男女比1:99の世界における政治体制について
表題の件に移るまで長いので、面倒クセェと感じた場合は、4から読んでみてください。この文章を読んでくださってる貴方様の中に何かしらピンとくるものがあれば幸いです。
1
ラカンによれば、
――女はいない。
つまりこれはファルスのない人間はいないということと同義であり、狂人は存在しないということと同義です。
じゃあ、サイコパスやアスペルガーはいるじゃんって話になりますが、それは、去勢という断絶でぶった切れば、無視できる存在だとラカンは考えました。
――感情のない人間はいない。
そう言うと、必ず例外的な存在として、感情のない人間はいるという声があがるでしょうが、しかしながら、ある議論が俎上としてあがった際の裁定者は、多数派であるから、人間総体を考えたときに、感情のない人間を考える必要はありません。
最近、コオロギ食の是非について議論が活発になりましたね。
あれも、よくよく考えてみると、データベースに基づく客観的主張と感情論がブレンドされたものです。そして、議論に勝つことを目的とするならば、客観的主張だけでは足らず、必ず感情的優勢状態も創り出さなければならないといえます。なぜなら、感情のない人間はいないからです。相手を説得するときに、相手は感情のある存在であることが前提となるからです。
もちろん、客観的なデータを提示し続けるというのは、非常に有用ですが、それは客観的データを提示する姿が、感情的に訴える面もあるからです。その主張は、理知的であり美しい。だから、客観的なデータを提示する姿勢も、感情的な優勢に寄与する一面もあります。
議論を、学術的な討論として純化する場合は、アウフヘーベンによって、より高次の回答を探るといった意味合いがあるのですが、政治的な言論ゲームとして、誰ソレの言うことが正しい、まちがっているといったレベルでは、感情論を完全に引き剥がすことは難しいのです。
我々はそういった宿命論的な構造の中にあると感じます。
宿命論なんてどうにも大仰な言葉を使ってしまいましたが、要は我々はすでに世論という権力の前に座らされており、常に裁定を待つ立場であるということです。仮に日本という国を抜け出してもそこには違う世論=権力が待っているでしょうし、人の世を生きるのであれば、権力の中を生きざるを得ない。これをもって宿命と言っているのです。
ラカンの視点は、構造主義特有のものであり、構造主義は、言葉を見てもおわかりかと思いますが、物事の構造に目を向けたものです。
人間のこころを、分析解剖し、構造を明らかにした結果、人間にはファルスが存在すると突きとめた。それが、ラカンの主張です。
ただし、ラカンの論は古い。というか、極論なので、わかりやすくはあるんですが、当然、不満の声も出てきました。
不満の声の代表者はクリステヴァでしょうか。
クリステヴァは、ラカンとの対比で言えば、女はいる、すなわち狂人はいると主張しました。それは現代における精神医学のスペクトラムという言葉に引き継がれています。
要は、人間を去勢によって断絶された存在ではなく、グラーデションを描くものとして捉えたわけです。去勢に失敗がありえるという考え方なわけですね。あるいは、その結果として、あるいは所与のものとして、ファルスに欠損がある場合もあると考えたわけです。
脳内の理屈として考えたときは、ラカンの論のほうが使いやすいと思います。一方で、現実世界に対応しやすい柔軟な論としては、クリステヴァを土台に据えたほうがいい。
要するに、あり/なしで考えるか、あり/なしのありのあり方を考えるかの違いであるともいえます。
ラカンの考え方は、女はいないので、女とはなにかという論を構築することができません。なんか謎の存在みたいな扱いになるんですね。
じゃあ、ということでクリステヴァが女とはこういうものだと十分に明らかにできたかというと、そういうわけでもないんです。というか、構造上それは不可能なんです。クリステヴァの文学は、セミオティックな面に侵入していくものですが、つまりそれは女という存在に未去勢な部分があり、非言語化される領域があるということにほかならないからです。クリステヴァの論を突き詰めていくと、最終的には女という虚空へと落ちていってしまう。
つまり、女にとっても女は謎ということを明らかにしたに過ぎません。それでも、いないものとして扱うよりはいるものとして漸近するほうが女の権利という面では有用でしょうから、女性文学としてはクリステヴァを土台に据えたほうがいいでしょう。フェミニスト的にもおそらくそうなるでしょう。
2
