りは神様から彦星に渡りました。織姫はその安心感を享受しながらも、波瀾が起きない自身の生活に、心のどこかで退屈感を覚えていました。そこに七夕が誕生しました。今まで守られる立場であった自分が、初めて守る側になったのです。彦星も仕事と両立しながら、家事と育児を積極的にこなそうとしてくれました。優しい男性が側にいてくれ、感謝もしていました。

 しかし、目につく点が出てくるのです。洗濯物を洗濯板で洗って干す際も、衣服の汚れが落ち切っていない箇所があったり、洗った筈のお椀に米粒がこびりついていたり、七夕のおしめを替えて貰うと、見た目はしっかりと履かせられているけれど、横から見ると隙間が出来ていて、排泄物が漏れ出したり、七夕が泣き出した時、抱っこをしてあやし始めますが、織姫が一息つく間もなく交代を要求したり。参加はしてくれますが、信用に足る結果が出なかったのです。けれど、織姫はそれを指摘する事はしませんでした。仕事の合間に手伝う姿勢を見せてくれるだけ、良き夫なのだろうと考え、得心していました。家の事、特に七夕に関しては自分が責任者であると、自負していました。自分の顔を健気に見つめ、天使の笑顔を向けてくれる七夕を、あらゆる災禍から遠ざけたいと織姫は願っていました。日に日に織姫の意識と関心は、七夕に集中するのでした。

 そんな織姫の変化に、彦星は気づき始めました。以前であれば朝仕事に向かう時、夜仕事から帰ってきた時、織姫は必ず見送りと、出迎えをしてくれていました。最近は七夕が泣いているのをあやしていたり、七夕に母乳をあげていたり、七夕の食後に背中を叩いたり、「行ってきます」と「ただいま」の声に反応こそあるものの、返答に意識が乗っていない声色なのが伝わってきました。

「産まれたばかりの子供に集中するのは、当然だよね」と、彦星は牛の背を撫でながら、ひとりごちました。胸に引っかかる違和感を、宥めようとしていました。

 ある晴れた日の休日、彦星は洗濯物を力一杯洗濯板で擦り、庭先に置いてある物干し竿に吊るしました。洗い上がりに満足し、清々しさに笑みが溢れました。

「何か他に出来る事はあるかい?」

 彦星は、七夕に母乳を与えていた織姫に尋ねました。

「風呂桶を洗って欲しいわ。それと、七夕を夜お風呂に入れて欲しいの」

 織姫から頼られ、彦星はさらに気を良くしました。仕事の日は織姫に「あなたはゆっくり休んで」とか、「大丈夫よ。気持ちだけで、嬉しいわ」とか言われ、体良く断られているのではと、不安感を覚えていました。

「任せていて!宝石より輝く風呂桶にしてくるよ」と、彦星は意気揚々と風呂場に向かいました。

 一刻を少し過ぎた頃、彦星は風呂桶を眺め、七夕を迎え入れるのに申し分ない出来映えだと、自画自賛していました。織姫に成果を報告しようと、居間に戻りました。織姫の姿が見当たらず、きょろきょろと辺りを探しました。すると、庭から何やら水の跳ねる音が聴こえてきました。玄関から裏手にある庭に歩くと、屈んでいる織姫の背中と、そこに身体を預けながらきゃう、きゃうと声を出して、手足を上下に振ってはしゃぐ七夕が見えました。

「掃除終わったよ。庭に出て何をしているの?」

 くるっと、織姫が振り向きました。その表情は硬いながらも「ありがとう。助かったわ」と、彦星の労を労いました。手元には先程彦星が洗濯した、七夕のおしめが握られていました。

「あれ?それは僕が洗ったよ。もう汚れたの?」

「ううん。少し、洗い足りてなかったから。ほら、七夕の身体に触れる物だから、ちゃんと綺麗にしたくて」

 彦星は、面白くありませんでした。身体の力が抜け、急激に徒労感が襲ってきました。「そうなんだ」と一言残して、居間に引き返すのが精一杯でした。

 「今日の行いは、無駄骨だったのかな」

 居間で座り込みながら、彦星は記憶を呼び起こしていました。織姫と手を繋いで、川沿いを散歩した日。朝から晩までお喋りをして、時折啄むように口づけをして、愛を高め、確かめ合ってた頃の日々を。彦星の目尻に微かな涙が滲みました。

 機嫌の良い七夕を愛でながら、織姫が戻ってきました。肩を落として項垂れている彦星は、あまりに哀れでした。七夕の為でしたし、彦星が戻る前に洗い終わるつもりではいました。結果は間に合わず、彦星に不愉快な思いをさせている自覚はありました。

