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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第六章 咸陽への道
31/255

(30)

 盧生と侯生に惑わされた李斯は、始皇帝の身に危険を残す選択をしてしまいます。

 それに対し、違和感を覚えた人間が二人いました。一人は尉繚、そしてもう一人は方士の中でも実用的な研究に邁進している……。


 次回から、また徐福のパートに戻ります。


 登場した時に紹介し忘れていました。

 韓衆カンシュウ:始皇帝に仕えた方士で、ゲテモノ類(虫や蛙など)を常食とすることで長寿を目指す法を説いた。

 しばらくして、李斯は始皇帝の前に戻ってきた。

 始皇帝は、その目を見て少しだけいぶかしそうな顔をした。いつもより、わずかに光が弱いような気がしたからだ。

 始皇帝は以前にもこんな目を見た気がしたが、いつだったかは思い出せなかった。

 それを思い出す前に、李斯が声をかける。

「先ほどの、高漸離の件ですが……」

 李斯が切り出した話に、周りにいる臣下たちの目と耳が集中する。

 その異様な緊張の中で、李斯はやや昂ぶった声で告げる。

「どうぞ、お気に召すままになされますよう!」

 その瞬間、臣下たちの間に驚きが広がった。誰もがこちらの答えになると思っておらず、違う答えになってほしいと望んでいたからだ。

 李斯ならきっと、始皇帝を諌めて守ってくれると。

 だが李斯は、なぜかそうしなかった。

 代わりに意地ともとれるような固く熱い力を目に宿し、始皇帝にひざまずいて言う。

「陛下がこの国を治めておられます以上、陛下がお望みのことは力を尽くして叶えるのが臣の使命にございます!

 たとえ危険があろうとも、私どもが陛下に手を出せぬようにいたします。

 陛下におかれましては、安心してその才を楽しまれますよう」

 そういう李斯の肩には力が入り、肌にはうっすらと汗が浮いていた。

 当たり前だ、李斯は内心できる保証がないと思えることを、己の意地にかけてもやり遂げると宣言しているのだ。

 見ている臣下たちの顔からも、血が引いていく。

 なぜなら、その波をかぶるのは李斯だけではない。李斯の命令を受けて働く他の多くの臣下も、この危険行為に巻き込まれるのだ。

 だが、それでも異議を唱える者はいなかった。

 始皇帝が望み、李斯がそうすると決めた事に逆らえばどうなるか……その差し迫った恐怖は、理不尽への不満をはるかに上回っていた。

 そんな臣下たちの顔色とは対照的に、始皇帝は上機嫌であった。

「うむ、さすがは李斯よ、朕の気持ちをよく分かっておる!