ここまで長々と訳の分からないことを書いてきたと思われるかもしれませんが、ようやく玄関口に到着したところです。もう少しお時間をください。
さて、いまの世の中を総覧してみたときに、少なくとも男が政治的権力を握っているというデータ自体は、信じることができるでしょう。男の政治家のほうが女の政治家よりも圧倒的に多いのが、日本の現状ですし、ちょっとググればその程度のことはわかります。
この点、女の政治家を男と同数程度まで増やすために、特別枠を設けるのはどうかという議論があります。いわゆるクオータ。クオータというのは割り当てのことであり、特別枠を割り当てることからそう呼ばれています。
このクオータ制について、ラカンとクリステヴァのそれぞれの論をあてはめるとどうなるでしょうか。
ラカン論に従えば、話は単純です。
女はいないのです。ラカンによれば、万能の一なる存在であった自己が欲望を断絶され去勢される。このとき、欲望はファルスというノズルを通して、他者の欲望として再設定されます。ここに権力の契機がある。
つまり、人間という同位置にある存在が、権力という秩序を構成しているわけですから、生物学的な女性が政治家に少ないとしても、なんら問題はありません。というより、ラカン論からしてみれば射程外という話なのかもしれません。
権力勾配を是正すべきか否かという話がでてきたときに、わたしがまっさきに思い浮かべるのは、ドゥールズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』ですが、その要諦は、結局のところ狂人による資本主義の破壊であると思います。要するに、ラカン論は狂人はいないと考えているので、資本主義を批判できていないという批判だったのではないでしょうか。
ラカン論は、現代のジェンダー論やフェミニズムの思想を測るには、だいぶん大雑把な、あるいはある意味根源的な理屈なのだと思います。なぜなら、ラカン論は人間を人間という大きな概念でくくっているからです。
フェミニズム的に言えば、こちらのほうが根源的ですよね。人類皆平等。男女の差別はやめるべきというのが、最もラディカルな考え方でしょうし、その考え方自体は、おそらく否定する人はさほどいないのではないかと思います。
逆にラカンのように人間というくくりで囲わず、男と女の生物的な差異に着目するということは、男女という二元論的な考え方を推し進めるものであり、アファーマティブ・アクションは、結局のところ男女間の権力闘争・シーソーゲームを推進する駆動装置ではないかという考えに敷衍されます。
そうすると、ラカン論は、ある意味で、ジェンダーフリーやフェミニズムに親和する面もあるのかなと思います。
一方、クリステヴァの論に従うとどうでしょうか。
権力とは対象аでしょう。
クリステヴァが去勢をグラーデションとして捉えたとき、よりセミオティックな、ラカンでいうところの現実界に近しい存在として捉えたのが女という存在でしょう。
他方で、男は去勢されて、断絶を経験し、欲望の再設定を鮮明化しているとも言えます。
要するに、対象аを追い求めるのは男であり、女はそうでもないという言い方が妥当でしょうか。対象аの一種として権力を捉えれば、男は権力を追い求めるが、女はそうでもないという言い方が可能になります。
問題となるのは、やはり女はいると主張しても、どんな存在が女なのだという内実を語れないところでしょうか。
わたしが、対象аを追い求めているのが男であり、そうでもないのが女だと定義したところで、じゃあ女性の権利を求めているフェミニズムの運動はなんなんだという話になって、それは要するに、『男』としての運動だろうと主張されてしまうところが弱点です。
――女は女を語る言葉を持たない。
これが男の側の論理です。これは実際に正しい。例えば、姫騎士が剣をふるったとして、それは『男まさりな』行動として捉えられてしまう。
ラカンは構造主義的な考えを言語という分野に置換したものですから、言語という構造物がスタティックなものとして、ドデカイ構造物としてドッシリと構えているように見えたのでしょう。
他方で、女というものを語ろうとしたクリステヴァは、間テキスト性などの概念を持ち出して、構造物自体を打ち崩そうとします。言語構造物――すなわち我々の無意識をダイナミックな流動体として捉え、永遠不滅の存在ではないと弾劾しようとしました。
しかし、これはほとんど自殺と同義です。
なぜなら、自らの手で、自己の精神構造を破壊しようとしているのですから。
クリステヴァのこの悲壮なまでの覚悟を感じ取れるなら、クオータ制については、否定するのが正しいように思えます。
