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ついに、始皇帝没す。
必死で平常を装って巡幸を続けるも、始皇帝はひどい状態になっていました。
襲い来る病苦と助けを求められない孤独の中で、始皇帝はようやく大切なことに気づきます。ただし、気づいても変えられるとは限らない。
始皇帝と蓬莱と徐福、それぞれの未来を分かったのは何だったのか。
ここで、大きく一区切りつきます。
しかしまだ続きますので、よろしくお願いします。
巡幸の行列は、ようやくだいぶ内陸に来て黄河を越えようとしていた。
しかし、咸陽に帰るまでにはまだまだ遠い。
黄河に沿ってまっすぐ帰ればいいのだが、運悪く今回の巡幸はそこからさらに北へ大回りする道程になっていた。
それでも、変える訳にいかなかった。前々から決まっていた道程を変えれば、始皇帝に何かあったと悟られるかもしれないからだ。
平常を装って、進まねばならない。
だが、始皇帝の体はどんどん悪くなっていく。
もはやどうにも隠し切れないほどに、始皇帝の死は迫っていた。
轀輬車に揺られる始皇帝は、もう窓を開けて外を見ることもできなかった。外に見せられる顔色では、なくなっていた。
始皇帝の肌は滞った血で青黒くなり、明らかに元気な顔色ではない。おまけに、肌のあらゆるところに内出血の斑点ができ、体重がかかるところは皮膚が破れてただれてきた。
もはや、生きながら死体のようである。
体の機能も、もうとっくに破綻していた。
血の巡りは止まりかけ、全身が水になったように冷える。末端の感覚はどんどん失われ、もう手足が思うように動かない。
仙薬は一日八回も飲んでいるが、もう効いて気分が良くなる時間はわずかだ。
薬を飲むと少しだけ体の中心が温かくなって頭がさえるが、すぐまた冷たくなり、体温は乱高下を繰り返す。
その仙薬も、吐き戻してしまうことが多くなった。
もう体は、食物を受け入れない。
食欲は全くなく、無理をして体に押し込んでも吐き戻すか、ほとんど消化されないまま下痢で出てしまう。
そのうえ、便や吐物からは肉の腐ったような臭いがした。
そのため、始皇帝は少しでも仙薬を体に留めるために食事をやめた。吐かなければ、まだある程度の効果はある。
というか、もう薬なしでは一日も生きていられないだろう。
しかし、何も食べなければいずれ死んでしまう。
もはやどこをどう探しても、生きられる方法がない。
始皇帝ももう、いくら足掻いても助からないと認めざるを得なかった。平常を装おうが死という言葉を遠ざけようが、死からは逃れられない。
それに気づくと、始皇帝は必死で遺書を書き始めた。
自分が永遠に生きるつもりでいたから、自分が死んだ後のことをまだ何一つ決めていない。このまま死ねば、国が崩れる。
だが、決めて伝えるにも残された時間はあとわずかだ。
決めなくてはいけないことが山ほどあるのに、どこから手を付けていいか分からなくなって、おまけにあまり回らなくなった頭では筆が進まない。
始皇帝は仙薬を水のように飲みながら、とにかく思いつくことを無我夢中で書き留めていく。政策のこと外交のこと、考え始めると細かいところまで気になって止まらない。
それでも、書くのをやめることはできなかった。
仙薬の飲みすぎでバクバクと耳につくほどうるさい心臓の音を聞きながら、震える手とかすむ目で書き続ける。
深く眠ったらもう目覚めないかもしれないと思うと、怖くてよく眠れない。仙薬による興奮もあり、途切れ途切れに眠っては狂ったように書き続ける。
頭を冴えさせようと仙薬をもっと飲もうとしても、あまり一度に飲むと吐いてしまう。
吐いたものには、どす黒い血が混じっていた。
汚れものを見ていたくなくて人を呼ぶと、宦官がかけつけてきて汚れものの入った金属の釜を回収してく。
せめて悪しき者の手に渡ってさらに呪われないように、燃やすらしい。
その焦げた臭いがここまで漂ってきたように思えて、始皇帝はたまらなくみじめになった。
(なぜじゃ……なぜこのようなことに!
一体どこで、間違えた!?)
どうしてこんなことになったか、本当のところを始皇帝は知らない。
始皇帝にとってその原因は、自分が海神を侮って海に出たがために呪われたという、偽りの筋書きのみ。
しかしそれがかえって、始皇帝に当たり前のことを気づかせた。
(くっ……朕が、誤ったというのか……誤った?
朕も、誤ることがあるというのか!!)
