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第2章

 ラジオ達と別れて、伊野さんに電話を掛けた。事務所に居たらしかったが、「写真を返しに行く」と言うと「自宅の方に来て」という返事だった。伊野さんの自宅は事務所から徒歩五分程の所にある。洒落た若者が買い物に集まる街から一駅分離れると、途端に静かな住宅街だ。マンションの一階からインタホンで呼び、オートロックの入口のドアを開けてもらって三階へ。彼の部屋を訪ねることは滅多にない。

 ───独りで住むの、もったいない。

 3LDKの広い部屋は、伊野さんが結婚する時に購入したものだ。一昨年に離婚するまで約二年、奥さんと二人、ここで暮らしていたのだが、………今やその面影はない。

「その辺に適当に座ってくれ」

「どこに」

 かつて食卓のあったダイニングはテーブルセットを処分して、広々としている。目の前のリビングに素敵なソファがあるけれど、写真誌や新聞が山積みになり、カメラバッグが鎮座在す。客ごときが座る椅子はないのだ。

 伊野さんはキッチンで生姜をすり下ろしていた。カウンター越しに覗いて「何してるの」と訊ねると「冷や奴食う」。頷いて、私はカウンターの上の写真立てに目を遣った。

 ───何年前の写真だろう。

 聞いたことはある。手前に座っているのは伊野さんが若い頃にお世話になったカメラマンの人で、いわばお師匠さんだ。その後ろに並んでいる二人───伊野さんと、東さん。

「若いねえ、伊野さん」写真を見ながらくすっと笑いが洩れた。

「髪の毛真っ黒」

「言うなそれを」

 若白髪の混じった髪はキッチンの白色灯の下でグレーがかって見える。「苦労人だよなあ俺」と鼻で笑って、冷や奴とビールを載せたお盆を持った。

 ソファの前の、カーペットを敷いた床に座ってテーブルを挟んだ。冷や奴をつまむ。葱と茗荷と生姜の香り。写真の礼を言ってファイルを紙バッグごと渡すと「どうだった」と訊かれた。ラジオと山崎君が言っていたことを話した。

「別に珍しい技法でもねーし、意識してなかったけどな」

「ふうん?」

 緩くなったビールの泡が口にとろんと流れ込む。

「てゆーか…そういう見方をされるとは思ってなかったな」と言うので、彼らのことを説明した。

「ふーん。絵描きの娘に絵描きの卵、文学青年に評論家か。なるほどな」

 伊野さんはククと笑った。

「若いな」

「うん」

 ふいに訪れた静寂。

 彼はカウンターを振り返った。目を細めて写真を見遣る。

「若かった」

 ───うん、と声にならないまま頷いた。


 ≪螺旋と走る少女が示すのは時間の流れで≫


 耳の奧で、流れるように語るラジオの声が静かに響く。


 ≪少女の姿をいくつも描くことで、この螺旋を左回りに見せている。けれどそれだけじゃないんだ。───≫

 ≪そうして僕らはあの少女と共に階段を駆ける≫


 写真を見つめ、私達は───少女の駆ける階段を見上げていた。

 東さんのいた日々を。

「……空木秀二だっけ?最近すっかりハマってんのな、ミオ」

「え?」

 振り向いて笑った。

「うん。知り合った人達がみんな空木秀二の身近な人だからかな。…身近な感じがするの。今まであんまり絵とは縁がなかったから余計にそうなのかもしれない。それに、写真と共通する部分ってやっぱりあるじゃない。限られた平面の中で表現するっていう」

「ああ、うん。何をどう収めるかね」

「空木秀二の絵は現実に有り得ない風景……」

 言いかけて語尾が萎んだ。『木霊』に描かれた透明な群衆のようなものが、空木には見えていたのではないか───野宮君はそう言ったのだ。

「……のような、幻想的な世界に人を描いているところに惹きつけられるっていうか……」

「そうだな。俺も人ばっかり撮ってるから、何となくあの人の絵はわかる」

「それに娘の梢子さん以外は空木秀二に会っていないのに、みんな彼に惹かれてる。…私も気になる。あの絵を描いた人がどんな人だったのか」

「……東が聞いたら妬くぞ?」

「おーっと、すまん」

 あははと笑って後ろ手に突いた。テーブルに腕を載せて背を丸めた伊野さんがビールを注ぐ。缶を振って残った滴をグラスに落とし、少ないビールをごくんと飲んだ。

 振り返らなくても、写真から向けられる視線を感じていた。

 もういない人のことを笑って話せるまでに要した月日。

 遥か時の向こうから、東さんは変わらない穏やかな笑顔で私達を見ている。





 ひとりで帰る。

 駅前商店街のコンビニに寄ってファッション雑誌とヨーグルトを買った。買い物袋をぶら下げて少し早足で歩いた。駅から離れて明かりが少なくなると心細い。低い空に星がぽつんと一つ、瞬きながらついてきた。





