Ver.0.0 ビギナー
「ハァ、ハァ――」
少年の弾む息づかいが暗がりの通路にこだまする。左右の壁にはどこの馬の骨ともわからない男女の肖像画が並び、揺らめくランプの炎が彼らの顔を不気味に照らしている。そんな薄暗がりを恐れることなく、少年は通路を疾走していく。
通路の壁面から飛んでくる矢をかい潜りながらの全力疾走。そのまま一気にセーフティゾーンまで駆け抜けると、少年の前には仰々しいほどに大きな両開きの扉が立ちはだかった。
ここはVRゲーム”アリスβ版”の洋館ダンジョンの中。おそらくこの先にダンジョンのボスがいるのだろう。少年は呼吸を整え、意を決してから扉を押し開ける。
扉の先は大小さまざまな人形で埋め尽くされた大広間。消えかかったシャンデリアの灯が不気味に室内を照らしている。ふと部屋奥に目を向けると、ある一点が輝きを放っていることに気づいた。そこには純白のドレスを身に着けた少女が横たわっていた。少年に気づいた彼女はドレスから覗く白い足を晒しながらむくりと上体を起こす。その拍子に透き通った銀髪が肩から滝のように流れ落ちた。
「ここまでよく来たわね。でもこの部屋に足を踏み入れてしまったあなたは、もう逃げることはできない。ここがあなたの墓場となるのよ……」
と、彼女はボスのテンプレっぽい言葉を口にした。それと同時に、彼女の周囲にあった人形たちが動き出す。そして、カタカタと揺れながら、少年へと一斉に突撃した。少年はそれらの人形の大群を、まるでハエでも払うかのように剣先で薙いでいく。
少年は人形たちを退けながら徐々に彼女との距離を詰めていった。すると、彼女は逃げるようにして大きく跳躍。少年の頭上を飛び越えて再び距離を取ろうとする。ゴシック基調のドレスがジャンプの拍子にふわりと舞い、その華麗さを際立たせた。少年は彼女の着地地点へ瞬時に移動して待ち伏せ。剣の柄を強く握りしめ、斬撃を繰り出すタイミングを見計らう。
そして、彼女が着地した瞬間に抜刀。剣先を彼女の喉元へと走らせようとする。タイミングは完璧。しかしその時、彼女の少し吊り上がったアッシュグレーの瞳と目が合った。異変に気づき、刃を彼女の首筋寸前のところで止める。
少年は驚いて目を見開いた。彼女の瞳に浮かぶのは恐怖の色。小さな赤い唇がカタカタと震えていたのだ。
「え?」
少年は思わず戸惑ってしまった。彼女はダンジョンのボスであり、プレイヤーが倒すべき”敵”であるはずだ。ボスもまたプレイヤーを撃退するために全力を尽くすはずである。これがVRゲームというものである。しかし、彼女はプレイヤーに対して恐怖して身動き取れずにいる。
少年が剣を鞘に納めると同時に、彼女はその場にへたり込んでしまった。そして、大きな目に涙を浮かべ始める。
「は? なんで、泣いてんの?」
少年は思わず呟いた。
「だって、ここに初めて敵が来たんだからしょうがないじゃない?」
「え、しゃべった!? 敵って俺のこと!?」
「あなた以外にいないでしょ!? 何言ってるの!?」
何言ってるのとはこっちのセリフである。今まで何百回とこのゲームでボスを倒してきたが、ボスからこんな反応が返ってくることは初めてだった。新手のクエストか、それともバグの類であろうか。
それから彼女に詳しく事情を聞いてみると、彼女がこのダンジョンのボスであることは間違いないようだった。しかし、彼女はこのダンジョンに配置されて百日が経過したものの、ダンジョンの位置が辺境であるためかプレイヤーと対峙したのは今日が初めてだという。プレイヤーの初心者がいるように、ボスの初心者も同様に存在するらしい。
「それにしてもボスがプレイヤーを怖がるってどういうことだよ……」
「しょうがないじゃない? 負けたら私の存在はこのゲームから消えちゃうのよ!? あなたは死ぬのが怖くないの?」
「いや、別に……」
少年は反射的にそう答えては見せたが、それはあくまでもゲームの中での話である。現実で実際に刃物や弓矢で襲われたらどう思うだろうか――考えてみてもいまいち実感がわかなかった。
「そう……。あなたは勇敢なのね」
彼女の言葉は少年を褒める内容ではあったものの、その口調には辛辣さを感じた。気まずい空気が少年と彼女の間に流れたそのとき、少年がポンっと手を打った。
「そうだ! 俺がお前のこと、他のプレイヤーに負けないように鍛えてやるよ!」
そのひと言は、少年にとって新しいおもちゃを見つけたときのように好奇心から思わず口をついて出た言葉だった。
「はあ? ”鍛える”というのは目上のものが目下のものに施すものよ? なんで私よりも弱いあんたに鍛えてもらわなきゃならないのよ?」
「なんで俺が目下のものになってるんだよ!?」
「だってあなた、見るからに弱そうじゃない。まるで捨てられた子犬みたい……」
彼女はそう言って少年を憐れむような目で見る。少年は自らの服装に視線を落とすと、お世辞にも見てくれがいいとは言えない。ここまでひとりで死線を潜り抜けてきたため、黒金属の軽鎧はボロボロ。しかも、少年の身長は150cmくらいと低く、まるで小学生が泥んこまみれで遊んだ後のような出で立ちだった。
「余計なお世話だ! ここでは現実世界の外見がそのまま投影されてるんだからしょうがねえだろ!? 俺が目下かどうかは置いておいて、お前としてもプレイヤーと対峙した経験はないよりあった方がいいと思うだろ!?」
「まあ、それはそうだけど……」
「じゃあ決まりだ! 俺はシバっていうんだ! よろしくな!」
少年は彼女に向かって手を差し出す。
「しょうがないわね……。私はマリアよ」
彼女は少年の手を細い手で握り返した。
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