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久しぶりに地下メインの話です。
始皇帝が死に徐福たちが去ってから、地下はどうなっていたでしょうか。
研究を巡る環境は、始皇帝の頃よりずっと改善していました。しかし、それが全ていいこととは限りません。
ストッパーを失い野心のために突き進む研究……理性ある創始者はもういない。
虐殺が終わると、胡亥は二世皇帝としての政務を始めた。
「まずは、先帝の代に完成させられなかったものを終わらせることでございます。中途半端なままでは天下に示しがつきませぬし、完成させることは先帝への孝行になりましょう」
何をやっていいか分からない胡亥に、趙高はまずこう進言した。
始皇帝は驪山陵と阿房宮を始め数々の大工事を始めたが、完成しないうちに世を去ってしまった。
これをそのままにしておく訳にはいかない。
特に驪山陵は、始皇帝が葬られる墓である。ここが完成しないと、始皇帝の柩を正式に葬ることもできない。
「そっかぁ……じゃあ、まずは驪山陵だね!
となると、あいつら引っ越しさせないと」
「ええ、ですから結局阿房宮の工事も進めねばなりませぬ」
これは、二人にしか分からない会話である。
あいつらとは他でもない、驪山陵の地下で不老不死の研究を進めている者たちのことである。始皇帝が死んでも、次は胡亥のために研究が続けられていた。
しかし驪山陵が墓として完成してしまうと、もうそこにはいられない。地下への出入り口は閉ざされてしまうし、人や物資の出入りもなくなるからだ。
それを想定して、趙高は阿房宮の地下に新たな施設を用意していた。
しかも阿房宮は広大であるため、前より大規模な施設を用意できた。
今後はそこで、より大規模に研究を行うのだ。
「一応今の研究員たちを移動させるだけの施設はもうできております。近日中に移動させたいと存じますが、いかがでしょうか?」
「いいんじゃない……あ、でもたまには朕も一緒に行こうかな。
最近ゴタゴタしてて、しばらく行ってないし」
胡亥のおねだりに、趙高は目を細めてうなずいた。
胡亥は皇帝となってからも、太子の頃と同じように、いやそれ以上に趙高に甘えてすがってくる。そこに、皇帝の威厳なんてものはない。
胡亥は、皇帝としての孤独と重圧が怖くてたまらないのだ。
臣下や天下の全てが、自分が皇帝にふさわしいか見ている。自分の座を狙う者がどこにいるか分からなくて、心が休まらない。
そんな中唯一心を許せるのが、趙高だ。
だから胡亥は他の者になめられないよう過剰に厳しく冷たく接する一方、反動のように趙高には全てを委ねんばかりに甘える。
秘密の実験施設を見に行くことは、今や唯一と言っていいほぼ二人だけのお出かけだ。
皇帝になってから、どこに行くにも多数の護衛や供がついて回る。当然、そんな外出では心から楽しめない。
だが、地下施設を見に行く時は別だ。
あの施設の存在は他に知らせないため、行くときは趙高と彼の子飼いの護衛数名だ。
この時だけ、胡亥は肩の力を抜いて楽にできる。
それに趙高とこの世の理すら覆しかねない壮大な秘密を共有することは、二人の特別な絆の証のようで嬉しかった。
こんなすごい秘密を知ってなお、趙高は自分の座を狙うことなく誠実に仕えてくれる。
これは趙高が絶対に裏切らない証に違いない。
胡亥は、そう思って安心できる。
そんな理由で胡亥は今日も気が抜けない王宮を抜け出し、忠臣の皮をかぶった最悪の宦官と共に地下に潜った。
地下離宮に来ると、研究員たちは忙しそうに荷物をまとめていた。阿房宮への引っ越しの準備を進めているらしい。
「これはこれは陛下、よくいらっしゃいました!」
胡亥の姿に気づくと、研究員たちは一斉に作業の手を止めて平伏する。この公子時代にはなかった対応が、胡亥をさらにいい気にさせる。
「ああ、顔は上げていいよ。
おまえたちは朕を不老不死にしてくれる、大事な人間だからね」
胡亥がそう声をかけると、総責任者の石生だけがそろそろと顔を上げた。
「陛下直々にそうおっしゃっていただけるとは……光栄の極みでございます!」
徐福たちが海の彼方に去ってしまってから、石生はこの研究を引き継いで今も進めてくれている。
始皇帝が巡幸中に死んでしまったと聞いた時は、間に合わなかったと涙を流して悔しがった。その悔しさをバネに、次の胡亥にこそ間に合わせてみせると意気込んでいる。
さらに、皇帝である胡亥が直接顔を見せて激励してくれることにも感動していた。
前の依頼者である始皇帝は、地下に顔を見せるどころか激励の手紙の一つもくれなかった。地下の存在そのものを知らなかったのだから、当然だ。
しかし、この胡亥はここの存在も何をしているかも知っている。
知っていて、時々来て応援してくれる。
こうして相手を実際に見て期待していると言われると、研究員たちの士気は高まる。皇帝に認めてもらえている実感で、さらに研究が崇高に思える。
そんな感じで、胡亥と研究員たちの関係はとても良好だ。
ただし、研究の進捗はあまり良好とは言えないが。
「申し訳ありません、あれからあまり成果が出せず……。
わずかに知能が改善した人食い死体はごくまれに出るのですが、やはり思考や理性を回復させて食人を止めるには至らず……」
石生は、悔しそうに報告する。
残念ながら、徐福たちが去ってから研究は停滞してしまっている。
石生たちは真面目にやっているし、工作部隊が抜けた分は趙高が適した人材を投入して補っているが、やはり穴を全て埋めるには至らない。
「こうしていると、徐福殿がいかに偉大であったかよく分かります。
あの方の研究に対するひらめきや感覚は、私めには真似できません。
親は無くとも子は育つと申しますが、こればかりはやはり生みの親にしか分からぬ何かがあるのでしょうか……面目ありません!」
だが、そうして平伏する石生を胡亥は優しく励ます。
「いいって、父上と違って朕はまだ若いんだもの!時間はたっぷりあるから!
