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ついに驪山陵が完成し、始皇帝は葬られます。
それを見て、胡亥と趙高は何を思うのか。
そして、新たな不和の種が……史実を知っている方ならこれから何が起こるかは分かりますね?
始皇帝の時代の終わり、そして来る新たな時代は……。
やがて、驪山陵が完成した。
始皇帝の代から長々と大工事を続けてきて、途中で目的が変わりながらも、最後は当初の予定通り始皇帝の墓となった。
しかし途中から実際に住むことを想定して作られたそれは、墓というにはあまりに壮大だった。
棺を安置する地下宮殿にはこれでもかと宝物が運び込まれ、諸官の席まで設けてある。天井には宝石で星空を作り、水銀の流れる川や海もある。
これらは今や、たった一つの死体のためにある。
始皇帝という、かつて中華統一の偉業を成し遂げ、今はもう動かぬ人のために。
始皇帝は不老不死となることを夢見て永遠を目指したが、死と共にその夢は幻となった。この巨大な墓は、その夢の墓でもあった。
白一色の喪服の集団に担がれて、始皇帝の柩が地下へと下りていく。
その光景を、胡亥と趙高は感慨深げに見守っていた。
「……父上はもう、何もできないんだね」
「ええ、死んでしまえば皆同じでございます。
いかに優れた人物であろうと行動力があろうと力と財を持っていようと……死んでしまえばもう何もなすことはできませぬ。
だから、不老不死を望むのでしょう」
趙高の言うことを、胡亥はしんみりした顔で聞いていた。
生前、始皇帝は不老不死のためにどんな事でもやろうとしていた。
布一枚で徐福の話を信じて莫大な人と金をつぎ込み、その後も盧生と侯生に言われるままに根拠もないことをどんどんやってきた。
ちょっと調べれば怪しいと分かるのに、疑うことなく信じ続けた。
それは結局、不老不死というものの存在を信じたかったのだと、今の胡亥には分かる。
やりたいことがどれだけあっても、やれるだけの力があっても、死んでしまったら終わり。それが、始皇帝にとって何より怖かったのだろう。
胡亥はまだ若いが、こうして葬られる父を前にするとそれを実感する。
いくら天下の頂点に立とうと、自分もいつかはこうなるのか。
それを思うと背筋が寒くなって、足がすくんでしまう。
人間である限り時間は有限で、それによってできることも限られてしまう。今自分が手にしているものも、他人の手に渡ってしまう。
そう思うと、心の栓が抜けたように悲しくて虚しかった。
「……でも、父上が信じた不老不死は本当に何もない幻じゃなかった。
できるんだけど、間に合わなかっただけ。
もし父上が死ぬのがあと五年遅かったら、朕はそれこそ永遠に公子のまま何も手に入れられなかったかもしれない」
父がいなくなったのは悲しいが、胡亥にはわずかに別の感情もあった。
不老不死が本当にただの幻であれば、素直に悲しめたのだろう。
だが胡亥は知っている……不老不死は今まさに本当に作られつつあると。
あれが完成するのが五年後か十年後か、もっと後かは分からない。だがもし始皇帝の死よりもそれが先だったら、胡亥に帝位が引き継がれることはなかった。
そう思うと、いけないと思いつつも少しだけ感謝することもある。
もっとも、自分の寿命が迫って来てもまだ不老不死が完成しなかったら、胡亥とて正気でいられるかは分からない。
だから自分の持てる力をすべて使ってできるだけの支援をしようと、胡亥は思う。
今こうして壮大な陵墓に葬られる、父のようにはならない。
その大きすぎる希望と安心を失いたくないから、研究が完成しないかもしれないなんて考えはとうに捨てた。
胡亥と趙高にとって、不老不死はそれくらい現実だった。
しかし、それを共有していない者もいる。
閉ざされていく驪山陵を見つめる二人の下に、李斯がやって来て言う。
「これで名実ともに、先帝陛下は過去の人となられました。
これからは陛下ご自身の才、礼、人となりが試される時代です。いつまでも先帝陛下の威光にすがってばかりではいられませぬぞ。
陛下も限りある命の中で帝の務めを立派に果たしていただきますよう」
その言い方に、胡亥はムッとした。
李斯は、胡亥はいつか死んで過去の人になる前提で話している。不老不死になれず、死んで後世の人に一方的に評価されると言っている。
だが、つい言い返そうとした胡亥の袖を趙高が軽く掴んだ。
「陛下、李斯殿は……」
小声でささやかれ、そうだったと思い直す。
李斯や他の大臣たちは、胡亥が今も不老不死の研究を続けさせていると知らない。始皇帝が徐福に求めさせた不老不死は本当はどういうものかも、知らない。
知らせて余計な野心を持たれても困るので、知らせないままにしておいた。
結果、李斯たちは胡亥が不老不死を諦めたものと思っている。
胡亥は始皇帝のように方士を集めたり、人の邪気に害されないところに仙人としての住処を作ろうとしていない。
それ用に作られた驪山陵は、始皇帝の墓として使ってしまった。
すなわち、仙人として永遠に生きる気がないのだと取られていた。
もっとも、仙人になる気がないのは間違っていない。だって胡亥が手に入れようとしている不老不死は、仙人とは関係がないのだから。
しかしそれを知らない李斯たちは、仙人を目指していないから不老不死を求めていないと考えた。
そして李斯たちは、それを歓迎しているようでもあった。
特に始皇帝の死に様を見た李斯は、不老不死を求めることにこりてしまった。
始皇帝は仙薬を手に入れようとあんなに手を尽くしたのに、結局何も得られなかった。それどころか、そのための行動で神の要らぬ怒りを買い、ひどい苦しみと絶望の中で呪い殺されたあげく化け物にされてしまった。
あんなのは、もうたくさんだ。
きっと人の身にすぎた高望みだったのだ。
だからそれを望まない胡亥はそうならないだろうと、安堵した。
そして胡亥はあんな変なものに惑わされない、限りある命の中でできる限り世を良くする名君になってもらおうと期待していた。
しかし、最近の胡亥のやり方はあまりに強引で後先考えていないように思える。方々から、胡亥の無学と無道を嘆く声が聞こえてくる。
あれほど偉大な始皇帝と同じ座を継いだのに、これではまずい。
後世に秦の名を汚させぬよう、諫めなければ。
李斯は、軽く危惧を覚え始めていた。
だが幸い胡亥はまだ若く、何かをする時間はたっぷりあるし今から学んでも間に合う。だから今からしっかり自覚を持ってもらおうと思って、こういう言い方になったのだ。
しかし胡亥はそれを、侮られたと受け取った。
(何だよ、年上だからって臣下のくせにいい気になって!