「あなた、今日はありがとう。休日なのに、風呂桶まで洗ってくれて。嬉しかったわ」

 彦星の涙は何処かに霧散しました。亀のように縮こまっていたのが、うさぎのように飛び跳ねて、織姫に頬擦りをしました。

「織姫、いつも家の事、七夕の事をありがとう。僕、もっと頑張るからさ。織姫と七夕を守る為に」

 彦星は拳を握りしめて、胸を強く叩きました。織姫は悟られないように、嘆息を漏らしました。

 (子供が2人いるみたい)織姫の胸中には、こんな言葉が渦巻いていました。

 辺りが暗くなる頃、彦星と七夕は一緒に湯船に浸かっていました。父親の腕に支えられ、温かい空間に身を預け、七夕は破顔していました。まだまだ生え揃わない髪の毛をお湯で濡らし、彦星の掌で逆さに撫でると、お猿さんを連想させる風体になりました。自分の腕にすっぽりと収まる小さな存在。織姫が無我夢中になるのも仕方がない訳だと、頭では理解してしていました。しかし、一抹の寂しさは彦星を捉えて離しませんでした。織姫は七夕が産まれてから、『彦星』ではなく『あなた』と呼ぶようになりました。個人ではなく、役割で認識をされている気がして、それも寂しさの要因になっていました。

 「君は可愛いよ。嘘じゃない。僕の大事な息子だからね」

 瞼を閉じて、口を半開きにしている七夕。安心し切った表情は、宝物と呼ぶに相応しい筈です。けれど、彦星は釈然としませんでした。濃霧がかかったように、視界が開けないのです。不明瞭な心情に自問自答を繰り返します。その内にどんどん、目の前の七夕が遠ざかっていきます。腕に力が入らなくなり、瞼が重くなってきました。首が揺れて、頭が前後を行き来しています。

 遠くで織姫の声が聞こえます。何かを尋ねられているみたいです。彦星には、それが夢か現か区別がつきません。意識は深淵へと堕ちていきます。金切り声が遠くで響いている気がします。耳馴染みのない声です。誰の声かも判別出来ませんでした。

「あなた、いったい何をしてるの!いい加減起きなさい!」

 後頭部に強い衝撃と鈍痛を感じました。刹那、彦星は目を覚ましました。状況が飲み込めず、右往左往したその眼前には、火がついたように泣き叫ぶ七夕と、炎のように血色張った顔色をした織姫がいました。七夕を左手に抱き、右手は握り拳の形で小刻みに震えていました。

「僕はどうしたんだ。寝ていたのか?」

「ええ。ぐっすりとね!おかげで、七夕が溺れかけていたわ!私が呼びかけても返事がないから、まさかと思ったのよ。あなた、七夕を死なせる所だったのよ。私が気づかなかったら、本当に死んでいたのよ!あなたに責任が取れるの!……絶対に許せない」

 彦星は慌てふためき、言葉を尽くして説明をしようとしました。しかし動揺の余り、「ごめん」と繰り返すのがやっとでした。織姫は無言で背を向け、去っていきました。彦星にはその背中に、『拒絶』の二文字が刻印されているのが、はっきりと見えました。

 そこからは彦星にとって針のむしろ、気の休まらない日々が続きました。織姫からは、生活をする上で最低限の会話しかして貰えず、近づくと警戒心を露わにするのです。七夕の世話はもっての外、常に織姫が七夕の側に陣取り、触れる権利が剥奪されたも同然でした。七夕と関われない事はもちろん悲しかったのですが、彦星が絶望感を味わったのは、赤の他人と接するような織姫の態度でした。

 織姫と出会い、恋に落ち、愛を共有し、伴侶となり、子を授かり、幸せでした。その幸せを継続する為、彦星は粉骨砕身頑張っているつもりでした。彦星は織姫との関係性が変化しても、一時的な状態だと思っていました。七夕が成長し、少し手が掛からなくなれば、川沿いで戯れていた頃の彼女が戻ってくると。だからそれまでは、寂寥感に襲われても誤魔化して暮らしていく選択をしていました。

「息子に嫉妬していた。恥ずかしい話でしょ?笑ってくれて良いし、軽蔑してくれて構わないですよ」

 顔を曇らせながら、彦星は心情を吐露しました。牛小屋の傍に生えている大木に背を預け、彦星は休憩を取っていました。

「軽蔑なんてしないわ。彦星さんは、とても頑張っていたもの。いつも、織姫と七夕君のことばかり考えて。私はちゃんと知っていますからね。……寂しかったんですよね」

 しゃがみ込み、潤ませた瞳で彦星を見上げる女性が一人。

「ありがとう。いつもごめんね。笹姫さんに、話を聞いて貰うと安心します。機織りの仕事は順調?」

「私で良ければ、いつでも話相手になりますからね。織姫が仕事を辞めると聞いた時は、どうなるかと思いましたけど、今の所評判は上々です」

 織姫は、彦星と夫婦になるまで機織りを生業としていて、その腕前はとても評判が良く、知らない者がいない程でした。神様が織姫の為に、機織り専用の家屋を建てていて、彦星は暇を見つけては、織姫が機織りをする姿を見にきていました。その時に、幼少の頃から織姫と友達であり、手伝いをしていた笹姫と知り合いました。