それに、作るならきちんとしたもの作ってくれないと困るし。
……父上みたいには、なりたくないかな」
これが、胡亥の素直な感想だ。
胡亥が研究員たちに優しいのは、まだ若いゆえの楽観のせいだ。自分の寿命はまだまだ先だろうから、焦ることはない。
それに、父の死に様を見て恐怖と嫌悪を覚えたせいもある。
父は不老不死を焦って尸解の血を取り込み、そのせいでおぞましい人食い死体になってしまった。尸解の血だけでも危険だと、分かっていたのに。
いくら素晴らしいものを作ろうとしてできた中間産物でも、よく分からないままいたずらに使えばひどい結果を招く。
胡亥が父から学んだ教訓だ。
焦って中途半端なものを使って、自分もあんなになってはたまらない。
だから研究の進み具合が思わしくなくても、あまり尻を叩こうとは思わなかった。
「ま、これからはもっと広い場所でいっぱい実験できるし、そうしたら進むでしょ。
それに、趙高もまたいろんな人を連れて来て手伝わせてくれるから。今度は皇帝になった朕の命令で、何でも堂々と取り寄せてあげられるし」
胡亥が皇帝になったことで、研究の環境も良くなった。
以前は始皇帝に本当のところを隠して別の名目で必要な金や物を手に入れなければならなかったが、もうそんなまどろっこしいことはしなくていい。
皇帝の胡亥が本当のところを知っているから、皇帝の命でいくらでも金も物もつぎ込める。秘密も皇帝の力で強力に守れる。
難しい研究を行ううえで、これは大きかった。
さらに趙高も、天下から適していそうな人材を集めている。
これだけ環境が変われば、研究だって進むだろうと皆思っていた。
趙高も、ほがらかな笑みで言う。
「さようです、それにもう余計な研究はしなくてよろしいですから。
徐福殿が戻らなかったということは、治療法の手がかりはなかったのでしょう。なのであれば、もう寄り道などしなくてよろしい。
感染が制御されておれば人食い死体など恐るるに足りぬのですから、そんな事より不老不死に集中した方が有意義でございます」
趙高と胡亥は、そういう訳で治療法の研究をやめさせてしまった。
治療なんかできなくても、人食い死体など簡単に停止させられる。そもそも感染が広まらなければ、治療の必要はない。
そうして今まで治療法の研究に当てていた予算や労力も、不老不死の研究のみに注ぎ込むことにした。
おかげで、不老不死のための実験を前よりよく行えるようになった。
それも今は、引っ越しのために一時中断しているが……。
「ここまでしていただいて、感激の極みにございます!
必ずや、陛下のために不老不死を完成させてみせます!」
石生たちは数々の環境改善に感謝し、胡亥に忠誠を誓う。それは一見、とても熱く希望に満ちた光景であった。
そんな胡亥と研究員たちを見つめる趙高の目は、冷めていた。
(ホッホッホ……都合のよろしいことで。
いくら陛下のためと口にしていても、本当は好きなように研究ができれば雇い主は誰でもいいのでしょう?この狂人共が!
しかしまあ、作るものは世界を変える稀有なもの。
無駄になどしませんとも、しっかり私が活用してさしあげますよ!)
そう、趙高は不老不死を胡亥に使わせる気などない。
不老不死になるのは、胡亥ではなく趙高だ。もし不老不死が完成したら、胡亥はそれを使う前に非業の死を遂げるだろう。
父と同じように、呪いと称する不治の病に侵されて。
その時に、治療法なんてものがあっては困る。
だからあくまで治療法を求める気だった徐福に研究の損失となっても出ていくことを許し、治療法の研究をやめさせたのだ。
研究が進むよう環境を整えているのも、全ては自分のため。それで生じた民の苦しみや恨みは全て胡亥に押し付け、自分はうまい汁だけを横取りするのだ。
しかし、今ここにいる誰も、趙高のその考えに気づいていない。
胡亥は己の権威と不老不死のことばかり考えて。
石生と研究員たちは研究のことで頭が一杯で。
今ここで行われている研究とそのための支援が本当は誰のためのものか、広い目で見て気づける者はもうここにいなかった。