 おぬしならやってくれると思っておったぞ!」

「は、はーっ……ありがたき幸せにございます!」

 小さくなって礼をする李斯の前で、始皇帝はそれが当然とでもいうように笑った。

「そうだ、この国の全ては今や朕のものとなったのだ。

 かつて秦に抵抗していた六国の宝も土地も民も、全ては朕のものだ。それなのに、楽士一人、手に入らぬ訳がない!」

 始皇帝は、満足そうにうなずいた。

 それに合わせて、臣下たちも笑顔になっていく。始皇帝の機嫌を損ねないように合わせるのと、それからこの場に波風が立たなかった安堵によって。

 臣下たちも、始皇帝の言に逆らって諌めることがいかに危険かはよく分かっている。だからもし李斯が違う答えを出していたら、目の前で李斯の首が飛ぶことも考えられたのだ。

 たとえ理不尽に仕事が増えたとしても、そうなるよりははるかにマシだった。

 考えようによっては、この結果で無難に落ち着いたとも言える。

 始皇帝が諌めを受け入れるほど心を許しているのは、李斯くらいのものだ。だからこそここは諌めて欲しかったが、逆に失敗していなくなられてはもっと困るのだ。

 これがこの国の頂点に立つ始皇帝と、臣下たちの関係だった。

 李斯も、己のそういう立場はよく理解している。

だから、惑わされかけた頭でも始皇帝の安全を考えて、最後にこう言ったのだ。

「ただし、その者と面会するのは、咸陽の王宮に帰ってからになさってください。

 巡幸の途中では、王宮のような万全の警備はできませぬ。高漸離は咸陽にお連れしますが、お側に置くのは私が準備を整えてからに……」

「うむ、それはもっともである」

 始皇帝も、危険を伴う行為には万全の対策が必要だということは理解している。それに、最終的に会えるなら多少待つのは構わない。

 無理を言って自分が暗殺されては困るからだ。

 こうして、高漸離の一件は、始皇帝の望み通りに決着した。

 周囲の臣下たちの思惑とは違う結果だったが、これを不服として直接声を上げる者はいなかった。

 そしてこの件に、他の何者かの意志が絡んでいる事も、気づかなかった。

 始皇帝が望んだから、李斯はそのために手を尽くすことを選んだ。それだけだ。おかしいところは、何もない。

 皆がそのように納得していた。

 たった一人を除いては。


 この結果は、始皇帝から少し離れたところにいる方士たちにも伝わってきた。

 方士たちは、始皇帝が暗殺される危険が残っているのにと少しざわついたが、それほどの騒ぎにはならなかった。

 盧生と侯生も、何食わぬ顔で平静を装っていた。

 今自分たちの介入が知られれば、身に危険が及ぶ。こういう時は、周囲と反応を合わせて知らぬふりをしているに限る。

「何だか、きな臭いことになりましたねえ」

 黙っている二人に、韓衆が声をかけてくる。

「きな臭いとは……まあ、何事もないように李斯様が守ってくださるでしょう?」

 当たり障りのない答えを返す盧生に、韓衆は少し眉を寄せて言う。

「ええ、まあ、そうだといいのですが……李斯様は現実的に物を見られるお方、何事も遂行までの道筋を考えて実用的な手段をとられるお方のはず。

 それが、あのような判断をされるとは……完璧な安全など、存在するはずがないと思うのですが……どうも解せませぬな」

(!?)

 盧生と侯生は、内心ぎくりとした。

 自分たちが介入したことは、誰にも知られてはならないのに……この男はそれに勘付きかけている。しかも、自分たちに話しかけてきている。

 盧生は慎重に言葉を選び、韓衆に尋ねる。

「ほう、私は李斯様をよく知らぬので何とも言えませぬが……。

 何か、根拠のようなものがあるのですか?」

 それを聞くと、韓衆は苦笑した。

「いいえ、ただの勘と小生の感想です。

 小生は、あくまで現実を見て、現実的な手段でこの国を統一していく陛下と李斯様を尊敬しておりました。

 この方々なら、現実に手に入る物を地道に調べて実践している小生の道を認めてくださるかと。あるかどうかも分からぬ怪しい術を騙る軽薄な輩ではなく……。

 と思っていたのですが、少々思ったのと違ったもので……」

 それを聞いて、盧生と侯生は一応安堵した。

 韓衆は、介入そのものに気づいたわけではない。

 しかし、それでもこの男は要注意だ。

(……なるほどな、あくまで実用的な方法を研究するということが、陛下や李斯様の考え方と似通っているのか。

 そしてその二人に期待しているから、その考え方との違いに敏感なのか)

(気づかれた訳ではないが、放置していい訳でもなさそうだな。やはりここは、仲間に引き込んでしまった方が……)

 二人の考えがそこまで及んだ時、韓衆はにっこり笑ってこう言った。

「あなた方と、またお話しに伺ってもよろしいですかな?」

「あ、ええ……それは構いませぬが……」

「それは良かった!

 恥ずかしながら、小生の話を聞いてくれる者は滅多におりませんもので。しかし、あなた方は小生を馬鹿にすることなく話を聞いてくれます。

 これからも、良い関係を保てますよう!」

 韓衆は、嬉しそうに頬を緩めて去っていった。

 盧生と侯生は、ホッと胸を撫で下ろした。

 心の中を見透かされたかと思ったが、何のことはない、ただ友達になれると思われていただけだった。

 考えてみれば、韓衆は不老長寿のためと言って虫を食べ、さらにそれを周囲の者に勧めているのだ。そのせいで普通に気持ち悪がられて、話せる人間が極めて少ないのだ。

 だから話を聞いてくれた盧生と侯生に感激し、親しくなろうと話しかけてきた……それだけだ。

 それにしても、心臓に悪いが。


(……ともかく、これでここにいる役者はだいたい把握できたな)

