【フラガール】踊れ少女、嵐の教室《ステージ》で
台風。このワードを聞いて、皆さんは何を思い浮かべるのだろうか。どこかの農家のおじいさんは、重い溜息をつき燦々たる荒れた農園の苦い記憶を思い浮かべるのだろう。都内の高層マンションに暮らすサラリーマンは、会社が休みになることに喜びを感じ予定外の休日を趣味の映画鑑賞に当てるプランを思い描くのであろう。小学校や中学校の学生たちは、学校から通知されるであろう休校案内のメール見るやいなや、小躍りし友達と歓喜を分かち合おうとLINEを開きお祭り騒ぎになることを思い浮かべるのだろう。お祭り騒ぎのように喜ぶという点においては 舘脇美奈子も例に漏れない。ただ一つ、共有できる友達がいないという点を除いては。
膝上2cmで綺麗に揃った黒のスカート。伸びる透き通った細身の白い足は、彼女がスポーツを嗜まず、どちらかといえばインドアな趣味に打ち込んでいる女学生だということを想起させる。美奈子は溜息をついた。こんなはずじゃなかったのに、と。
悲しげに見つめる窓の向こう側には、つい1時間ほど前に美奈子が住む県に上陸した台風26号『フラメンコ』のもたらす強風によって、普段の姿からは想像もできないほど揺れている5mを超える巨木がある。もちろん、風だけではなく雨も激しく降りつける。先ほどから耳障りな雨音が窓に打ちつけるせいで、寝ることで台風をやり過ごそうという計画も泡となり、暇だから窓の外でも見て退屈を紛らわせようとするも、見えるものといえば転がっていくダンボールやゴミ、そしてたまに宙を舞う折れた傘くらい。美奈子は思う、これも全ては忘れた課題を放課後を使って片付けろ、と言ってきた国語教師が悪いのだと。確かに、期限を忘れていた美奈子自身にも非はあるが何も台風の日に居残りさせることはないだろう。
「あのハゲ教師、今日中に帰れなかったら呪い殺してやる」
こんな好戦的なセリフは、普段クラスにおいて寡黙インテリ読書キャラを貫いている美奈子の口からは絶対に出てはこない言葉。これも台風がもたらす一時的なお祭り効果なのだろう。
携帯の充電も切れ、読書ストックも朝読書にて消費してしまった美奈子に残された退屈しのぎは独り言くらい。先ほどのセリフを脳内にて反復すると、思わず口角が上がる。普段騒がない人間ほど、開放感に浸りたいという欲求は強い。
「あーあー、誰もいないのー」
振り向きながら身の安全を確認する。誰かにこれからすることを聞かれたら恥ずかしいからだ。美奈子は慎重な性格であった、こと保身にかけは。
……静寂が帰ってくる。美奈子は息をスッと吸い込み、お腹に手を当てる。足を肩幅程度に開き、両足つま先を左右に開く。臨戦態勢だ。そして静かに、しかし徐々に声量を上げ歌い始める。曲は最近やっている深夜アニメのオープニング主題歌。歌って踊るアイドルアニメなだけにアップテンポなリズムは聞いていても歌ってみても心地よい。しかも今回は環境が最適だ。誰もいない放課後の教室、外は嵐、外が暗いぶん昼間よりも明るく感じることはできる蛍光灯の光はまるでスポットライトのように美奈子に降り注ぐ。教室を独り占めにできる背徳感がこんなに気持ちいいとは、生まれて16年の美奈子は今日初めて知った。
「舘脇さんて歌上手いんだね」
心臓が止まるという本当の意味も今日この瞬間に知った。
気がつくと、入り口には新道亜紀 が立っていた。同じクラスの彼女は、美奈子と同じ黒いスカートを膝上5cmの位置に身につけ、伸びる足は褐色に染まり筋肉質な美しい太ももがうかがえる。視線を上に移せば今度は黒いセーラー服が目に入る。貧相な体躯の美奈子とは異なり、布越しにもわかる豊満な曲線は男子の視線を釘付けにすること間違いなし。短く耳元で切りそろえられた栗色がかった髪の毛はどこか幼さを感じさせ黒く輝く黒曜石のような大きな瞳は見るものを惹きつけさせる。見ればわかる、クラスの人気者だ。だが、そんな彼女は全身が濡れていた。体に張りつき薄く透き通る布地。うっすらと見える褐色の肌はまさに理性を穿つ破壊力。水滴を垂らし、顔に張りつく髪の毛も彼女の普段は見えない妖艶さを際立たせる。
「し、新道さん。ど、どどどうしたの、こんな放課後に」
「いや忘れ物しちゃってさ、取りにきたの」