「最初はただのお手伝いって思っていたけど、真剣に取り組むと上達して、どんどん楽しくなっています。織姫にも負けてないと思いますよ」

 口元を掌で隠しながら、淑やかに笑う笹姫はありし日の織姫を思い起こさせました。胸の鼓動が一拍高くなったのを、彦星は不思議には思いませんでした。かつて、織姫と過ごした時に得られていた感覚。もっと話をしていたい。彼女の全てを把握したい。記憶に刻み込みたい。尚且つ、自分自身に興味を持ってもらい、同じ事を考えていて欲しい。今この時が永遠に続けば良い。

「そろそろ戻らないと。……彦星さん、私がいますからね。孤独を抱えて、自分から一人にならないで下さい。私がいるからどうやっても彦星さんは、一人になれないですからね」

 目線が搦み、強く結ばれ、互いに一歩ずつ距離を縮めました。抱擁し、唇が重なりました。青葉生い茂る大木のみが、静かな目撃者となりました。


 自分の居場所、自分を必要としてくれているのは、織姫と七夕ではない。笹姫こそが、両手を広げて、丸ごとの自分を受け入れ、なくてはならない存在として扱ってくれる。彦星は新たな居場所を見つけ、有頂天でした。笹姫の顔を思い出すだけで、織姫の義務的な対応にも耐えられました。

 仕事の合間に機織り姿を見に行く対象が、笹姫に変わりました。織姫と七夕の待つ家に、真っ直ぐ帰る頻度は目に見えて減っていきました。

「今日も来てくれた。嬉しい。ずっと待っていたし、このままずっと一緒にいたいよ」

 思慕のこもった言葉を聞く度、彦星はまさしく天にも昇る心地でした。 

「ずっと一緒にいたい。離れたくないし、離したくないよ」

「私達、同じ気持ちでいるのよね。嘘みたい。愛してる。誰にも渡したくない」

 毎日笹姫との逢瀬に没頭しました。日毎に恋慕の思いを積み重ね、密度を濃くしていきました。そんな彦星の脳裏に時折りよぎる影は、不思議なことに織姫ではなく、七夕でした。

 彦星の帰りが遅くなる日々が続いても、織姫は意にも介していませんでした。七夕を溺れかけさせた日から、彼女の時は止まったままです。

 しかし、七夕は違いました。抱っこされて移動する手段しかなかったのが、自分でずり這いをして動くようになったのです。出来るようになったのが楽しいらしく、七夕はところ構わず、動き回りました。織姫は、怪我の元を排除する為に、徹底的に掃除をしました。七夕の通り道には、塵芥一つ残してはならないという気概が、その様子を虚ろに眺める彦星にも伝わってきました。

 不意に七夕が、彦星の顔を見つめました。無垢な瞳は、何かを訴えかけているみたいで、彦星は胸がざわつき目を逸らしそうになりました。

 刹那、七夕がにっこりと笑い、彦星にずり這いで近寄ってきたのです。少しずつ、少しずつ、確実に彦星という存在を認識して行進してきました。笑みを絶やさず、彦星の足元にたどり着いた七夕は、両手を高く挙上しました。彦星はとっさに七夕の意を汲んで、抱き抱えました。久しぶりに触れた我が子は、あの日より成長していて、ずっしりとした重みを感じました。濡れるとお猿さんのようだった髪の毛は、黒々として地肌を埋めていました。うーうーと言葉にならない声を出して、彦星の頬を撫でる七夕。小さな小さな指先を、一粒の雫が伝いました。

(自分はとんでもなく馬鹿な奴だ。こんなに、可愛いく愛しい存在に嫉妬をしていたとは。この子は紛れもなく、僕の息子だ。僕の分身なのだ。妬心の対象にして良い訳がなかった。僕は父親なのだから)

 織姫からの愛情不足を不満に感じ、欲求不満さばかりに目を奪われて、自分自身が七夕を父親としてきちんと愛せていなかった事を自認し、激しい後悔の念が彦星を襲いました。どうしていいかはわかりませんでした。それでも濃霧が晴れて明瞭となった視界で、七夕の莞爾とした笑みを、目に焼きつけようとしました。

「七夕、そろそろお昼寝の時間よ」

 冷淡な口調で、織姫は七夕を奪取しました。急に引き離され、驚いたのか七夕が泣き始めました。

「おい、七夕が可哀想だろ。びっくりさせるなよ」

 語気の荒さに、織姫は一瞬たじろぎましたが、すぐに射竦めるような視線を彦星に向けました。

「もっと可哀想な目に遭わせたのは誰よ。七夕がどれだけ苦しかったか、怖かったか、あなたにはわからないわよ」

「それに関しては申し訳なかった。何度も説明したし、謝ったじゃないか。もう絶対に七夕を危険に晒したりしないから。だから、七夕を抱かせてくれよ。お願いします」

 彦星から遠ざけるように、織姫は身を翻して背中で壁を作りました。

「あなたに渡したら、今度は手を滑らせて落とすかもしれないじゃない。嫌よ」

 彦星はこの時に悟りました。この人は、もう愛した人ではなくなっていると。愛されたいと思っていた人ではないと。

 織姫の背中で覆われていた七夕が、黒々とした頭を突き出し、彦星の姿を見つけると喜色満面に溢れました。うーうーと再び、言葉の形を成さない声を出して、小さな平手を開いたり、閉じたりと繰り返しながら、手を伸ばしています。