 韓衆が行ってしまうと、盧生と侯生は気を取り直して巡幸中の事を振り返った。

 自分たちが琅邪で巡幸に加わり、徐福が去ってからも、いろいろな事があった。それを通じて、鍵となる幾人かの性格が分かってきた。

 まず、始皇帝は己の望みを叶えるのに手段を選ばない。そして古より祀られる神をも畏れず、力で従わせようとする。

 恐ろしく強権的で、無慈悲かつ残酷だ。

 しかし自分の望みに向かって何でもやろうと突き進むので、そこを突けば一時的に力を借りるのは難しくない。ただし、成果が出なければとてつもないしっぺ返しを覚悟しなければならないが。

 次に、李斯は始皇帝と考え方が似通っていて、さらに忠誠心が非常に強い。基本的に、始皇帝に逆らいたがらない。

 だが、ただ黙ってうなずくだけではない。

 李斯には、自分のできるところを始皇帝に認めてもらいたいという強い欲求がある。だからそこを突けば、今回のようにあえて困難な道を選ばせることができる。もっとも、それでも真剣に取り組む情熱と事務能力は本物だが。

 そして、この二人には、神仙思想への免疫がない。

 斉や燕の海岸地方にしか存在しなかったため、出会ったばかりの思想であり、真偽を判断しかねているのだ。だから試しにやってみようと、受け入れてくれる。

 もっとも、受け入れる決定打となったのは徐福の仙紅布だが……偽りであると証明できない成果を示せば、応えてくれると分かった。

 だからこの二人は、それほど障害にならないだろう。

(さしあたって邪魔になりそうなのは……今のところ、あいつ一人か)

 盧生と侯生は、たった一つ目の上のたんこぶとなっている男に目をやった。

 それは、尉繚……恐るべき情報力を持つ、工作部隊長だ。どこまでも現実主義で神仙思想など怪しいものを毛嫌いしており、さらに始皇帝に方士たちが近づくのを阻止できなかった負い目から、方士たちを激しく憎んでいる。

 そして、折あらば引きはがしてやろうと息巻いている。

(まあ、陛下と李斯様をしっかり掴んでおけば大丈夫だと思うが……。

 近くにいる限り、油断はできんな)

 咸陽に着けば、盧生と侯生は計画をもう一段階先に進めることになる。

 その時助けになりそうな者と敵対しそうな者をしっかりと頭の中に叩きこんで、二人はまだ見ぬ咸陽に思いをはせた。


 そんな二人から少し離れた所で、尉繚は李斯に詰め寄っていた。

「おい、なぜあのような判断をした!?

 何があっても陛下を守るのが、おまえの役目ではないのか!?」

 尉繚は、李斯が危険を残す判断をしたことを激しく責める。しかし李斯は頑として折れず、逆に尉繚を叱りつける。

「黙れ、それを判断するのは私であっておまえの役目ではない!!

 おまえの役目は情報を集める事、それに基づいて判断するのは私の役目である。法によって定められ、陛下より与えられた役職に逆らうか!!」

 二人の立場は李氏の言う通りであり、しかも秦では役人が決められた役職を守るように法で強力に縛られている。

 これでは、尉繚が反論できるはずもない。

 代わりに、尉繚は怒りに燃える目で方士たちを振り返った。

(くそっ誰だ……誰が入れ知恵した!?)

 李斯は、自分を認めてくれる始皇帝を誰より大切にし、守りたがっている。その李斯がこんな判断をするとは、明らかにおかしい。

 だが、誰が李斯を動かしたかは分からない。方士たちは百人近くいるし、その全てが偽りを隠すのに長けた嘘の達人だ。

「私は、陛下のために……陛下を、守らねば……」

 李斯は眉間にしわを寄せて、そう呟くばかりだ。

 この様子では、問い詰めても口を割ることはないだろう。決められた目的に向かって突き進む時の李斯の頑固さと、機密を守り通す口の固さは尉繚もよく知るところだ。

(出し抜かれたか……俺がいない間に!)

 すさまじい屈辱が、尉繚を襲った。

 だが、後悔ばかりしていても仕方がない。大事なのは、これからどうするかだ。

 尉繚は、奥歯を割れんばかりに噛みしめて方士たちをにらみつけた。

(誰だか知らんが、必ず暴いてやるぞ!陛下が少しでも心を許されている李斯を、よくも……!!

 まあいい、咸陽に帰れば奴らは必ず何らかの行動を起こすはず。それに李斯との接触は一度きりでは済むまい、必ずまた利用しようとするはずだ……そこを狙う!)

 悔しいが、今は方士たちの勝ちだ。だが、このままにするつもりはない。

 業火の如き怒りを灼熱の闘志に変えて、尉繚もまた咸陽の都を思った。

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