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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第三十八章 地獄の監獄
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(188)

 李斯の最悪の日。多分これ以上の説明は必要ない。


 強いていうなら……良い警官と悪い警官のメソッドでした。

「ホッホッホ、ついに李斯が自白しましたか!」

 監獄からの報告を聞いて、趙高は手を叩いて喜んだ。

 これまでどんな拷問にも決して己を曲げなかった李斯が、ついにやってもいない罪を認めた。

 これは大成功だ。見事に思い通りになった。

 報告に来た者も、必死で笑いをこらえながら続ける。

「ええ、それはもう素直にこちらの言うことにうなずいておりまして……ぷぷっ!薬を手に入れるためなら何でもという感じでして。

 しかし、その……まだ潔白を証明することを諦めておらぬ様子で……くっくくく!

 あんなに調書を取られて、獄吏に土下座して謝りながら、まだ薬を手にすると反抗的な目をするのが……おかしくておかしくて!」

 その報告に、趙高も大いに笑った。

 あの自分は優れていると思っている頭でっかちが薬の奴隷になり、その無様な己を認められず足掻く様は最高だ。

 そんな李斯にとどめを刺すべく、趙高は指示を出す。

「では、そろそろ陛下の使者に行っていただきましょうか。

 これこれこのようにして……よろしいですね?」

「……さすが趙高様、素晴らしいお考えです!」

 使者が去っていくのを見送りながら、趙高は胸の高鳴りを抑えられなかった。

 これがうまくいけば、李斯は完全に自分の思い通りに操られて絶望に打ちのめされる。臣の位を極めた者でも、自在に操れると証明される。

 そしてそれが可能であるということは、やはり自分に敵はないということになる。

 今回の李斯の件で得られた知見を使って、東で粋がっている反乱軍でも自在に操って容易く踏みつぶしてやれる。

 それができる目処がついたことが、趙高にとって何より嬉しかった。

(反乱軍どもは傲慢にも、東で王を名乗って好き勝手しているようですが……この手でうまくいくなら何も恐れることはない!

 攻め寄せてきた者から、地獄に叩き落して生まれてきたことを後悔させてあげましょう!

 ……奴らが来る前に実験が終わりそうで、本当に良かった。

 反乱軍にこの手を使う準備も、進めておきましょうか)

 李斯が思い通りになるのが殊更にうれしいのは、天下の情勢が刻々と望まぬ方向に変わってきているからだ。

 東をほぼ完全に制圧した反乱軍は、ついにこの都目指して進軍しようとしていると聞く。章邯率いる秦軍は押しまくられ、じりじりと戦線が都に迫ってきている。

 奴らの刃が自分に向く前に対処法を確立できそうで、本当に良かった。

 ホッとして上等な茶を楽しむ趙高の下に、今度は別の場所からの使いが駆け込んでくる。

「趙高様、一大事でございます!

