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いよいよ最終決戦に向けて集結する劉邦軍。
そして、最前線の指揮を巡るひと悶着。
真実を知る者を限りたくても、現場の状況とその場を狙う者の思惑が激しくぶつかったらそうはいかない。
ただし、知らせてもやりようはある……悪の組織側が、知ってしまった下っ端によくやるような使い方をするならば。
史実の伏線が敷かれる。
劉邦の下には、続々と各地の諸侯たちが合流していた。
韓信は彭城にあった宝物の一部を土産として持参し、彭越は食糧を山のように運びこみ、周殷は黥布とお互いの生を喜び合う。
「おー周殷、ちゃんと生きてんな!」
「げ、黥布……これまですまなかった!
俺は項王の性根もおまえの気持ちも分かってやれずに……」
「いいってことよ、人間自分が危なくならねえとなかなか気づかねえもんだって!
俺もおまえら裏切って逃げてから、心配だったんだよ……いつかおまえも范増や龍且みたいになっちまうのかって。
せっかく拾った命だ、これからは楽しんで生きようぜ!」
すぐに劉邦の下に出頭して許しを請う周殷を、劉邦は寛大に迎え入れた。
「おまえがこっちに来てくれて、感謝してるぜ!
ずっと戦ってきた敵っつっても、俺も元は楚の人間だからよぉ……無駄に同朋を殺さなくて良くなってありがてえ」
そう言ってにこにこと笑う劉邦に、周殷は心の底から感謝した。
「おお、何たる寛大なお言葉……項王とは何もかもが違う!
このうえは、必ず項王を討ち取れるよう全力を尽くしましょうぞ!」
しかしこの勇気あふれる言葉に、劉邦は少し顔を曇らせた。そして周りにいる他の配下を見回して気まずそうに言った。
「うん、まあ……それをやりたい奴はたくさんいるからな。
焦って軍を乱さんように、やってくれよ?」
その言葉と突き刺さる視線に、周殷ははっとした。
ここには、これまで劉邦と共に戦い続けていた配下や諸侯たちが集結している。項羽を討って一番手柄を上げたいのは、彼らも同じだ。
これまで敵だった新参者の自分が、出しゃばるべきではなかった。
周殷はそれを恥じ入るように、周りの古参の配下たちに深く礼をして退出していった。
周殷は、それで良かったのだ。
それを見送りながら、韓信と彭越は早くも手柄争いの火花を散らしていた。
「フフフ……私は劉邦様に見いだされ大軍を任されてから、常に勝ち続けて数多の地を平定してきた。
私こそ、項王を追い詰めるにふさわしい!」
「いやいや、俺様もなめてもらっちゃ困るぜ。
俺が後方で頑張ってたから、漢王は生き延びられたんだよ。
それに、項羽にゃこの手で地獄を見せてやらんとな。俺様を怒らせるとどういうことになるか、あいつに教えてやるぜ!」
誰も彼も、自分の手で項羽を討ち取りたくてうずうずしている。これがきっと最後の戦になるから、もう一頑張りして歴史に名を刻もうと。
だが劉邦は内心、ヒヤヒヤしていた。
士気が高いのはいいことだ。しかし、それが災いにつながりかねない事情がこの戦にはある。
劉邦は穏やかに茶化すような態度を取りながら、どうかこの二人が自重してくれるようにと心の底から祈っていた。
「范増の遺品は未だ、項羽の手中にあるようです」
その報告に、劉邦と軍師たちは苦々しい顔をした。
人食いの病毒を最後まで研究していた范増の遺したものを、項羽はまだ持って逃げ続けている。
決してなくさぬよう側近に厳命し、何があっても渡さぬとしがみついている。
「どうも最近は、それが自分を救う切り札とも考えているようです」
それを聞いて、劉邦はますます口をへの字に曲げる。
「土壇場で使わにゃいいがねえ……。
つーかそれ以前に、中身がアレじゃなきゃ一番なんだが」
劉邦たちの懸念は、それが人食いの病毒ではないかということだ。もし追い詰められた項羽が後先考えずにばらまけば、あっという間に感染爆発が始まる。
普段の戦なら、現場の将兵に呪いの兆候に注意しろと言っておけば聞くだろう。
しかし今は、勝手が違う。最後の戦の一番手柄に目がくらんだ将兵たちは、多少おかしなことがあっても突き進んでしまうだろう。
それでは、対策も意味をなさない。
「必ずや、最前線の指揮官にはそれを知っている者を……怖さを知っていて断固たる対処ができる者を置かねばなりません」
張良が、語気を強める。
感染爆発を起こさないようにするには、それに尽きる。
いくら呪いの噂を広めても本当の怖さと性質を知らなければ、目の前の手柄を優先する者は出るだろう。
真実と怖さを身をもって知っている者に強力な権限を持たせ、その者の指揮に現場が逆らえぬようにしないと。
「……するてえと、最前線の指揮官は決まりだな」
「ええ、あの男しか有り得ません。
韓信と彭越には、何としても納得していただかなくては……!」
こうして、打倒項羽に燃える二人の全く知らぬところで、全く知らぬ事情でもって現場の指揮官が選ばれた。
「項羽を追討する最前線の指揮官は、黥布に任せる!