 その様子をしばし静観していた織姫は「この子が望んでいるなら」と、渋々七夕の身を彦星に預けました。

「ありがとう。……七夕、大きくなったし、髪も多くなって。これからどんどん成長して、どんどん変化して、どんどん立派な男になっていくんだろうな」

 七夕の成長を噛み締め、彦星は織姫に感謝しました。確かに、自分が愛し、愛された女性とは異なってしまっています。けれど七夕を日々育み、保護し、自らの意思で行動する存在にしてくれたのは、紛れもなく織姫でした。

「君が頑張ってくれたから、七夕の大切さに気付けた。あの日は本当にごめんなさい。もし許されるのであれば、また七夕を一緒に育てて、守っていきたい。頼むよ」

「……考えておくわ。そろそろ本当にお昼寝の時間だから、寝かしつけてくるわね」

 要求が叶えられ満足したのか、七夕はうつらうつらしていました。織姫に七夕を預けると「この子、嬉しそうだったわね」と、顔を綻ばせました。久方ぶりの感情に触れるやり取りを喜びました。時が僅かに動き出したました。同時に頭を掠めたのは笹姫の存在でした。

 

「七夕君、彦星さんをちゃんとお父さんって認識しているのね。凄く素敵な日だったのね」

 明くる日、笹姫の元を訪れた彦星は逡巡した末、事実をありのまま伝えました。笹姫は事も無げな様子で、むしろ喜ばしい話を聞いたとばかりに、答えました。

「うん。僕は、七夕が自分の子供だって、わかっていたつもりだった。けど、自分が父親なんだって部分は、わかっていなかったんだよ」

「そっか。彦星さん、最後に会った日から別人みたい。晴れ晴れとしてるね。……じゃあ私はもうお役御免かな。ちゃんとお父さんにならないとだね」

 彦星の胸が詰まりました。消え入るような声色から、努めて明るさを演じていただけだったと理解したからです。彦星は、再度思案に暮れました。言葉を失う彦星を横目に、笹姫は機織りを再開しました。カタカタと小気味良い音と、澱みなく動く笹姫の細い五指が仮初の静謐さを生み出していました。

 どれくらい佇んだでしょう。橙に染まっていた川や草木が、夜陰にかくれんぼし、主人が帰らない事を悟った牛達が、横臥する頃でした。彦星は、笹姫の両手を強く握り、跪きました。

「……笹姫。僕は君を愛している。七夕は大事だし、父親として育てていきたい。けど、愛する女性は君だけなんだ。どちらも、失くせない。君がいなかったら、僕はおかしくなっていた。七夕への愛情を、自覚出来たのは君が支えてくれたからだ。だから、一緒にいたいよ」

 感に堪えない様子で、笹姫は涙を止めどなく溢れさせました。ひたすらに頷き、嗚咽しました。

「私も彦星さんと一緒にいたい。離れたくないよ。七夕君の為には、彦星さんがいないと駄目だと思う。でも、私にとってもあなたはかけがえのない、愛する男性なの。いなくならないで」

 笹姫の涙を親指で拭い、息を荒げ、浅い呼気を吐き出す、震えた唇を塞ぎました。笹姫が泣き止み、心が休まるまで、2人の接吻は終わりませんでした。

 後ろ髪を引かれる気持ちで、織姫と七夕の待つ家へ足を動かします。彦星は思い悩んでいました。織姫と笹姫、それぞれに対して発した言葉に嘘偽りはありませんでした。織姫と共に大切な七夕を育てたい。七夕に関して、当然織姫以上の適任者はいません。愛する女性としての笹姫を失くせない。今日彦星は笹姫との別れを決意していましたが、笹姫に魅了され切った、焦がれる思いを断ち切れなかったのです。真っ直ぐに帰路を目指す身体を尻目に、相反する本心が宙を彷徨っていました。


 七夕の成長が、あらゆる場面で彦星を欣喜雀躍させました。ずり這いの動きが滑らかになった。母乳をたくさん飲み、顔の肉付きが良くなった。彦星が寝ていると、いつの間にか腹上に乗っかり、起こそうとする。お風呂で手足をばたつかせ、飛沫が彦星の顔にかかると笑う。寝かしつけの際、ぐずる声を以前は早く止めたいと思っていました。泣き止まないと早々に諦めて、織姫に任せていました。今は、泣き声さえ愛しく、体重の増加を実感する大事な一時となりました。

「あなた、今日も七夕のお風呂任せるわね」と微笑む織姫。

 彦星の七夕に対する姿勢が変化しているのが、今では十二分に伝わっていました。出発点は『七夕が父親との交流を喜んでいる』でした。試しに、おしめを替えるように頼みました。彦星は、相合を崩しながら、いそいそと七夕と向かい合いました。