それに朕だって名君になるために、巡幸とかいろいろやってんだぞ。それで悪い奴を除いて、趙高にも頭いいってほめられたんだから。
朕のこと全ッ然分かってないなこの頭でっかちは!)
本当は胡亥の方が趙高に目を塞がれていて自分のことを全然わかっていないのだが……胡亥本人に気づける訳もない。
それに、胡亥は不老不死になって永遠に君臨するのだから後世の評価などあると思っていない。
(だいたい、朕の世がずっと続くから後世なんてないんだよ!
それに、民や臣下が皇帝を評価するなんておこがましいんだよ!
おまえらは限りある命で万世にわたって朕に奉仕すればいいんだ。父上の側近のくせにそんなことも分かんねーのか)
胡亥は内心、李斯を疎ましく思い始めていた。
事情を李斯が知らないのは当然だしそうしたのは自分と趙高なのに、李斯が自分の意に沿わないのが腹立たしい。
それに元々、胡亥は李斯のことをあまり知らない。
公子時代から胡亥の側にはいつも趙高がいて、李斯はずっと始皇帝の側にいた。だから胡亥は即位するまで、李斯とまともに話したことすらない。
それで話したと思ったらこの図々しさ、胡亥は李斯が嫌いになり始めていた。
一方の李斯は、自分が嫌われていると思っていない。
李斯と始皇帝はとても気が合い、李斯の話を始皇帝はいつもよく考えて聞いてくれた。打てば響く鐘のように、忠誠を捧げれば始皇帝は大事にしてくれた。
今までそれが当たり前だったから、胡亥もそうだろうと思っているのだ。
だが、胡亥は始皇帝ではない。
李斯と通じ合っていた始皇帝はもう物言わぬ亡骸として葬られ、今目の前に立つ皇帝は全く別の人物なのに……李斯はそれを実感できていなかった。
そんなすれ違う二人を前に、趙高だけが笑っていた。
そうこうするうちに始皇帝は葬られ、驪山陵は閉じられた。
驪山陵には莫大な宝物が納められているため、盗掘を防ぐために内部には弩の罠が仕掛けられた。
また、人を入れないのに矛盾するようだが、長く消えない脂で火が灯された。
いよいよ地下への出入り口を閉ざすというところで、趙高は胡亥にこうささやいた。
「いくら厳重に封鎖しても、ここを作った職人たちは進入路も罠も知っています。この者たちを外に出せば、ここは安全とはいえませぬ」
胡亥はうなずき、何事か指示を出した。
すると、地下の中扉を閉じると同時に外側の扉も閉じ、間にいた職人たちをそのまま生き埋めにしてしまった。
残酷なやり方だが、胡亥は自分を守るためならもう心を痛めなくなっていた。
(……朕がこの世で唯一の不老不死になるために、宝物以上に見られちゃいけないものがある)
趙高と胡亥が何としても隠したかったのは、実験施設の跡だ。
不老不死の秘密を守るために、あそこだけは絶対に見られてはならない。あそこを真似されて他にも不老不死になる者が出るなど、論外だ。
もうそこには人はいないし資料も残っていないが、念には念を入れてしっかり隠しておかなければ。
その秘密に比べたら、どこにでもいる民の命など軽い。
趙高と胡亥は、誰にも分けるつもりのない二人だけの秘密がまた一つ闇に葬られるのを静かに見つめていた。
その後ろで、石生たち研究員も始まりの施設が閉鎖されるのを見ていた。
慣れ親しんだ場所から離れ師も戻らぬままだが、彼らの目に悲しみはない。彼らは揃って期待と尊敬に満ちた眼差しで胡亥と趙高を見つめている。
眼下にある咸陽の街は、石生たちが死刑囚として地下に入った頃とは様変わりしていた。街は広がりあちこちに宮殿ができ、それは紛れもなく繁栄を示しているようだった。
(こんなに世の中を良くする方々を不老不死にすれば、世は安泰に違いない!
これからもこの方々のために、我々の研究を捧げるのだ!)
地下にいた石生たちは、二人の本性も国の現状も知らない。
ただ見てくれだけで全ては良い方向に向かっていると勘違いし、歯止めを驪山陵とともに葬って阿房宮の地下に向かった。




