第二話 旬味亭
ぐー……きゅるるる……
緋凰は間抜けな音の発生源に手をやると、自分が最近まともに食事をしていないことを思い出し、強烈な空腹感に襲われた。お腹が鳴るまで自分が空腹だということに気が付かなかったのだ。三食くらいだったら慣れっこだが、今回の王都召喚にあたって、五食抜いていた。さすがに限界がきていたみたいだ。
緋凰は離宮に行く途中、城下町の食事処に立ち寄って昼食を摂ることにした。せっかくだから、知り合いの店にでも顔を出そうか……と思い、目的地までの直線距離から横道に入っていった。
旬味亭――と達筆で木の看板に店名が彫ってある。旬味亭こそが緋凰の、王都にいたころの行きつけの店だった。
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旬味亭は、昼を過ぎ、ちょうど客が減りだした頃だった。品良く調えられた店内は半年前と少しも変わっていない。
「いらっしゃいませ……ってあれ?紅華さま?久しぶりじゃないですか!」
中から顔見知りの娘が出てきた。彼女は嬉しそうに緋凰を招き入れた。
この娘は緋凰より、二つ年下で、名を周翡と言った。みずみずしい肌に爽やかな笑顔が良く似合う、活発な娘だ。ここ、旬味亭の看板娘で、裏方の両親を手伝っている。
彼女とは知り合って10年以上にもなる、親しい間柄なのだが、仕事の関係で、緋凰はやはり偽名を使っているのだった。そう、『紅華』とは緋凰が街で使う偽名のひとつである。
緋凰と朱鳳と紅華。どの名前にも共通するのが、「あか」の文字だ。この三つの名前を、緋凰は思惑あって使っているのだが、その意味は誰にも―諒にも知らせてない。今のところ、緋凰だけの秘密だ。
しばらくすると、美味しそうな料理が運ばれてきた。常連客・紅華の前には、注文無しでも料理がやってくる。これは旬味亭との深い絆の証だ。
「近頃、お姿を見かけませんでしたけれど、いったいどちらへ?お仕事ですか?」
周翡は斜め向かいに腰かけると、緋凰に話しかけた。
「ん?周翡には言ってなかったか?」
緋凰は奥の料理人たち――周翡の両親に「いただきます」と一声かけると料理をほおばり始めた。
「半年前から、私の本拠地は刹州李風になったんだ。今日は上司命令で出張中、ってところだ」
「……初耳でした」
「悪いな。黙っているつもりはなかったんだが」
周翡は謝る緋凰に気にしていない、とかぶりを振ると水をすすめた。やっとありつけたまともなご飯を緋凰は黙々とかきこんでいる。
「そんなに焦らなくても……」
周翡は苦笑いだ。
「なぜまた、刹州なんて所へ?あそこは治安が悪い所と聞いてましたが?」
周翡の言う通り、刹州の良い噂はあまり聞かれなかった。刹州は、不良が暴れ、裏組織が暗躍する――星に影を落とす国境近くの問題の州だ。
「でも、最近、朱鳳丞相が行かれてから事件も減ったとも聞きますよね」
朱鳳丞相こと緋凰は、ぼんやりとその時のことを思い出していた。あれは意外と緋凰の性に合っていて、とても楽しかったのだ。
周翡はそんな緋凰に全く気づかず、世間話を続ける。半年前の繋がりで、話題はいつの間にか晨の話になっていた。
「そうそう。最近羽奏宮に晨の皇子さまが来られたんです。ご存じでした?」
「あぁ、話だけは。どうだった?見たんだろう?」
急に食いついてきた緋凰に驚きながら周翡は説明した。
「ええと、背丈はわりと高くて、瞳は黒」
髪の毛も漆黒で、なかなかの公達ぶりだったらしい。
「あ、目力と言うのですか、目付きは鋭くて…御名前の通り氷の様でした」
目付きは鋭い……か。晨の皇子は偉大な耀王の影に隠れているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。これから会いに行く相手に興味がわいてきた。
食事を終えると緋凰は立ち上がった。
「周翡、馳走になった。親御にもよろしく言っといてくれ」
「あら、もうお帰りですか?お忙しいのですね…」
「あぁ。人に会いに行くんだ。……そう悲しげな顔をするな。また近いうちに来るから」
緋凰は名残惜しそうな周翡をなだめて、懐を探り、金を置いて店を後にした。
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「だと良いのですが……」
店先まで送りに出た周翡はその後ろ姿に呟いた。
今日の緋凰は雰囲気が違ったような気がしたのだ。まるで、どこか遠い所へ行ってしまうような……。
周翡は頭を振って不吉な考えを打ち消した。
空は晴れているのに、なぜだか少し涙の味がした。