 その……地下で、不測の事態が……すぐに救援を送ってください!!」

「何ですと!?」

 思わぬ変化は、趙高にとって欠かせない秘密の場所でも起こっていた。これから趙高が完璧に世を支配し、人を超えるための大切な場所で。

 趙高は血相を変えて立ち上がり、その使者に早く話すよう促した。


 ついに皇帝、胡亥直属の使者が監獄にやって来る。その知らせを聞いた李斯は、今こそ残りの命を使い果たしても役目を果たす時だと壮烈な覚悟を決めた。

 前の夜、コツコツと牢が叩かれ、使者の来訪を知らせる紙が差し込まれていた。

 少年は捕まってしまったが、きっと他にも味方がいるのだろう。見つかる訳にいかないので息を潜めているだけで、肝心なことはきちんと知らせてくれた。

 李斯は感涙を流し、必ずこの機を無駄にしまいと誓った。

 薬は、もらったものを全て飲んでしまうフリをして、少しずつ取っておいてある。いざという時、直前に飲んで最高の状態になるために。

 最近、罪を認めたせいか身体検査が緩くなったのが幸いだ。

 どうせもう何もできぬと、たかをくくっているのだろう。

 薬を余らせるために平時は相当具合が悪いのに耐えねばならなかったが、これも最後の訴えのためだと思い必死で耐えた。

 李斯はもう、一日四回も薬を飲まないとまともに考えることもできなくなっている。

 それを余らせるために長時間飲まないで耐えていると、体の感覚すらおぼつかなくなって呼吸も喘ぐようになってくる。

 眠ったらもう起きないかもしれないという恐怖に苛まれ、そのうえ時々意識を失ってはそれに気づいて震え上がり、それでもどうにか薬を余らせた。

 そしてとうとう、皇帝直属の取り調べ官が来る日となった。

 にわかに監獄が騒がしくなり、獄吏や世話係たちが出迎えのために忙しく動き回っている。

 しかし李斯はまずいつもと同じ薄汚い獄吏たちのところへ連れて行かれ、皇帝の使いにする自白の練習ということでまた嘘の罪を吐かされた。

 だが、こんな奴らはどうでもいい。

 皇帝の使いは午後になってから来ると、秘密の手紙に書いてあった。そこさえ間違わなければ、大丈夫だ。

 李斯は懸命に罪を悔いるふりをして、獄吏たちにさんざん己を貶める言葉を吐かされ、それでも心の底では闘志を燃やして時間が過ぎるのを待った。

 そして薄汚い獄吏たちがいなくなると、余らせておいた薬を一気に飲んだ。

 すると、体中が燃えるように熱くなり、心臓がドクンドクンと痛いほど強く打ち始めた。霞がかかったようだった頭の中が、はっきりと冴えわたる。

(よし、これならいける!)

 李斯は頭の中で皇帝の使者にいう事を何度も繰り返し練り直しながら、これ以上ないくらいに集中して待った。

 やがて、上等な仕立てのきれいな服を着た一団が入って来る。

「李斯よ、陛下の御前と思い、ありのままを述べよ」

 いつもの下卑た獄吏たちと違う、重々しくどっしりとした口調。いつもの獄吏たちは皆、この一団に平伏している。

 間違いない、これが皇帝直属の使いだ。

 李斯は深々と頭を下げ、久しぶりのよく通る声で言った。

「陛下には謹んで申し上げます、この李斯に罪も二心もございませぬ。

 私の罪とされているのは全て趙高のでっち上げ、根も葉もないことでございます!」

 すると、団長らしき立派な髭の男は訝しそうな顔をした。

「我々が事前に聞いていた話と違うな……確か、おまえは陛下と国家に対する数多の罪を認めたということだが?

 それとも、人によって答えを変えるとでもいうのか」

 やはり、素直には信じてもらえない。

 だがこれも想定内だ。李斯は、眼光鋭く使いたちを見上げて事情を説明する。

「その通りでございます、話をきちんときいてくださるあなた方だからこそ本当のことを言えるのです。

 この私の姿をご覧ください、この体中の傷は獄吏どもの拷問によるものです。罪を認めねば命を取られかねない状況で、どうして本当のことを言えましょうか。

 私はただ命をつなぎ真実を証明するために、偽りを吐かされていたのです!」

 その訴えに、使いたちは困ったように顔を見合わせた。李斯の言うことが本当かどうか、計りかねているのだろう。

 それでも、頭ごなしに否定してこないだけましだ。

 ならば自分は、届く可能性に体がちぎれても手を伸ばすのみ。

 李斯はぐっと気を引き締め、今この時のために練り上げた弁舌を振るう。

「私は若き身にて先帝陛下に丞相に任ぜられて三十年余りも、この国に使えて参りました。私の忠誠は、今の陛下に対しても変わることはありません。

 今こうして獄につながれ拷問を受けようとも、私の心は陛下のためにあります。

 陛下は今私を信じておられませんが、どうか今一度ご自分の周りを広い目で見てください。古来より無実の者を陥れる謀は多く、これこれこのような例の二の舞に陛下がなるのを見ているに忍びず……どうか賢明なる陛下のご判断を……」