「気持ち悪かったね〜。今、綺麗にするからね。これなら、外に漏れないかな。七夕、窮屈じゃないか?お、朗らかで可愛いお顔をしているな〜」

 丁寧に替えられたおしめ。七夕を慮る態度。織姫は驚嘆しました。

「織姫、洗濯物干したよ。七夕の身体に触れるから、力一杯汚れを落としたよ」

 風にたなびく、真っ白に輝く衣服達。織姫は目を疑い、何度も両目を擦りました。

「織姫、食器洗ったよ。最近は七夕が舐めたりするから、出来る限り清潔にしたよ」

 食物の残滓など、欠片も残っていませんでした。織姫は頬を強く摘みました。

「七夕、寝たみたいだ。泣き顔も可愛いね。また、起きたら僕があやすから、たまにはゆっくり休んでよ」

 入浴後、寝かしつけを買って出た彦星。織姫は高揚し、寧ろ中々寝付けませんでした。七夕がぐずり出す度に、彦星は宣言通り起き上がり、愛しそうに七夕をあやしました。父親と息子の睦まじい戯れを肌で感じ、次第に気が休まり睡魔に身を任せられました。朝を迎え、久方ぶりにぐっすりと眠れた織姫は、彦星の寝顔に頭を下げました。

「あなたが七夕の父親で良かったわ」と満悦の様子でした。

 合わせる顔がない彦星は、空寝を決め込み、疾しさに蓋をしました。


「とても鮮やかな色味だし、手触りも吸いつくみたいで心地良いね。笹姫、また腕が上達したね」

 笹姫との逢引きも、心が浮き立ってならない、大事な時でした。織物の出来栄えを褒められ、朱に染まった頬が愛愛しくて辛抱なりません。笹姫の首筋に鼻梁を沈めて、甘く柔い香りを胸一杯に吸い込み、穏やかに幾度も舌を這わせます。くすぐったそうに身を捩りながら、決して抵抗しない笹姫。うわごとのように、好き、愛していると囀るのみです。緩やかに上昇する体温。上気し、混濁する思考。彦星がもたらす寄せては返す甘美な刺激。白く塗り潰される頭の働き。笹姫の瞳が映すのは彦星のみ。背景の入り込む余地はごく僅かもありませんでした。


「もう離れ離れの時間なのね。信じられないな。彦星さんが、時の流れを歪めてているのかしら。七夕君に早く会いたいから」

 着物の乱れを直しながら、平淡な口ぶりにやるせなさを滲ませる恋しい女に、彦星は念慮の末、乾いた笑いで応じました。

「笑わないでよ。真剣なの。真剣に悲しいし、寂しいの。あなたといる時間が、今の私にとっては全てなのよ。彦星さんは違うだろうけど」

 睨め付けてくる笹姫は、肩が震えていました。自分の失態をすぐさま感じ取りましたが、「そんな訳……ないだろ」と言い淀み、すすり泣きを慟哭へと押し上げてしまいました。

「ごめん。寂しいのは君だけじゃない。僕だって一緒にいたいよ。前にも言っただろ。愛してるいるよ」

 狼狽しながら、必死に崩れた心を慰撫します。しかし、頭の奥底から『そろそろ帰るぞ。七夕が待っている』と声が反響するのです。

「知ってるよ。でも、別れ際は自分を律せられないの。何より、織姫の元に帰るって考えると……。織姫との仲が元に戻ったら、本当に私は捨てられてしまうから」

「僕の大切な女性は君だけだ。織姫とは、七夕を育てる為に協力し合っているだけだよ。信じてくれ」

 このままではいけない。どちらかを選ばなくては。毎日眠りにつく前に、この言葉が浮かぶのです。思案に暮れている間に、自分を誤魔化す方法として、意識を手放し、夢の世界へと逃げ込む意気地なしの彦星でした。

 結局この日も、泣き尽くし袖を絞る笹姫を残して、陰鬱な気分で帰路を急ぎました。「僕は明日も会いたい。楽しみにしている」と去り際の台詞が、いくばくの慰めになったでしょう。

「私も会いたい。待ってる」と弱々しく潤んだ声は、その効力の薄さを物語っていました。


 躊躇いの時日に目を背けた後、答えを出す日は突如として訪れました。

「じゃあ今日は帰らないで!ずっと側にいて!」

 明日は七夕の誕生日。仕事も休みにして、七夕を祝う日にしようと織姫と話し合い、決めていました。終ぞ言い出せずに、意を決して打ち明けた結果、笹姫は機織り機で編んでいた着物に、爪を立てて引き千切り、憤怒の形相で叫びました。爪が剥がれ、真っ白な未完成の着物は血潮に染まっていました。

 彦星は戦慄きが止まらず、足の力が抜けてへたり込んでしまいました。同時に、妙な高揚感を覚えていました。こんなにも自分に執着している美しい女性とは、やはり別れられない。彼女を心底愛していると、奇妙な熱に浮かされていました。

「笹姫、落ち着いて。まずは、指の手当てをしよう。僕のせいでこんな怪我をさせて、ごめんよ」

 笑う両足に力を込めて黙らし、勢いよく立ち上がりました。そのまま突進するように距離を縮め、笹姫の負傷した両手を自身の両手で、やんわりと包み込みました。いじらしさに感じ入り、随喜の涙を流しながら、舌で手首を伝う鮮血を舐め取りました。そして体内で混交させるように、飲み下しました。