台風の日にくるなよ、と思ったが口には出さない。美奈子の恥は晒せなかった。
「ごめん、タオルとかって持ってない?」
「……も、持ってない」
「そっか、ごめんね。邪魔しちゃって」
別に大丈夫だよと明るく切り返す予定の前に、気になるものが視界に映る。亜紀は腕を反復するようにして探し物を見つけると、机からそれを取り出す。忘れ物とはDVDであった。表に何か記載がある。瞼を薄めて目を凝らすと文字がギリギリ視認できる。
「フラ……ダンス?」
亜紀は面食らったような表情をすると、慌てて文字を隠す。頬に紅が散る。
「好きなんだよ、フラダンス。変かな」
そう言う赤く染まった亜紀の顔を美奈子は初めて見た。同性でも意識してしまうほどに魅力的で可愛げな表情。小学生男子が可愛い子をいじめ始める理由はこういう心理なのかもしれないと美奈子は思った。
だが、茶化す気にはなれない。DVDを大切そうに宝物のように胸に抱くその姿は、美奈子が本を手にしている時と少し似ていた。いつの間にか乾いていた喉を潤すために唾を飲みこむ。湿気のせいなのか、亜紀の首筋を流れ鎖骨を伝う汗は、まるでこの空間は二人だけのものだと語ってくれてる気がした。
「へ、変じゃないよ。一人で歌ってた私に比べたら」
「……ありがと」
はにかむ彼女の顔に美奈子の顔にも赤みが入る。これも湿気のせいだろうか。どくどくと脈打つ心臓の鼓動が鼓膜に響き落ち着かない。あれだけ耳障りであった台風の音は、いつしか、聞こえなくなっていた。
「興味あるかな、フラダンス」
「うん、……あるかも」
たぶんこの時の私が本当に興味を持ったのはフラダンスじゃなくて、新道亜紀だったのだろう。普段の彼女はよく笑い、いつでもクラスの中心。可愛いのに浮いた噂なんか一つもなく、完璧とも言えるそんな女子高生。特定の部活動には参加していないらしいが、いつもどこかで助っ人として活躍する彼女を、本を持った美奈子はたまに視界に捉えていた。
「誰も来ないかな」
「うん、たぶん私たちだけ」
さっき私がしたような確認を亜紀はとる。
亜紀は教卓をどけると、サンリオとかのミニキャラのストラップが付いた鞄からスマホを取り出す。そんな彼女から目を離せない美奈子。亜紀は初めて自分の歌を披露する少女のような恥ずかしげな表情で何度か視線を美奈子へ送る。普段であれば逆なのだろう。
「見てて」
音楽が流れ始める、亜紀のスマホからだ。アップテンポなその曲はどこかで聞いたことがある。テレビの影響だろう。聞いただけで分かるハワイアンを想起させるその曲は激しいリズムを奏で、新道亜紀をさらに魅力的に、情熱的に変化させた。ピンと伸びた地面と天井を繋ぐような美しい背筋。それを支える腰と足の筋肉の伸び。曲が始まると、乱れるようなステップで体を左右へ大きく揺らす。しかし、そのエネルギーは体の移動だけではなく、腰に巡る。テンポに合わせて突き出される腰つきは、一層彼女の細身を際立たせる。目が釘付けになる、初めて見る踊り、彼女の姿。目が離せない。彼女だけのオンステージ。蛍光灯のスポットライトは新道亜紀に降り注がれる。地面を蹴り打つ軽快なステップが妙に心地いい。美奈子は思った、なんて綺麗なんだと。
気がつくと曲は終わり、教室に渦巻く熱気を帯びた空気は見ていただけの美奈子にも汗を流させる。いつの間にか台風は過ぎ去り、雲間から差し込む日差しが亜紀に降り注がれていた。亜紀は肩で息をする、呼吸を整えようと吐く息でさえどこか気品を感じさせる。美奈子は拍手を送っていた、理性なんかが追いつかない心からの賛辞。亜紀は気息を整えると間違えないように慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「フラダンスっていうんだ、これ。……私さ部活作ろうと思ってるの」
「フ、フラダンスの?」
「うん。舘脇さん……どうかな」
高揚した表情の亜紀の瞳は大きく見開かれ、嘘ではなく本気で誘ってくれているのだと感じさせる。
「どうして、その、私?」
「だって……」
その続きを聞いた時、歌を聞かれることなんか吹き飛ぶくらいの羞恥が美奈子を襲った。たぶん、一生忘れない。
「舘脇さん、いつも私のこと見てたでしょ」
にやりと小悪魔のように微笑む彼女の表情。美奈子は思った、これはやられたと。
END