 秋冬号の追い込みで夏休みを取るどころか休日出勤もあった先月。クリスマスギフトカタログの仕事も一段落して(終わってはいない)、どうにか休暇を取る余裕も生まれてきた。部内で話し合いながら、一人ずつ休みを取っている。涙ぐましい。

 今日は贅沢するぞと意気込んで出かけた木曜日。映画も観たかったし秋の服も欲しかったし、話題のオープンカフェも覗いて撮影の参考に………って結局仕事か私!

 ハムと野菜をたっぷり挟んだパンをぱくつきながら周囲を見回している自分に気づいて、心の中で一人、自分につっこんだ。

 きっと平日のせいだ。隣のテーブルではいかにもビジネスマンといった男性が、いつも私がしているように、ノートパソコンのキーを叩いている。自分の小さなバッグに目を遣って溜息を吐いた。

 ───私はどんなふうに見えるのかな。

 通りを笑いさざめいて歩いてゆく人達。携帯電話で商談をする人。急ぎ足でどこかへ行く人達。その中でぽつんと一人、お茶を飲んでいる。周りは同じひなたのテーブルなのに。

 セレクトショップを覗いて歩く。何も欲しいと思えなかった。この前雑誌を見ていた時はあれもこれもと思ったのに。

 ひとりは嫌いじゃない。今日は一人の時間を贅沢に過ごすつもりだった。たっぷり寝坊をして、洒落込んで出かけて、だけど───

 六角屋へ行きたくなった。

 空いた電車に乗る。……六角屋には遠山さんがいて、「よう、パソコ」と迎えてくれる。私が話しかければ答えてくれて、そうでなければ黙っている。時々口は悪いけれど、いい人だ。六角屋の居心地の良さは、彼が空間の一部になって作り出す雰囲気のせいだと思う。

 そしてそこには空木秀二の『北天』がある。

 幻想の風景に人を描き続けた空木が、人を描かなかった作品。

 たった一つの赤い星を中心に巡る北の空の星々は弧を描き、その様は見る物を吸い込むかのようだ。そして、その空に巨大な雪の結晶のシルエットが重なる。それはまるで眼のようにも見える。───空木秀二という画家の瞳。

 趣ある古い店構えの花屋、森宮生花店の脇の地下への階段。入口に六角屋が営業中であることを示す看板が出ていなかった。遠山さんは気紛れで、営業時間は一定しない。彼は銅版画家でもあり、その幻想的な作風は空木からも高い評価を得ていたほどだが、遠山さんは「絵だけじゃやっていけないから」と苦笑いで話してくれた。

 空木を慕っていた遠山さんは、開店していなくても店にいることが多い。『北天』を見ているのだろう。そんな時に私やラジオが訪れても、「よう」と迎えてくれるのだ。

 だからこんな時───ここへ来たくなる。

 ガラスをはめ込んだドアにぶら下がる小さな額。黒地に白い文字、『六角屋』。

 壊れて俯いたドアノブを握って、回さずに引くのがコツだ。ドアを開けると、ぽろぽろというギターの音が絵の廊下にまで聞こえていた。ゆったりと優しいアルペジオ。

 ラジオのギターだ。

 ほっとした。≪よく喋ってよく歌う≫と言われる通り、彼は弾き語りもこなす。「ラジ、来てたの」と声を掛けながら入口に向かった。

 ふいにギターの音が止んで、カウンターに背を向けて座る人が振り返り、思わず「あ、」と手を口にあてた───知らない人だった。

 カウンターの中と『北天』の上の照明だけが灯され薄暗く、振り向いた顔にかかる前髪の影が濃い。細面に黒縁眼鏡を掛けた男の人だった。

「……ごめんなさい……失礼しました」

 軽く頭を下げて横を見る。遠山さんがいない。その人は肩越しにこちらを見て戸惑ったように見開いていた眼鏡の奧の目を、すっと細めた。

「よう、パソコ」

と遠山さんがドアを開けて入って来た。いつものようにエプロン姿で、左手に赤い箱を持っている。

「何やってんだ。中に入れよ」

「…いいの?」

「パソコが遠慮するとは」

「どういう意味よ」

 判るけれど。私は外に看板がない時でも降りてくる、≪店の客ではない客≫なのだから。………この人もまた≪店の客ではない客≫だ。遠山さんに会いに来たのなら私は遠慮すべきだろう。