「彦星さんやめて。汚れちゃうし、きっと身体に悪いから、飲み込んだら駄目よ」

 涙と予想を裏切る行動が、笹姫に冷静さを取り戻させました。後ずさろうと身体をくねらせますが、彦星の腕力に制止されます。舐め尽くし、次の血が溢れる前に2人の足元に散らばった、純白な着物の欠片を拾い上げ、保護するように傷口へと、巻き付けました。

「君が丹精込めて編んだ着物だ。僕のせいで、駄目にしてしまった。せめて、君を癒す為に使いたい。……本当に申し訳ない」

 彦星は深々と首を垂れました。悄然とした背中は笹姫の胸をくすぐりました。低徊し、諦めたように大きな吐息を漏らしました。

「彦星さんに責任はないわ。私が取り乱して、駄目にしてしまったの。今日はもう帰った方がいいわ。……でも、もし不憫に感じるなら少しだけ願いを聞いて欲しいの」

 笹姫は、わざとらしく膨れっ面を作りました。彦星は要求を聞く前から顔を上げ、何度も点頭しました。憂いを帯びた微笑に表情が変化しました。見惚れながら、彦星は申し出を承諾しました。


 時折り、痛みに顔を歪ませる笹姫。そっと添えるようにして、左手の掌を重ねる彦星。僅かな時間でも一緒にいたいとの、笹姫の願いを叶える為に並んで織姫と七夕の待つ家を目指していました。時々立ち止まり、口付けを交わして、また歩き出す。遅々として歩みは進みませんでした。嬉しさで綻んだ顔をする笹姫を前に、歩調を速める選択肢はありませんでした。「いつか私の編んだ着物を、彦星さんに着て欲しいの。叶わない幻想や幻かもしれないけど、それを想像すると、蕩けそうになるくらい幸せになれるの」

 何度目かの口付けを終え、瞼を閉じながら胸中を打ち明けた笹姫。そのしおらしさが感に堪えなかった彦星は、再び笹姫の唇を貪り始めました。その時です。

「あなた、いったい何をしてるの」

 耳馴染んだ声と、頭に刻まれた言葉が降りかかってきました。恐る恐る声の主を確かめると、すやすやと寝息を立てる七夕を抱きかかえながら、得も言われぬ表情をした織姫が佇立していました。皆が茫然とし、風の過ぎ去る音色だけが虚しく通り過ぎました。

「……あなた達、どういうつもり?」

 行動を起こしたのは、織姫でした。1歩また1歩と距離を詰めながら2人を観察し、奇異な状況を把握しようとしていました。

 彦星は弾かれたように、笹姫から離れました。いや、あの、違う、これは、としどろもどろになり、意味を成す言葉は出てきませんでした。

「あなたの帰りが遅いから心配になって探しに来たら、笹姫と逢引きとは。罪滅ぼしで、七夕の面倒や他の手伝いを頑張ってくれてた訳ね」

 淡々とした調子で彦星の真意を確かめようとします。「それは違う!」と、女の声が織姫に異を唱えました。脇から躍り出た笹姫が、織姫の眼前に立ち塞がりました。

「織姫、私がいけないの。私が彦星さんを好きになってしまったの。彦星さんは織姫と七夕君の事、本当に大切だと思っているのよ。だから、彼を責めないであげて」

 笹姫の背後に隠れて狼狽えていた彦星は、臍を固めて間に割って入りました。

「織姫、僕が笹姫を好きになったしまったんだ。僕が、君との関係に悩んでいる時に、彼女が支えて励ましてくれた。だから、責めるなら僕にしてくれ。君に隠し事はしていたけど、七夕が大切で、可愛くて仕方がない気持ちには嘘はない。そこだけは誤解しないで欲しい。笹姫との関係も、君達との安寧な時間も手放せなかった僕の責任だ。申し訳ない」

 両手を大きく左右に広げて、笹姫を庇いながら、一息に誤魔化しのない気持ちを白状しました。静かに耳を傾けていた織姫は険阻に眉をひそめ、忌々しげに鼻を鳴らしました。母親の異変を感じ取ったのか、七夕が泣き出し、その泣き声は瞬く間に耳を劈く程の大音響となりました。「七夕」と、駆け寄ろうとする彦星を眼光鋭く射すくめて、織姫は七夕が首を動かせないように強く抱きしめました。

「この子に、こんな場面は見せたくないから、今日は帰るわ。あなたは帰って来なくていいから、また折を見て話ましょう」

 七夕の顔を胸元に押しつけながら、踵を返した織姫の目尻には、雫が光っていました。

 遠ざかるかつて愛した女性の背中を見送りながら、彦星は茫然自失としました。背部に柔らかな感触と暖かさを感じ、「私と帰ろう。今日はずっと一緒にいようね」との誘導に従い、初めて笹姫と夜を明かしました。