 李斯の口から、とうとうと故事を交えた道理があふれ出す。

 それは学問と弁舌で身を立ててここまで成り上がった男の、まさに心血と精魂の全てを注ぎ込んだ弁明であった。

 聞く者が聞けば胸を打たれて己を省み、このような賢人を罰したことを恥じてすぐにでも縄を解きたくなるだろう。


 ……しかし、それは聞く者が誠実だった場合のこと。聡明だった場合のこと。

 始皇帝や彼が重用した者たちにあれほど響いた弁舌も、胡亥にはこれまでどうだったか、李斯は忘れてしまったのか。


 いや、それ以前にここにいる者たちは……。


「ぷっくくく……!」

 いきなり、場違いな笑い声が響いた。

「これ、陛下の使いの御前で、失礼であるぞ!」

 李斯はつい頭にきて、笑い声が聞こえる方向に怒鳴りつけ、笑っている者をにらみつけようと視線を走らせた。

 しかし、笑っていたのは他ならぬ皇帝の使いのうちの一人だった。

 と、平伏していた獄吏の一人が、ニヤニヤ笑いながらそいつに声をかける。

「おいおい、おまえが笑ってちまったら話にならねえじゃねえか……こんな面白い賭けは滅多にできねえのによ」

「ああ、悪い悪い。つい我慢できなくてな。

 ま、俺が耐えられなくなるのも含めての時間ってことで!」

 その会話に、李斯はざらりと不吉な違和感を覚えた。

「え……み使いの方々、一体何を……?」

 戸惑う李斯の周りで、一気に爆笑が上がる。

「だーっはっはっは!!こいつ、まだ分かってねーぞ!」

「ひーっひっひっ!!何が丞相だよ、ただの阿呆じゃねえか!」

 獄吏たちも皇帝の使いたちも、一緒になって堰が切れたように笑い転げる。そしてあっけに取られている李斯に告げられる、絶望の真実。

「あのなあ、俺らはきれいな服を着てるだけで、元々ここにいる獄吏なんだよ。

 つまり、おまえがいくら気合入れてどんなにうまくしゃべったって、無駄なんだ!それを聞くのは俺らの役目じゃねえからよ!」

「……は!?」

 李斯の世界が、ぐにゃりと歪んだ。

「ま、待て……では、陛下の使いは!?」

「ああ、そりゃ昼前に来た連中に混じってたぜ。俺らと区別がつかねえように、汚い格好に着替えてもらってよ。

 人を見て答えを変えるといけねえから普段通りに見せるって言ったら、あいつら納得したぞ。

 今頃はもう、おまえが朝答えた通りに調書作ってんじゃねえかな?」

 李斯の目の前が、真っ暗になった。

 謀られた。騙された。この性悪な獄吏たちが、狡猾な趙高の手下どもが、自分に真実を見せると思ったのが間違いだった。

 皇帝の使いは自分が練習と称して言わされた証言をたっぷりと聞き、とっくに帰ってしまっていた。

 さらに追い打ちをかけるように、捕まったはずの少年がおどけた調子で李斯に歩み寄ってきて告げる。

「ねえねえ、本当にこんな所に味方とかいると思ったぁ?

 でも、いてほしいよね?いると思ったら、つい期待しちゃうよね?

 でも、ざぁ~んねぇ~ん!ここにそんな奴、いる訳ありませんでしたぁ!僕はおまえが素直になるように、趙高様の命令通りお薬を届けただけでしたぁ~!」

 あの優しいと思っていた少年も、味方ではなかった。李斯から自白を引き出すために、救いの手を装っていただけ。

 最初から、全ては趙高の手の内だった。

 そして李斯は、趙高が思った通りに踊らされて皇帝の使者の前で罪を認めてしまった。

 もう、どうしようもない。

 自分を助けてくれる者も国を救える者も、誰もいない。

 それを認識した途端、李斯の意識はすうっと遠のき、李斯は笑い声の渦に沈むように倒れ込んだ。

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