(35)
驪山陵を動く死体の実験施設にするために、盧生と侯生は一計を案じます。
虚実織り交ぜて口先で相手をやりこめる、方士の本領発揮です。
咸陽に帰ってきてしばらくしたある日、始皇帝は楽士の高漸離を側に置いて酒を飲んでいた。
高漸離の目は黒い布で覆われ、周りの様子はおろか手元すら見えているか怪しいが、それでも奏でる筑の音色が揺らぐことはなかった。
見えていなくても、体が弾き方を覚えているからだろう。
それを考慮したうえで、李斯は高漸離に目隠しをさせているのだ。
「……うむ、さすがの音色だ。
聞いているだけで見の内が安らぎ、心がほぐされるようであった」
始皇帝は満足げに聞き入り、つかの間の休息を心行くまで楽しんでいる。その様子を見て、李斯の胸中はやや複雑だった。
(これほど楽しんでいただけるとは……本当に、これで良かったものか)
李斯は始皇帝の様子に喜びを覚えながらも、内心の不安は拭えなかった。
こんなに安心して身も心もゆったりと休めて……自分を暗殺しようとした男の親友を側に置いている態度ではない。
高漸離は本来、不穏分子に連なる存在なのだ。
だから李斯は、高漸離が始皇帝を害せないよう、対策を講じた。始皇帝に呼ばれた時以外は高漸離を宿舎から出さず、外出する時は必ず目隠しをさせて王宮のどこに何があるかや始皇帝の姿が見えないようにした。
(それを、本当に安全だと評価してくださっているのか。
……それとも、本当にご自分は死なないと思っていらっしゃるのか)
李斯は思わず、遠くに見える山影に目を向けた。
あの驪山には、始皇帝がいつか入るために作られ続けている寿陵がある。生前から準備することでかえって死を遠ざけ、それでも人である限りいつかは入ることになる墓が。
だが、最近の始皇帝は不老不死を望むあまり、自分の死後のことを考えなくなっている。
(……そうすると、あの寿陵はどうなるのであろうな?)
李斯はふと、そう思ってしまった。
使う予定がないものに大金をかけ続けるのは、官僚の李斯としてはやめてほしいところだ。せめて、もっと予算を削ってもいいのではないかと思ってしまう。
だが、まだ不老不死になると決まった訳ではないので、使う可能性が残っているのも実情だ。
(ふう……不老不死と寿陵か。どうにも矛盾する存在であるな。
せめてどちらか一方に絞れれば良いのだが、不老不死がまだ確実でない以上そうもいかぬ。全く、歯がゆいばかりだな)
李斯は心の中で呟いたその言葉を、口には出さなかった。
その場にはただ、美しく荘厳な筑の音色だけが響いていた。
数日後、盧生と侯生が始皇帝に面会した。
「我ら両名、都とその周辺を拝見いたしまして、少々気がかりなことがありました。つきましては、陛下にお知らせしたく」
それを聞いて、始皇帝はすぐさま面会の時をもうけた。この広大な国を統治するための膨大な業務に追われている始皇帝にとっては、異例の速さである。
始皇帝の方も、自分が不老不死のために何かしたくて仕方なかったのだ。
そこに気がかりと聞かされて、大慌てでとんできたのだ。
「そ、それで気がかりとは、一体何じゃ!?」
気が急くあまり前のめりになっている始皇帝に、盧生と侯生はゆっくりと言う。
「実は、咸陽の都はあまりに様々な人の気が満ちております。国を統べる首都である限り、仕方のないことではございますが。
それは、仙人となられた後の陛下の住処としていかがなものかと存じます」
「何っ!?」
思わぬ事を指摘されて困惑する始皇帝に、二人はまた困った顔で言う。
「陛下は、仙人がなぜ人里から遠く離れた場所に住まうか、考えたことがおありですか?
仙人が住むのは山奥か海の彼方の島か、もしくは人が到達できぬ天界に去ってしまいます。普通に暮らしていた人が仙人となった場合でも、その者は周囲の者を置き去りにしてどこかへ姿を消してしまいます」
「それは、仙人となった以上そうする必要があるからです。
多くの人と交わることは、仙人にとって害となるからです。
人は心に欲や邪念を多く持ち、邪気をまとい、あるいは邪悪なものが付け入る隙を持っています。
そのような者が近づくと、仙人として体内に蓄えた神気を害され、著しい場合には力を失ってしまうこともあるのです。
それでは、仙人になる意味も仙薬を飲む意味もありませぬ」
「むうう……言われてみれば!!」
仙薬のことにまで言及されて、始皇帝は青くなった。
確か、徐福が仙人から仙薬をもらえる条件として、始皇帝自身が仙人にふさわしいと認められることと言っていた。
だが、仙薬を与えても意味がないと思われたら、その条件から外れてしまう。
このままでは、仙薬をもらえないかもしれない……その不安が、始皇帝を怒涛のように飲み込んだ。
「な、何とかならぬのか……!」
始皇帝は、顔面蒼白になって呻いた。
自分は、仙人となって永遠にこの国を治めるために不老不死を求めているのだ。だが、不老不死と皇帝の立場が両立できないのでは意味がない。
その不安に追い打ちをかけるように、盧生が悲痛な面持ちで告げる。
「残念ながら、こればかりはどうにも……。
その証拠に、古来より仙人となってから強大な権力を持った者がありましょうか。古の聖なる君主たちも、皆人の世を捨てて天に去ってしまいました。
これは、多くの人に囲まれていてはせっかく得た力を維持できないからに他なりません」