 七夕はどうしているのか。父親が不在である事に不安を感じてはいないだろうか。今頃はお昼寝の時間だろうか。それとも眠らずに、ずり這いで家中を探検しているだろうか。会いたい。七夕の成長を目に出来ない一刻一刻が、口惜しい。黙然としながら牛の背を撫でる彦星は、七夕の幻影を追いかけてばかりです。気もそぞろで仕事にはまったく集中していません。座して虚空に七夕の笑顔を描き、時たま思い出したように仕事を再開しますがすぐに手を止め、じきに気力が削がれ、座り込む。何かに操られているみたいに、一連の動作を反覆していました。

 彦星は笹姫の元で、衣食住を満たして暮らしていました。鬱々としている彦星とは至って対照的に、嬉々として世話を焼く笹姫はこの生活が永劫続けば良いと考えていました。

「彦星さんの大切な人とは離れてしまっているけれど、私がいるから。あなたには、笹姫がいるからね」と、情交を済ました後笹姫は悦楽に浸りながら、この呪文を唱えました。来る日も来る日も。


 この日も仕事はおざなりで、無為な時の渦を放浪していました。突如として、疾風が駆け抜けていきました。颯然さに辺り一面の草木は平伏し、欠伸をしていた牛は驚いて身震いをし、笹姫と恋心を育んだ大木は、青々と茂った葉を何枚も強奪され、抜け殻の彦星は体勢を崩し尻餅をつきました。痛みに眉根を寄せながら耐えていると、胡座を組んで形成された三角の隙間に、純白の布が舞い降りました。きらきらとした表面の光沢と、触れる前から想像可能な滑らかな質感。一見しただけで、織姫が編んだ品だとわかりました。朱色で何か文字が書かれていた為、彦星は生唾を飲み下し、喉を鳴らしました。

『明日、私と七夕の家に戻るように。話をする』と書かれていました。一読し、織姫の出した答えを把捉し、戦慄きました。 織姫からの文を懐に入れて、逃亡するように無我夢中で走りました。汗と涙と鼻水で薄汚れた顔面を笹姫に拭われながら、頭を撫でられあやされる彦星の姿は、情けないものでした。


「今日何があっても、何を言われたとしても、私はずっとあなたの味方で、あなたの側にいます。ここで待っていますからね。行ってらっしゃい」

 笹姫からの励ましと見送りと接吻を享受し、織姫と七夕の待つ我が家へと向かいました。足取りに軽やかさはなく、鈍重極まる歩行は彦星の見慣れた牛のようでした。

「七夕は父に預けてきたわ」

 織姫は少しやつれているように見えました。

「……そうか。元気にしてるかな」

 彦星の問いに無言で頷き、腰を下ろすように促します。ある日に、七夕がお漏らしをした痕跡が残る藁の床。嬉々として掃除をしていた自身が思い返され、彦星は目眩を覚え、腰が砕けてへたり込みました。

「笹姫の事が大切なのよね。私達よりも。ううん、私よりもか。七夕が可愛い気持ちには嘘がないのよね」

 織姫は彦星を見ようとはしません。低くてくぐもった声は藁の床に向けられ、まっすぐ彦星に届く事はありません。

「あなたの気持ち、本心、何故こうなったのか。もう一度ちゃんと聞かせて。今更何も隠さないで欲しい」

 粗相の名残を指でなぞります。彦星からも織姫を見ようとはしません。

「七夕が生まれてから、君は変わってしまった。今考えれば当然の変化だった。でも僕は、2人だけで過ごしていた頃の君が好きだった。七夕に嫉妬していた。邪魔とさえ感じていたと思う。だって、僕から君を奪ったから」

 織姫は微動だにせず、顔色も変えずに次の言葉を待ちました。静かな瞬きだけが、正常に時が刻まれている証明でした。

「笹姫はそんな僕の気持ちに寄り添ってくれた。自分の息子を妬む矮小な僕を、ありのまま受け止めてくれた。優しさに救われた」

 彦星は額の汗を拭い、上擦った声で語り続けます。汗だくで、着物が肌に吸いつき不快でした。

「やがて、七夕が成長してずり這いを始めた。僕を認識して、笑顔で向かってきて。その時に、ようやく心から可愛い、大切な息子だと思えた。七夕をしっかりと育ててくれている君に感謝した」

 身体の不快感とは裏腹に、気分はどんどんと晴れやかになりました。言葉を吐き出す毎に、胸に刺さっていた無数の針が抜かれていくようでした。

「君と2人で七夕を真剣に育てたいと思った。僕には君が必要だ。けど、笹姫は僕を慕ってくれ、僕も想いを断ち切れなかった。……どちらも僕は欲しいんだ。必要なんだ。これが嘘偽りのない本心さ」

 ずっと頭の中で渦巻いていた、道理にかなわない思惑を告白して、彦星は清々しい心持ちでした。

 くっくっくっと織姫は喉を鳴らしました。

「本当に正直過ぎるわよ。自分が何を口走っているかわかっているの?どっちも欲しいって。そんな願い叶う訳ないでしょ」

 織姫は首を上向かせました。彦星を映す瞳には、嫌悪感が宿っていました。

「あなたが私に構って欲しがっていたのは、気づいていたわ。子供が2人いるみたいだった。そんなあなたが、私は疎ましかった」

 一転、織姫は視線を外しません。明瞭に飛び込んでくるようになった声は怒気を含んでいました。肌が逆立ち、反射的に彦星は目線を上昇させました。清々しさなど、たちどころに消え去りました。