もしそれに加わりたい者があれば、何があっても黥布の命令に従うと誓うこと。逆らえばどのような身分の者でも、処罰する!」
衝撃的な人事と劉邦らしからぬ厳命が、全軍に発表された。
天下を一つにする最後の戦で一番手柄を狙える最前線の指揮官は、項羽軍から寝返って以後目立った働きのない黥布。
寝返った時の戦でも項羽軍にさんざん蹴散らされてしまったし、他の諸侯と比べてこの地位にふさわしいとは思えない。
案の定、韓信と彭越は額に筋を立てて大反対した。
「なぜ、そのような者に任せるのですか!?
項王をここで討つは、何よりも大切な任務。
それを一度項王に媚びて義帝を手にかけた者に託すなど、有り得ません!ここは私のような、一度も項王から恩を受けておらぬ者がやるべきでしょう!!」
「ちょいと待った、おめえも元項羽軍だよな!?
ならその理論でいけば、一番ふさわしいのはこの彭越様だ。てめえも黥布も俺様の指揮下に置いて、また裏切らねえか監視しといてやるよ!」
韓信と彭越は、黥布とお互いの汚点をなじり合って自分こそがと譲らない。
「なぁ……おまえらにはもう、楚の地と王の位を約束してやったからいいだろ?
黥布は秦との戦いでも項羽との戦いでも頑張ってんのに、功績が上がらねえからまだ地位を約束してやれてねえんだよ。
それにほら、勝ちは決まったようなもんだし……おまえらが出るほどでも……」
劉邦はそれらしいことを並べて二人をなだめにかかるが、二人は納得しない。
「だから、そんな功績の上がらない者に任せたら不安でしょうが!!」
「そう、お二方はこれからの殿に欠かせぬ人材です。それを自覚しているならば、もっと己を大事にしなさい。
項羽が秦王の首をはねた時、始皇帝から引き継がれた海神の呪いにかかったという情報もあります。
なのでここは、黥布辺りをぶつけてあなた方を守るのです!」
今度は張良が呪いの話にかこつけて二人を持ち上げるように話を進めるが、それでも戦に逸る二人は止まらない。
「呪いなら、私の斉に腕のいい方士が多くおります。すぐその者らを呼んで……」
「馬鹿野郎、呪いが怖くて盗賊がやってられっか!
これまで恨みは山ほど買ったが、俺はこの通りピンピンしてるぜ!」
何を言っても譲らない二人に、劉邦は泣きたくなった。
(違うんだよぉ!そういう問題じゃねえんだよぉ……!!)
本当は呪いではなく、実在する恐ろしい病毒なのに。ここの判断一つで、世界の命運が変わってしまうかもしれないのに。
そんな大事なところで、こんなにほうびを約束しても持ち上げてやっても、二人は己の手柄しか考えていなくて。
つい、この二人を配下にしたことを後悔しそうになる。
元々、我が強い奴らではあった。だが強大だった項羽と戦ううえで不可欠だったから、迷わず仲間にしてここまで来た。
だが、その二人が原因で世界が滅んでしまったら……。
思わず殺意を抱く劉邦と歯ぎしりする張良を抑えて、陳平が前に出る。陳平はいつもの親し気な様子で二人に近づき、ささやいた。
「ねえ、あんたたち……知っちゃいけないことを、知る覚悟はある?」
その問いかけに、二人は思わず黙った。陳平の声には、いつもの甘さと軽々しさが感じられなかった。
それでも二人はうなずく。だって、自分たちは何が何でも手柄を立てたいから。知らないことがあるのは、劉邦に信頼されていないようで嫌だから。
陳平は、ニヤリと目を細めて言った。
「そう……じゃ、後で話を聞きに来て。
あと言っとくけど……これは本当に世界そのものの命運を左右しかねない話。知っちゃったら、それであんたたちの命がどうかなるかもしれない。
それでも、後悔しない?」
「もちろんですとも!」
「おうよ、んなもんが怖くて盗賊やってられっか!」
陳平はなんと、二人に真実を明かす方向で話をまとめてしまった。劉邦は腰が抜けそうに驚いたが、陳平がこう言ってやると納得した。
「仕方ないでしょ……ここで離反されたら、一番困るもの。
それに、もうすぐあなたの天下になるんだから。前にも言ったでしょ……傘下に厄介な奴がいても、あなたの天下になっちゃえばどうにでもなる。
……それでいいって、あの子たちは答えた」
陳平の目には、これまで見たこともない冷たく残酷な色があった。
さすがにこの時は、劉邦もその意味に気づいてしまった。
劉邦が天下を取ってしまえば、後は配下を生かすも殺すも思いのまま。あまつさえ、自分たち以外に知る者がいると後世に危険を残すことになるから……。
「そうか……それでもいいなら、仕方ねえなぁ」
劉邦は酷薄そうに呟き、二人のために資料を用意させた。
翌日、改めて韓信を前線の総指揮官とする人事が発表された。彭越は別のとても重要な任務で、一旦離れるらしい。
韓信も彭越も、真実を知ってすっかり救世主気取りの有頂天だ。
「私が真実を知ったからには、決して項王を逃がしませぬぞ!お任せあれ!」
項羽の運命は、ちょっと前から決まっていたこと。
しかしその時己の運命まで定めてしまったことに、愚かな二人は気づかなかった。




