第九話 丞相・朱鳳
あの後、緋凰は仰天した氷暉の侍従に、羽奏宮の客間へ通されていた。
言われるがままに座っていると、どうもご丁寧に、茶と菓子が出てきた。
客人なんて滅多に来ないだろうに、手際がいい。
主人の指示が行き届いている証拠だ。
――どうやら不法侵入をしても丞相なら許されるみたいだ。
……意外とこの身分もいいところがある。
緋凰は妙なところに感銘を受けた。
程なくして、侍従が茶を運んできた。品のよい茶碗になみなみと茶が注がれている。透き通った茶から香ばしい薫りが漂う。
緋凰は軽く眉を上げた。
――これは。おそらく晨産の香花茶だろう。
晨は茶葉の名産地でもあるのだ。香花茶は晨でしか作られず、取り寄せるために、立派な値が張る高級品である。
噂には聞いていたが一度も口にしたことはなかった。こんな機会は滅多にない。
せっかくなのでありがたくいただいておく。
緋凰は優雅に茶に手を伸ばした。
ゴクリ。
たった一口で口腔に香ばしさが広がる。ほろ苦い、大人の味だ。
お子様舌の夏維なんかは顔をしかめるだろうな。後で飲ませてやろうか。
緋凰は困惑した夏維を想像した。
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氷暉は、先ほどからずっと緋凰の向かいに座り、相手が話し出すのを待っていた。氷暉は緋凰を見かね、声をかけてきた。
「……おい、お前は茶を飲みに来たのか。しゅ……ではない、緋凰と言ったか?何故ここに?話があるなら聞こう」
緋凰は茶に気をとられていて、目の前に氷暉がいることをすっかり忘れていた。
「……なっ!お前、居たのか。居るならもう少し存在感というものをだせ。驚いただろう」
香花茶を吹き出しかけ、緋凰は口を尖らせた。
そしてちゃっかり自分の非を相手の非に置き換える始末である。
対して氷暉は緋凰の返しに面食らっていた。
「……呼びにくいなら朱鳳でも構わないが?」
――そこじゃない。
氷暉は内心呟いた。
氷暉が戸惑ったのは別のこと。
「あぁ、これのことか。安心しろ。無差別的だからな」
これとは口調のことである。
緋凰の丁寧とはかけ離れたそれは、氷暉の心を不意に揺さぶった。
――無差別的がなぜ安心に繋がるのかがよく分からない。
氷暉は、緋凰が風変わりだと初対面にして感じ取った。
――星の人は皆こうなのだろうか?いや、そんなわけはない。
ではこれは王族だからとれる態度なのか…。しかし、政治に関わる人間として敵は作りたくないはずだ。
自分を飾らないこの丞相。王族というだけではこの乱世は渡ってゆけない。
にもかかわらず、彼女は社会的不利な女の身でありながら淘汰されることもなく、この地位まで上り詰めた。
……ということは。
自問自答の後、氷暉は己がたどり着いた答えに戦慄を覚えた。
緋凰は確かな実力、揺るぎない信頼を得て今ここにいる。それは紛れもない事実なのである。
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緋凰は氷暉の自分を見る目が変わったのを感じた。
――おっと、こいつは切れそうだ。
かつての『犀』譲りの感じか?
犀には昔恐怖を覚えたこともあった。しかし今は見る影もないという。
有能な人物が消えるのは惜しいが、星にとっては好都合だ。
緋凰は表情を変えた。
ここからは真面目な話だ。
小さく息を吸うと、氷暉に問いかけた。
「単刀直入に聞く。お前は第一皇子だろう。なぜ人質となった?その訳を聞かせてほしい」
まっすぐな問いに氷暉は低い声で答え始めた。
「晨に絢姫が居るのは知っているか?現在の晨王寵姫だ」
「あぁ、知っている。犀が毒にやられたとな」
氷暉はその言葉に顔をしかめる。
「その通りだ。あの女は毒婦なのだ。優しげな顔をして、裏ではなにか企んでいる。実際、過去に後宮で彼女に排除された者は大勢いる」
やはり、思った通りだった。
「では人質はその絢姫とやらの仕業ということだな。第二皇子が産まれたとも聞いた」
「明察だ。だが俺は核心に触れてはいない。なぜ分かった?」
氷暉は不思議気だ。
「なぜって?簡単ではないか。悪女の望みは保身を超えた権力と決まっている。その上母親とあったら子を守ろうとするだろうからな。晨で邪魔なのはお前だ」
晨は自ら破滅へ向かっているようだ。こちらとしては願ったり叶ったり。
だが、緋凰には晨を倒したいという気持ちがないでもなかった。
そのために、この度愛する部下たちを他国に遣るのだ。今頃、密命を聞いているだろうか?
「とはいえ、命令を下したのは犀だろう。行き先が星でなかったらお前は殺されていたかもしれん。お前は、父親に行けと言われたら黙って従うのか?」
氷暉の目が微かに怒気をはらんだ。
「否。これは俺の意思だ」
「ほぅ?」
「星にいなければ出来ないことがある。俺はそれをしに来た。晨の皇子ではなく、氷暉として」
氷暉は口をつぐみ、しばらく瞑目する。
なにかを躊躇っている。そう緋凰にはとれた。
やがて氷暉は意を決したように目を見開いた。
「俺は晨を倒す」
晨を、自分の祖国を倒すといったか……!?
――面白い。
「では、私とするか?……晨討伐を」
緋凰は挑戦的に微笑みかけた。
――楽しくなりそうだ。
緋凰の心は静かに弾んだ。