 けれど遠山さんは「邪魔だ、入れない」と言ってカウンターの前まで私の背中を押した。そして赤い箱をカウンターの上に置き、黒縁眼鏡の人に「どうぞ」と言った。

 ───同席してもいいのか。この人は誰だろう。

「ありがとうございます」

 その静かな声を聞いていないかのように遠山さんは彼に背を向け、カウンターに入ると、パチンパチンと照明のスイッチを次々と入れた。お冷やを置いて「座れよ」と私の顔も見ずに葡萄のカップを手に取った。

 私がいつも座る椅子に、お客さんが座っている。たったそれだけのことで戸惑った。

 眼鏡の彼との間の椅子を一つ空けて、端の席に着いた。彼はギターを置くと向こうの椅子の背に掛けてあったスーツのジャケットを取って膝に載せ、「失礼」と私に声を掛けて、赤い箱を自分の方へ引き寄せた。

 その動きで、私のよく知る香りがふわりと彼の方から微かに漂った。

 ───同じ匂い……

 私は両手でグラスを包むようにして身を竦めた。

 赤い箱は裁縫箱だった。多分、若葉ちゃんの物だろう。遠山さんがコーヒー豆をミルで挽く。眼鏡の彼はポケットからジャケットのカフスボタンを取り出してカウンターにぱちんと置き、針に糸を通し始めた。大きな手、細長い指。慣れた手つきだな、と横目で見て、あんまり見ては失礼だろう……と目をそらした。

 豆を挽く音が止まった。

 その瞬間の、しじまの奧から───ピーンと耳鳴りがする。片手でそっと耳を押さえた。

 隣で彼が首を傾げ、ボタンを付ける手を止めた。左手の人差し指で耳を押さえる。

 遠山さんがコーヒーをいれる音が微かな耳鳴りの向こうで、遠く聞こえる。同じしぐさをする私達を見て、「何だ?」と口をすぼめた。

「…そういえば、ここって音楽かけないのね」

「そんなもん、絵の邪魔だ」

 遠山さんの答えに、眼鏡の彼がふっと笑った。

「このギターはどうしてここにあるんですか?」

「それはお客さんのです」

「えっ、お客だと思ってたの?遠山さん!」

「何でそんなに驚くんだ」と睨まれた。眼鏡の彼がくすっと笑って私を見た。

「だって前に私に言ったじゃない。『おめーは客じゃねーだろ』って」

「あれは……」

 困惑して目をそらす遠山さんがおかしかった。あの時は売り言葉に買い言葉だったのだろう。私がふふと笑うと、遠山さんは私の前にカップを置いてニッと笑った。

「つまり、仁史の歌は絵の邪魔」

「あはは」

「これ、逢坂君のですか」

 眼鏡の彼がギターを見遣る。遠山さんが頷いた。私は「お知り合いですか」と尋ねた。「ええ」という答えにほっとする。そうでなかったら………この雰囲気は失礼だろう。マイペースを崩さない遠山さんにつられて、私もつい、いつもの調子で振る舞ってしまう。

 彼はボタンを付け終えて、針と糸を裁縫箱にしまった。

 遠山さんはドリッパーを洗って片付けると折り畳みの椅子を起こして腰を下ろし、本を開いて読み始めた。……店の一部に溶けてしまった遠山さん。ということは。

 この人は、ラジオの客なのだ。

 だからって初対面の人と一緒にしておいて放置するのか。とは、とても言えなかった。

 緊張する。カップのコーヒーばかり見ていた。

 沈黙。

 時折の音。遠山さんがページをめくる時の、微かに擦れ合う紙の音。コーヒーを飲む時の、カップとソーサーが触れ合う音。静けさの中で、聞こえない音がする。

 ───耳鳴りだ。また。

 外のドアが開く音がして、遠山さんが本をぱたんと閉じた。壁越しに聞こえる、ゆっくりとした足どりで床を軋ませる音が止んだ。………入口に姿を見せない。どうしたのだろう、と私達は顔を上げてラジオが現れるのを待った。


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