歴事情の事実を指摘されて、始皇帝はさらに打ちのめされた。
自分が今まさに直面している懸念を、歴史が証明しているのだ。これまで、その残酷な条件を覆した者は誰もいない。
青息吐息の始皇帝に、盧生と侯生は頭を下げたままニヤリと笑った。
ここまでは、こちらの筋書き通りだ。
盧生と侯生はまず始皇帝に危機感を植え付けて、絶望に叩き落とした。自分の仙人への道が、崩れ去ったように思わせた。
だが、これは単なる下準備だ。
これから盧生と侯生が本当に望んでいる提案をし、それにうなずかせるための。
(……ふふふ、人間とは弱いものだ。自分の悲願が叶わぬという絶望を突きつけてやると、途端に広く周りを見る目を失う。
そして、そこに一つだけ希望を見せてやると、脇目も振らずにそれに飛びつく)
(飛びつく人間には、それが地獄に垂らされた一本の糸のように思えるのだ。だから何としても縋ろうとする。
……本当は、その目に映っている地獄そのものが幻だというのに)
盧生と侯生は、虚実織り交ぜていかにもそれらしく話をまとめた。
しかし当の二人は知っている……そもそも仙人などというものは存在しないし、古の聖人とそれとは何の関係もない。ただ、広く知られている仙人像とおぼろげに伝わっている歴史を都合よくつなげただけだ。
二人が、この話のためだけに作ったでたらめにすぎない。
だが、始皇帝は仙人を信じ、自分もなりたいと思うあまり、それを丸飲みにして信じてしまった。そして、奈落に突き落とされたように力を落としている。
ここが好機だ。盧生と侯生は、鋭い視線を交わして顔を上げた。
しばらくしてにわかに顔を上げた盧生と侯生は、さっきよりほがらかな顔でこう言った。
「ところで、本日はそれに対応するために一つ考えがありますので、聞いていただきたく思います」
それを聞いた瞬間、始皇帝の顔に希望が宿った
「何と、それはどのような方法なのじゃ!?早く言ってみよ!!」
始皇帝はさっきよりずっと前のめりになって、二人の方に身を乗り出す。何としても叶えたい皇帝としての不老不死のために、必死であった。
盧生はにこやかに笑って、もったいぶるようにゆっくりと話し始めた。
「私どもが見ましたところ、都の中には仙人の身の置き場所はございません。
しかし、都からほど近いところに、陛下が仙人となった後に住まわれるのに良い場所がございました」
「ほう、それはどこだ!?」
感嘆の息を漏らして続きをせがむ始皇帝に、盧生はすっと驪山の方を指差す。
「今現在、陛下の寿陵となっております驪山陵です。あそこならば都の喧騒から離れておりますし、神気への害を都よりずっと少なくできます」
「ずっと少なく……では、無くすことはできぬのか?」
少ししょげかえる始皇帝に、今度は侯生が言う。
「普通の地上に住めば、そうなりましょう。
しかし驪山陵はその点でも都合がようございます。現状、山をくりぬいて地下へ掘り進めておりますので……厚い地面に囲まれた地下にお住まいになれば、地上の人の邪気を防げましょう。
そのうえで、陛下のお力が失われぬ程度に近づける人の数を絞ればよろしいかと。さすれば、陛下のお命は害されることなく長久でございます!」
「お、おお……そうか、その手があったか!!」
始皇帝の顔は、喜色一色に塗りつぶされていた。
さっきはあんな残酷なことを言われて驚いたが、何のことはない、二人はちゃんと対策を考えていてくれたのだ。その落差もあって、余計に嬉しくてたまらない。
そうだ、これで自分は仙人でありながら国の中心にいられるのだ。力を失わずに住み続けられる居場所を用意すれば、きっと仙人も仙薬をくれるだろう。
ただ、寿陵を別のものにしてしまうのは……と考えて、始皇帝の頭に稲妻が走った。
(そうだ、不老不死になるなら、そもそも墓などいらぬではないか!)
不用品を転用して役立てられるなら、これは素晴らしい案だ。
始皇帝は、満面の笑顔で命令した。
「よし、ならばおぬしたちに、驪山の工事について神気に害がないよう手を加える権限を与える!李斯よ、すぐ現場に話を通しておけ。
これからも、何か良い案があればすぐ持ってこい!」
「はーっ!」
望んだとおりの命令に、盧生と侯生はうやうやしく頭を下げた。
側で話を聞いていた李斯も、胸のつかえが取れたようなすっきりとした顔だった。
(なるほど、驪山陵を仙人となった陛下の地下宮殿として使うのか……それならば、どちらにしろ無駄にならずに済むな)
李斯にとっても、これは画期的な名案に思えた。
同時進行しなければならない、始皇帝が永遠に生きるための準備と死んだ場合の準備……これを一つにまとめられるなら、事業を無駄に増やしたくない官僚としては万々歳だ。
かといって、予算を削れるかどうかはまた別の問題だが……。
盧生と侯生の提案はすんなりと受け入れられ、驪山陵は全く別の何かに変貌していくこととなる。
それから二月ほど後、とある棺を運ぶ一行が驪山陵に到着した。
「よく、お帰りくださいました」
盧生と侯生は、そろって荷馬車から降りてきた男に頭を下げる。その男の目には、止めどない探求心の炎がごうごうと燃え盛っていた。
これからは、徐福こそが驪山陵の真の主となる。
本来の主の知らぬ地下の暗闇で、死の理に挑むおぞましい研究が始まろうとしていた。