女という存在を、その在り方を自らのファルスと刺し違えてまで獲得しようとしたクリステヴァが、男から与えられた特別枠にホイホイ飛びつくのかという話です。
精神分析の文脈において、女はファルスのもとに集合普遍化されえない存在として定義されてしまいます。つまり、女はファルスそのものに置き換わってしまう。これは男によって名づけられ、仮想IDを付与されているという女性性の特性をもたらしてしまう。
対象аについて述べると、男は対象аを強く求めるでしょう。それはいわゆる究極の愛だったりするのですが、女は対象аそのものになりかわる欲望を持つということです。
ものすごくカンタンに言えば、女は男に愛されたいと思うことになります。エレクトラコンプレックスを解消できていない女性像が導かれるわけです。
これをもっと卑近な言い方をすれば、「女は感情的」とか「女は主体性がない」とか「女は政治が理解できない」とか、あるいは肯定的に見える意見としては「女は優しい」とか「女は平和的」とか、そういう話になるわけですが、これが男側の言い分であることはよくおわかりかと思います。
なんとなれば、最初の理屈であるところの精神分析という文脈そのものが、女というものを受動的であると捉えてしまうのです。
3
まとめますと、無意識を言語として構造化されているとした場合に、女はさながら否定神学のように「○○ではない」というふうに定義づけられてしまうわけですが、この「○○ではない」という定義をいくら繰り出したところで、本質的な女を定義することはできないということになります。
男「君は優しいんだね」
女「そうじゃないわ」
男「じゃあ、君は優しくないのかい?」
女「そうじゃないわ」
男「なにを言ってるのかわからないんだけど……」
女「そうよ。あなたにはわからないの」
こんな感じの受け答えが、女としての言い分でしょう。
女が自らの女性性を主張するには、まずもって男の言葉を否定しなければならないのです。
わたしは、女性性の解放を望みます。
しかし、フェミニズムやジェンダーフリーといった概念が、本当に女性性を解放しているのでしょうか。
生物学的女性のフェミニストは、逆説的に言えば女を捨てて男のように振る舞っているように見られないでしょうか。
男視点――、フェミニストはファルスを勃起させた斎藤環のいうファリックマザー(テリブルマザー)的な存在。ぶっちゃけイキりBBA。怖っ。近づかんどこ。
女視点――、フェミニストは女性性を否定して、男たちの権力ゲームに参入した存在。わたしたちを否定している行き遅れBBA。怖っ。近づかんどこ。
こんな感じになってしまいます。
わたしが最初に述べたように、女性解放運動は世論形成が重要になってきます。つまり、男女問わず、女性の地位や権利、女性という存在そのものを定義づけ獲得していることを人間総体に対して、説得しなければなりません。
このとき、上記のようなフェミニストに対する感情論(怖っ。近づかんどこ)が大きな障害となって立ちふさがってくるのです。
フェミニストの戦略としては、それでもなお女性性をあきらめずに訴え続けるか、それとも表面上は男のように振る舞い、男のファルスを内側から食い破るかという選択が考えられます。
現代のフェミニズムというのは、わたし視点では後者のように見えてしまうのです。
次善策としては、つまり表面上の差異をなくしていくという意味では、いまのフェミニズムの考え方に乗るのも悪くはないのかなと思います。具体的に言えば、例えば男女の給料格差はなくしたほうがいいという議論があったとして、その議論が原理的に女性性を抑圧するとしても、やむを得ないとする考え方です。
この次善策は、男が提示するなら巧妙なトラップだと言えますし、女が提示するなら敗北宣言に等しいことになります。
クオータ制も、男女同額の賃金も、この論法を使っていないと言い切れるのか。
そこに本当に屹立したファルスが隠されていないのか。つまり、女を殺していないのかというのが、わたしの問題意識の核心部分なのです。
まあもちろん、お金は大事ですし、政治家も男女同数にしたほうが、なにかとバランスが良いという直感のようなものは感じるのですが……、女側からの肝心の回答がないので、男側からの論理としては、女がそれに乗っかってくるのなら、まあここは一歩引くかというような姿勢になるでしょうか。
4
ここまでたどり着いた皆様にはお茶のひとつなぞ振る舞いたい気持ちなのですが、さてようやく本題というかなんというか。
男女比1対99の政治体制について述べていきたいと思います。
男女比1対99というのは、男が1で女が99の世界です。必然的に男は貴重ですから、女が政治を担っているという場合が多い傾向にあります。
