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先週ゾンビ百人一首に戻る案件が生じたので、少し遅れました。
開始早々から諦めたりしないよ、本当だよ!青蓮の夢が詰まってるから!
歴史上の人物が多いので、登場のつど紹介していきます。
始皇帝:古代中国を統一し、初めて皇帝を名乗った秦の王。道路や運河を整備したり量の単位を統一したりと功績も多いが、皇帝になってからは無駄な宮殿増築や虐殺等で悪名を響かせている。
李斯:始皇帝に使える官吏で、丞相にまで出世した。
尉繚:始皇帝に仕える工作隊長。
海が、広がっていた。
見慣れた空の青よりずっと深い青の水面が、どこまでも広がっている。
まるで世界の半分が海になってしまったように、眼下いっぱいに広がる海は、果てるより先に空とぶつかってしまい全てを見ることが叶わない。
その果てしなく巨大な水たまりからは、波が絶え間なく打ち寄せていた。
風もないのに波は後から後から打ち寄せて、止まることを知らない。そんな波が、この水面一面を覆っているのだ。
見渡す限りどこまでも続く、果ても底も見えない水。
どこから来るかも分からないのに、決して絶えることのない波。
それは、この海の向こうに何があるのであろうかと、想像を掻き立てずにはいられない雄大な眺めであった。
「……これが、海か」
始皇帝は、わずかに肩を震わせて呟いた。
溜めに溜めた吐息が、空気に緩やかな流れを作る。
始皇帝は、それだけ言うのが精一杯だった。あまりの衝撃に胸が詰まって、それ以上言葉が出てこなかった。
始皇帝は、目の前の光景を受け入れるのにだいぶ時間がかかった。
自分は中華の全てを手に入れ、この世の頂点を極めた。この世にある美しいもの珍しいものも、この世の誰より多く目にしてきたはずだ。
その自分に、まだこんなに驚くことがあるとは。
始皇帝は、まさにその事実に驚きを禁じ得なかった。
始皇帝は、初めて海を見たのだ。
「人の世にこのような場所があるとは……朕も見識を改めねばならぬな」
始皇帝は、誰も見ていない顔に少しだけ羞恥の色を浮かべた。
正直、始皇帝は海というものをうまく想像できなかった。これまでに見た大きなため池や湖、黄河などを思い浮かべては、あれらと比べてどのくらい大きいのだろうかと考えていた。
なぜなら、始皇帝は海というものを見たことがなかったから。
広大な中華の大地の中でも、黄河の上流に位置する秦の国が、始皇帝の元々治めていた国であった。そこから領土を広げて中華の全てを手に入れてみたものの、始皇帝を囲んでいるのは内陸の風景ばかりであった。
彼自身が軍を率いて遠征した訳ではないので、当然のことだ。
そのため、始皇帝は中華を統一して全ての地を手中に納めながら、自らのものになったはずの海岸の風景を知らなかった。
そして、別の目的で各地を巡ってこの地を訪れ、初めて目にしたのである。
この瞬間、始皇帝は畏怖を覚えた。
皇帝として人の頂点に立ち、もはや恐れるものなどないと思っていたのに。
皇帝としてあるまじきことではあるが、始皇帝はこの果ての見えない海というものに、己の小ささを思い知らされて敵わないと思ってしまったのだ。
この世で最も尊く、強いはずの自分が。
その有り得ない感情の揺れに、始皇帝は何より衝撃を受けた。
だが、その衝撃が始皇帝に負の感情をもたらしたかというと、そうでもなかった。
始皇帝はごくりと唾を飲み、海を見つめて目を細めた。
「なるほど、これほどの場所ならば、仙人の住処というのもうなずける。
やはり仙人は、住処からして人とは違うのだな」
納得したように呟き、後ろに控えていた官吏を振り返る。
「よくぞここを巡幸の地に定めてくれた……感謝するぞ、李斯よ!」
誉めの言葉をかけられた官吏は、にこやかに笑みを浮かべて頭を下げた。
「もったいないお言葉、ありがとうございます。
この巡幸は、そもそも仙薬の手がかりを得るためのもの。仙人の情報を多く得られる地を選ばせていただきました。
陛下の世を常しえとするためならば、私は……この李斯は、労を惜しみませぬ!」
その李斯と呼ばれた官吏の目には、始皇帝への一途な忠誠の光があった。
そう、この目的は始皇帝と李斯、二人の目的なのだ。そのために今回の巡幸を李斯が計画し、始皇帝と共にここに来たのだ。
仙薬を手に入れ、始皇帝を不老不死の仙人と為す。
そして、始皇帝の治世を未来永劫のものとする。
そのために、始皇帝の一行は居城を遠く離れ、とてつもなく長い道を辿ってこの海岸地方まで出向いてきたのだ。
眼下に広がる果てしなく広い海、そのどこかにあると言われる神秘の島に住むという仙人の手がかりを得るために。
李斯は一つ咳払いをすると、大きく手を広げて語り始めた。