「そんな気構えだったから、七夕を殺しかけたのよ。それだって意図的かもと疑ったわ」 

 それはあんまりだと、かぶりを振り否定しました。

「だけど後々になって勘ぐりだとわかったわ。あなたは七夕を真に可愛がり始めたから。七夕も喜んでた。それが私も嬉しかったし、安心したの。あなたを選んだ私に間違いはなかったって」

 空寝でやり過ごした朝、七夕が泣き出しので、跳ね起きておしめの確認をする彦星に、「おはよう」と穏やかな挨拶で労う織姫の表情は多幸感を湛えていました。

「間違いではなかったわ。でも、正解でもなかった。それはあなたから私に対しても言える事なのね」

 強烈な求愛行動を起こしている時に垣間見せる、笹姫のしっとりと潤んだ瞳。彦星の心を乱し、離してやまない2つの光。織姫と出会う前に、笹姫と出逢っていたら。そんな妄想は幾度となくしてきました。自分が真に選ぶべき女性は、織姫ではなかったのでは。その考えを見抜かれていると彦星は感じました。

「七夕を産んでくれた君には感謝している。七夕を育てるのに君以上の女性はいない」

「あなた自身にとって必要な女性は、私ではないって事ね」

 毅然とした態度で、瞬時に切り返した織姫の声音には、哀情が潜んでいました。

「……すまない」

 言葉に窮した彦星が絞り出した謝罪を聞き、気丈に振る舞っていた織姫は、静かに落涙しました。

「……最初にあなたを蔑ろにしたのは、私だわ。でも、子供の為に頑張っていただけ。それはこんな仕打ちを受ける程、悪い行いだったの?こんな惨めな思いをしなきゃいけないほど、罪深い行為だったの?教えてよ!」

 堰を切ったように涙が溢れ、慟哭する織姫。身を屈め、胎児のように丸まり、泣き続ける愛しかった女性を前にしても、彦星の胸に響くものはありませんでした。


「彦星さん、久々に七夕君に会える日だから、たくさん遊んできてあげてね。私の事を今日は気にしなくて良いから」

 慈愛に満ちた優しい手つきで彦星の背中を摩りながら、笹姫は出かけようとしている彦星を、気遣いました。

 首だけで振り向き、「笹姫はいつも優しいね」と顔を綻ばせ、彦星は目的地に向かいました。

 無数の星屑が、きらきらと光っているような水面。かつて織姫と共に眺め、愛を語り合った川。そこには岸と岸を結ぶ真紅の橋が架けられていました。橋を渡り始めると胸が早鐘を打ち、歩幅は自然と大きくなります。

 反対側から、人影が見えました。大きな影の横に追従するように、小さな影がありました。彦星は駆け出します。橋に伝わる振動が、彦星の到着を相手に知らせました。立ち止まった小さな影が、手を振っています。

「七夕!会いたかったよ!」

 彦星は、織姫と手を繋ぎ立っていた七夕を抱きしめました。

「七夕、立てるようになったんだね。こんなに大きくなって」

「とうちゃ!」

「七夕、喋れるのか?父さんって言ったのか?なんて聡明な子なんだ」

 約1年振りに再会する我が子の成長に、彦星は感激しました。大騒ぎしている父親に、あどけない笑顔で応じる七夕。

 あの日織姫が出した決着方法は、彦星とは離れて暮らし、七夕は自分1人で育てる。そして、1年に一度だけ、七夕が生まれた日に彦星と七夕を会わせるというものでした。

 織姫は川を境にして広がっている、荒涼とした辺境の地に彦星を追放する事にしました。川を渡る唯一の方法として橋を架け、勝手に自分達の住んでいる土地に足を踏み入れさせないよう、見張りをつけました。全て、父親である神様へ願い、瞬く間に手配は整いました。

「彦星さんと一緒に行きます。共に生きていきます」と、笹姫が申し出るのを織姫は予見していました。2人共、いなくなって欲しいと織姫は願い、望んでいました。

 裏切った夫と友人を追い払う日、織姫は七夕を連れて橋に来ました。彦星と会えなくなってから、七夕は父親の姿を探すも見つからず、泣く頻度が増えていました。七夕の為父親に会わせてあげたい気持ち、彦星に、七夕の現状を説いて突きつけたい気持ち、笹姫に、彦星の傷ついた表情を見せてやりたい気持ち。種々の思惑が交錯していました。

「うー、あぅー、あー」

 七夕は両頬のてっぺんを赤らめて、ようやく見つけた父の姿に興奮していました。彦星は七夕の求めに応じ、優しく腕の中に入れました。彦星、織姫、笹姫は皆しめやかに雨を降らせました。それぞれの事情や思惑など関係のない、無垢な存在に対する懺悔の結晶がはらはら、はらはらと落ち続けました。

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