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いよいよ楚漢戦争クライマックス!
誰も側にいなくなって、己を信じ続けたタイラ●トは何を思うのか。
一時的に他人を食わない方法はあったが、だめなものはだめだった。それをようやく突きつけられ、項羽は真に世を守る覚悟を決めます。
本編はこれで終了、あとエピローグ数話で終わります。
気が付けば、項羽は一人だった。
確か戦いで生き残った二十六騎と共に逃げていたはずなのに……今その誰よりも忠烈な配下たちは、影も形もない。
項羽の着物は、まだ血でじっとりと湿っていた。
(ああ……お、俺が……皆、食ってしまったのか……)
頭の中に残る断片的な記憶が、項羽にそれを教えてくれた。
これだけは守ると、食うまいとあんなに固く誓ったのに、腹が減るといとも簡単に人の意識は落ち、味方兵をひっつかんで……。
いくら己を叱咤しても誇りを持とうとしても、だめだった。歪んで肥大した本能の前に、誓いも矜持も使命もまるで無力だった。
愕然とする項羽の脳裏に、范増や黥布の言葉が浮かぶ。
(おまえの戦いに、おまえ以外は要らぬのじゃろう?)
(おまえ本当は、他を守る気なんてねえんだろ?)
そんなはずないと、幾度となく否定した言葉。
しかし、こうなってしまってはもう否定できない。
(違う、力が……この力が悪いのだ!)
またそう言い訳してみても、その力を歓迎していた自分に気づく。これで天下を手にできると、忌むどころか誇ったではないか。
自分が代償に人を食わねばならぬと気づいても、味方を守れるし使命に必要だからと理由をつけて力に酔っていた。
これでは本当に、自分のことしか考えていないみたいじゃないか。
(ち、違う……誰か、違うと言ってくれ!!)
もはや己を信じることも覚束なく、項羽は他の誰かの肯定を求める。
だが、もう誰もうなずいてくれない。最後まで頑迷なまでに項羽を信じてくれた者たちをも、項羽は食ってしまった。
自分を認めていられる最後の砦をも、自分で壊してしまった。
(いや、まだだ……まだ江東に行けば……!!)
それでもすがるものが欲しくて、項羽は江東に思いを馳せる。
自分が叔父の項梁と共に旗揚げした、江東。
皆が自分を救世主として称えてくれた、江東。
あれだけ強力だった秦との戦いのために、自分を信じて大切な子弟を預けてくれた江東の父兄たち。
あそこまで行けば、あの父兄たちに会えれば、自分はまだまだ信じてもらえて……。
いくらでも身を捧げてもらって、腹を満たして……。
「……ハッ!!?」
おぞましい考えに、項羽はぎくりとして我に返った。今、頭の中に思い浮かべた江東の父兄たちがとてもおいしそうに思えた。
「そんな……あの方々を食うなど……人として……」
あれほどの恩人を食うなんて、どうかしている。
……と思ったところで気づいた。自分はもう、食ってしまったじゃないか。彼らが預けてくれた子弟たちの、最後の生き残りを。
自分のせいで、もう誰も共に帰れない。
そう思うと、これまで己を支えていたものがガラガラと崩れていった。
(俺は一体……何なんだ?)
自分が力を得たことを喜び、まだ戦えるといきがるうちに、誰よりも大切な人たちの信頼をことごとく裏切って。
そのうえ側に誰もいなくなるまで、父兄たちを裏切るまいと自分についてきた子弟たちの忠義にあぐらをかいて。
こんなになるまで言い訳ばかりで、己以外が全滅するまで現実から目を背けて。
(ば、馬鹿な……これでは本当に……俺は、ただの災い……!)
こんな自分が江東に帰れば、今度は本当に父兄たちをも手にかけてしまう。今強引に打ち切った白昼夢は、目の前に本物がいれば容赦なく現実となるだろう。
今だってもう、腹が減ってきて意識が飛びそうになっているのに。
(ぐっ……何か食えるものを……!)
人の意識を保つためには肉を食わねばならぬのに、もう手の届く所に人はいない。だが、代わりに食えそうな肉なら……。
自らを乗せて走る騅の汗のにおいが、おいしそうに感じられた。
(……ッ!だめだ!!)
人間が誰もいなくなっても、唯一自分と共にいてくれる騅。これを食べてしまったら、自分は本当に全てを失ってしまう。
それでも空腹は容赦なくやってきて……。
(かくなる上は……!!)
突如、雷のように走った痛みと血の味が項羽の意識を引き戻す。
項羽は、自分の腕の肉を食いちぎっていた。
そうだ、食えるものならある。他に誰も傷つけずに済む、自分の体が。これで腹を満たしていれば、他人を食わなくていい。
無残に抉れた腕の傷は、みるみる再生して塞がっていく。
(そうだ、これでいい……俺はもう、仲間を傷つけはせぬ!)
再生も力なら、これも一つの使い道だろう。
ただし、それに味方が誰一人いなくなるまで気づかなかったのが項羽の驕りの証明でもあるが……項羽はこれで大丈夫と信じて一人ひた走った。
そうこうするうち、項羽はついに長江の渡し場に着いた。渡し守はすぐ項羽に駆け寄り、船に乗るようすすめる。
「おお、項王様!ひどいお怪我を!