「これまでに得た情報によりますと、仙人は海に浮かぶ神山のある島に住むとのこと。
しかしその島は目に見えても普通の方法ではたどり着けず、修行を積んだ力のある者しか行きつけぬとのこと。
実際に、その島を見た者はこの辺りには多うございます。
しかし、斉や燕の王が莫大な金と労力をつぎ込んで探してもついに見つからなかったと。」
「うむ……陸地ならばくまなく歩けば済むことだが、海ではそうはいくまい」
これ程広く果ての見えぬ海では……と、始皇帝は納得した。
とにかく、始皇帝はこれほど広い水域を見たことがなかった。
歩いて渡ることが出来ぬ水面、しかもひとりでに波打って流れているという。船を用いても思うままに進める訳ではないし、船上では飲み水や食糧が手に入らない。水はいくらでもあるが、塩からくて飲むにたえないのだ。
頑なに人の侵入を拒む、果ての見えない海……。
始皇帝は、誠に人ならざるものの住処にふさわしいと独りごちた。
そんな始皇帝の心に寄り沿うように、李斯が言った。
「海には、何かふしぎな力があるのかもしれませぬ。
人の力ではとうてい渡れぬ場所ならばこそ、仙人は汚れなき地として島を住処としたのでありましょう。
それに、果てることなき水と絶えることなき波は、不老不死に通じるものがございます。
なれば、きっとこの海の何処かで、仙薬も手に入りましょう」
李斯の言葉には、どこか夢を見ているような酔いがあった。
いつも理知的で現実的な李斯のこんな顔は珍しいものだと思いながら、始皇帝はうなずく。
「うむ、必ずや探し出してみせよう!
そして朕こそが唯一の皇帝として、永遠にこの世を治めるのだ!」
始皇帝の頬も、隠しきれぬ興奮に少なからず紅潮していた。
普通に考えれば夢物語としか思えぬ、不老不死。しかしそれが実在するという話は、この海岸地方では多くある。
実際にかつてこの地方を治めた王の何人かは、それを探そうとした。結局それは失敗に終わっているが、国を治める者が探すということが信頼できる証なのだと、始皇帝は思っていた。
夢だと思っていたものが、実際に手に入る。
これまで多くの珍品を手にしてきた始皇帝も、これには心が躍っていた。
人の世の全てを手に入れた自分をも圧倒するほどの海だからこそ、人を超えるものが存在していてもおかしくないと、始皇帝は妙に納得していた。
一しきり夢を語ると、今度は現実の話だ。
始皇帝は、緩んだ頬を締めきれない顔で李斯に問う。
「それで、手がかりは集まりそうなのか?」
「は、ただ今尉繚に命じて、仙人とつながりそうな力を持つ方士を探させております」
李斯は、素早く真顔に戻って答える。
李斯にとって、これは夢ばかり見てはいられぬ話であった。
始皇帝は最高権力者であるからして、望みがあれば配下に命令して叶えさせれば良い。李斯は、その命令を実行する立場なのだ。
できなかった、では済まされない。
かといって、李斯も自分が実際に動く訳ではないのだ。工作部隊の長である尉繚に情報を集めさせているものの、どれほど実現性のある情報が手に入るかはまだ分からない。
伝説や神話などを語るばかりではなく、本当に仙薬を手に入れられそうな情報が手に入るのか……それだけは気がかりであった。
李斯の表情が固くなったのを見て、始皇帝もわずかに顔を曇らせた。
始皇帝自身、不老不死が本気で手に入ると完全に信じている訳ではない。これまでは夢物語だと思っていたが、手に入るのなら何としても手に入れたいというのが本音だ。
だが、始皇帝はつい最近まで、仙人の話などまともに聞いたことはなかった。
こればかりは、もしかしたら徒労に終わるのではないか……心の片隅に、そんな不安がある。
しかし、どことなく重い空気がその場を覆おうとした時、にわかに配下たちの顔が変わった。
皆一様に、目と口を真ん丸にして、始皇帝の方を見つめている。
始皇帝が戸惑っていると、李斯がはっと気づいて声をかけた。
「陛下後ろを……海をご覧くださいませ!」
促されるままに振り向いて、始皇帝もまた驚愕した。
「おお、これは……一体何としたことじゃ!」
島が、海の上に浮かんでいた。
さっきまでは確かに何もなかったはずなのに、ゆらゆらとおぼろげに見える島影がそこにある。
しかもその島は、海面から離れて宙に浮いているように見えた。
全員が、この怪現象に一心に見入っていた。
島はしばらくすると消えてしまったが、確かに全員が見たのだ。
無限に広がる海の上で見えたり消えたりする、不可思議な島の姿を。
「……これは、幸先が良いわ!」
始皇帝は、興奮を隠しきれぬまま破顔した。
今見えたのが、仙人が住まうという海中の神山だろうか。だとすれば、仙人の方も始皇帝に悪からぬ対応をしてくれたことになる。
この話はきっと、うまくいきそうな気がする……始皇帝は、心の中の希望が大きく膨れていくのを感じた。