この世界は、先に述べた現実世界に比べて、ジェンダーフリーや根源的なフェニミニズム、つまり男女平等、性からの解放を謳うという意味で使いやすいガシェットとなっているように思います。
実際問題、男は貴重であるから、多くの場合保護される立場にあり、女は逆に性欲にまみれて貴重な男と性交したいと考えている……という設定が多い。
要するに、実際の現実世界が男のほうに権力勾配があるのに対して、女側に権力勾配があるので、世界を裏側から書く要領で、ジェンダーについて考えさせる効果がある。
わたしは、その効果を一定程度は認めるのですが、しかしながら、これまでに述べてきたような精神分析の文脈から言えば、やはり性からの解放を抜本的になし得ているのかは、疑問点が残るところです。
どういうことかというと、所与のものとして存在する前提設定『男女比1対99』の世界観は、もとよりある時を境に男女比の均衡が崩れたという設定が付与されていることが多いからです。
もちろん、これは科学的に未発展な時代において、男女比が崩れればそのまま人類が絶滅してしまうであろうという想像力からもたらされたものだと思いますが、わたしはそこに作者様方の無意識的な選択を感じます。
人類史の始めから男女比が1対99でなかったのは、女の社会――ひいてはファルスの力が弱い世界――もっと言えば、狂人の世界を想像の範疇に捉えることができなかったからではないかと考えるのです。
よって、男女比が均衡な世界が、なんらかの理由によって急速に崩れ、いままで男が使っていた政治というシステムに、生物学的な女がおさまったという設定を持ってきたのではないか。
そう考えると、男女比1対99の世界では、女の性欲が強いという設定がしばしば見られるのも納得できます。
小説の中の彼女たちは、肉体的には女かもしれませんが、そのポジションは男性原理に支配された男そのものなのです。
例えば、主人公は異世界トリップの要領で、元の男女比均衡の世界で生きており、女性優位に表面上見える世界に対して、男性解放宣言をしてみたところで、これは元の世界の女性解放宣言とはまったく意味が異なることになります。
なぜなら、女性解放宣言がアウェイな中でされていることに比べて、男性原理が支配的な中でされていることになるのですから、主人公に対して甘々設定なんです。
男女比1対99の世界を描く小説は、女を描く言葉を持たないのではないか。
これがわたしの結論とあいなりました。
誤解なきように述べておきますが、女を書いてないからといって、その価値が減じられることはありません。こころを打つストーリーやキャラクターを書くことはできますし、ラカン論風の女はいない方式で、男ではなく主人公くんだから好きというようなカタチに持っていけば丸いので。というか、わたしもそういうストーリーは好きなので。
しかしながら、ラカン論では再三繰り返しましたが女はいないのです。
5
結語。ここまで長々と読んでいただきましてありがとうございました。
このエッセイを書いた動機は、単純で女の女による女のための小説を読んでみたいというわたしの欲望からでたものです。
言い換えれば、狂人の狂人による狂人のための小説を読んでみたいという想いから出たものです。
しかしながら、それは原理的に不可能でしょう。狂人は言葉を絶しているから狂人なわけで、狂人が言葉を語ればそれは狂人にあらずという次第です。
ちなみに狂人狂人言ってますが、べつにこれは反社会的人格障害者やサイコパスなどのことを指し示しているわけじゃないですよ。
想定しているのは、国語の問題で「作者の気持ちを答えなさい」について「わかるわけない」とか答えちゃう系美少女です。
とはいえ、国語の問題も宗教も正常人育成マシーンなところはありますからね。
ファルスというチートアイテムを持っている正常人視点で見れば、「わからない」というのは嘘である可能性が高い。
原題の「作者の気持ちを答えなさい」とは、「(ファルスによって統制されたプロトコルに従って)作者の気持ちを答えなさい」と言ってるわけです。要するに、大多数の人ならそう捉えるであろう正常人の反応を書けと言ってるわけです。
ここで、わたしが「嘘」かもしれないといったのは、去勢されている=ファルスを持ってるのに、持ってないと言ってるかもしれないということです。
去勢否認――つまり、社会に対して万能の自分を取り戻したいという時期――いわゆる中二病の可能性がありますからね。
未去勢なのか去勢否認か。
この見分けは、誰の目にもつかないし、おそらくその人本人にとってもそうなのではないかと思います。
なっげーわ、寝てた