しかし、もう大丈夫でございます。
この長江の要害に渡し船はこれ一つ、項王様が渡ればもう敵は追って来られませぬ。江東にて、数十万の民とともにもう一旗揚げられましょう」
項羽の腕からは、ぼたぼたと血が流れ落ちていた。
項羽はしばらく、自分の肉しか食べていない。外から取り入れるものがないため、もう傷が治らなくなってきているのだ。
そのうえ、腹が減る間隔も前より短くなってきて、常に自分の血をすすっていないともう意識を保てない。
項羽は、踏み出せなかった。
恐ろしかった……このまま江東に行けばどうなるかが、手に取るように分かって。
(やはり、だめだ……俺は、江東を守らねば……)
もうどうあがいても、この体で生き続けようとする限り、自分を含めた世の全てを壊さずにはいられない。
たった一人の味方にすさまじい食欲を感じながら、もう認めるしかなかった。
項羽はとっさに腕をかじって理性を戻し、渡し守に告げた。
「いや、もう良い……天が俺を滅ぼそうとしているのに、渡って何になる。
それに、旗揚げした時江東の子弟八千人と共に江を渡りながら、俺は誰一人帰してやれなかった。父兄たちに、どんな顔を合わせろというのだ」
そして、自分がここまで守り抜いた唯一のものを渡し守に託した。
「騅は……こんな俺のためによく頑張ってくれた。
願わくば、安らかな余生を」
項羽の覚悟を知ると、渡し守は悲痛な顔でうなずき、騅だけを船に乗せて広大な長江に漕ぎ出した。
それを見て、項羽は安堵した。
(ああ、ようやくだ……これで俺は、守ることができる)
もうすぐ死ぬと分かっているのに、項羽の心は驚くほど安らかだった。
背後からは、騒がしい人馬の足音が迫っている。劉邦軍の追手が、今度こそ自分の首を取りに来たのだろう。
項羽は振り返り、遥か西の空を仰ぎ見た。
己に身に宿る、ある種の完成形に近い人ならざる力。
かつて天下の頂にいた者たちが求めた、不老不死のなれの果て。
始皇帝はこれの研究を始め、天下万民を苦しめたあげく道半ばで倒れて死んだ。趙高はそれを横取りしようとし、悪用して多くの人に地獄を味わわせたあげく、天誅に倒れた。
どちらも、自分だけを信じて絶対者になろうとした。
これへの希望しか見えなくなり、何も守れなかった。
(……俺は、決してそうはならん!
ここで、俺の身とともに終わらせてやる!!)
項羽は、覚悟を決めて大剣を握った。
もう腕や手の肉は、骨にこびりついているくらいにしか残っていない。どうしてこんな状態で大剣を握れるのか、ふしぎなほどだ。
(本当に最期まで、戦い続けろというのか……全く、俺にふさわしい力だ)
項羽の目の前に、欲望で目の色を変えた連中が迫ってくる。自分などとは違い、どこまでも人間らしいじゃないか。
(いいだろう、俺は人間に倒されて幕を引こう。
このような化け物は、この世にいてはならんのだ!)
項羽は己を断罪し、たった一人で敵兵の群れに飛び込む。その前に、己の腹の肉をちぎって口に放り込むことも忘れない。
人を食わぬ化け物にもはや無限の力はなく、項羽はたちまち体中に傷を負っていく。
だが、その全身の痛みよりもなお、喜びの方が大きかった。
(良かった、俺は……せめて人として死ねるようだ)
民を食って味方を食って、どんどん人から遠ざかる自分が内心怖くて仕方なかった。だが今死ねば、これ以上人でなくなることはない。
自分に期待して信じてくれた人々に、仇を返さずに済む。
かつてそんな同郷の人間だった男が、項羽の目に映った。
項羽は、その男に声をかけた。
「俺の首には千金がかけられ、取った者は万戸侯になれると聞く。
同郷のよしみで、それをおまえらにやろう!」
これが自分が郷里の者に報いられる、ただ一つの方法だから。自分が身勝手を押し付けて辛い思いをさせた同朋に、少しでも返せるならば。
項羽は、自らの大剣を首に当てて勢いよく滑らせた。
次の瞬間、これでもかと噴き上がる血が項羽の居場所を告げる。
項羽が声をかけた男を始め、人の欲に塗れた数百の兵が項羽に殺到した。そして同士討ちで何十人も死者を出しながら、項羽の体をバラバラに引き裂いた。
その項羽の最期の声を聞いたのか、江上にいた騅は水に飛び込んで主の方へ泳ぎ始めた。
しかし途中で力尽き、溺れ死んでしまった。
果たして、項羽は本当に何も守れなかったのか……。
否、江の向こうには、項羽が己から守った人々が暮らしている。
それに項羽は、人食いの病毒の秘密を他に漏らさなかった。もうその残党に、それを悪化させ悪用できる者はいない。
大多数は、項羽が人間でなくなっていたことすら知らない。
項羽の潔い散り様により、表の歴史は守られた。
この日、中華は漢の……劉邦のものとなった。
そして最終的な世の守りは、劉邦たちに託された。