始皇帝はこれまでずっと、自分は正しいと信じ込んできた。しかし今回の事で図らずも、その頑迷な思い込みが崩れた。
始皇帝は、愕然とした。
自分は他人と同じように過ちを犯す、ただの人間だったのだ。
それに気づくと、どっと不安が押し寄せてきた。
今書いている遺書も、実は間違っているのではないか。それどころか、今まで進めてきたことも間違っているのではないか。
誰かに問いたくても、もうその相手がいない。
始皇帝は自分が正しいと思うあまり、自分の意見に反対する者をことごとく除いてきた。結果、もう周りに違う意見を言ってくれる者がいない。
これも己の過ちかと思うと、始皇帝は戦慄した。
これまでに追放したり首をはねたりしてしまった者が、今側にいてくれたら……。
「扶蘇……扶蘇……!」
始皇帝はいつの間にか、北へ追放してしまった長男の名を呼んでいた。
文武に優れ、人を思いやる心に満ちて、多くの人から愛され慕われていた扶蘇。次代の皇帝にふさわしいと、方々からほめられていた扶蘇。
もし彼が今ここにいれば、始皇帝と今後のことについて納得できるまで議論できただろう。そして、子としての深い愛で始皇帝を死ぬまで支えてくれただろう。
そんな尊い扶蘇を、自分はなぜあんなに無下に扱ったのか……。
これも今考えれば、とんでもない過ちだった。
だが、まだ扶蘇を救う方法はある。
(そうじゃ、扶蘇……次の帝位は、扶蘇に……!)
扶蘇は生きている。ならば今ここで助けを請うことはできなくても、死後を任せることはできる。
遺言に記す。扶蘇を後継者に。
同じ公子の胡亥は今側にいるが、あれはだめだ。こんな己の窮地に相談もできぬ奴に、天下は任せられない。
自分はよくいう事を聞くと胡亥を可愛がってきたが、よく見ればあいつは自分の意見を持たない、流されるだけのでくの坊だった。
あれもこれも、間違いだらけだ。
始皇帝は、他人の意見を聞かなかったことを深く悔い、己の愚かしさに涙した。
そして、せめて死後にそれを正してもらうべく、扶蘇を呼び寄せる命令書を趙高に手渡した。
「死後のことで話がある、すぐにあやつをここへ呼べ!」
もはや呼吸すらままならぬ始皇帝に、趙高は痛ましい顔をして頬に流れた血混じりの涙を拭ってくれた。
そして始皇帝から離れると、命令書を汚れものの釜に突っ込んで燃やしてしまった。
始皇帝の体と同じく、その改悛もまた手遅れであった。
海と区別がつかないような暗い空で、星がまたたいている。
徐福は、甲板で夜風に吹かれていた。そこに、盧生と侯生がやって来て声をかける。
「徐福殿……秦は、我々を探すでしょうか?」
長い航海で暇にしていると、どうしても心配事が頭の中で大きくなってくる。今、新天地を目指す者たちにとって最も心配なのはそれだった。
できるだけ手の届かぬところに逃げるつもりでいるが、始皇帝が秦の力を総動員して地の果てまで探したら、見つかる可能性はゼロではない。
だが、徐福は軽く首を振った。
「大丈夫さ、俺が約束した一年後まで、始皇帝は生きておらんよ。
最後に別れる時、趙高は早く始皇帝を殺したくてうずうずしておった。それらしい筋書きで怪しまれず殺せるよう、手助けもしてやった。
今頃はもう、殺されているかもしれん」
それを聞くと、侯生が少し悲しそうな顔で呟いた。
「あれほど疑い深くて残忍なのに、すぐ側にいる悪者に気づけないなんて……皮肉なものでございますね」
すると、徐福は遠い目をしてぼやく。
「自分が正しいと信じ切っていたからさ……自分が正しいから、自分が信用できると思ったやつのことはどこまでも信じてしまう。
疑ったら、自分が間違っていたことになるからな」
「何と頑迷な……陛下がそれに気づく日は来るのでしょうか?」
盧生が言うと、徐福はまた軽く首を振る。
「うまくいっているうちは、絶対に来ないだろうな。
来るとしたら、自分の力ではもうどうしようもなくなった時だろうが……そうなったら気づいたところで手遅れだ。
後は、趙高が俺たちに無害なようにうまくやるさ。あいつは自分の富を減らすのが嫌いだし、もう不老不死を求めて海に出る必要もないのだから」
そこまで言うと、徐福はふーっと長いため息をついた。
そして、自嘲の笑みを浮かべてぼやく。
「……俺も、似たようなものだったかもしれん。
不老不死に少し似た現象を見つけただけで作れると思い込んで、天下の富を湯水のごとく使って大陸に破滅の病を持ち込んで。
誤ったと気づいた時には、もう俺の力ではどうにもならなくて。ああ、己が正しいと信じるのは恐ろしいことだ」
そこまで言うと、徐福は請うような目を二人に向けた。
「大陸をおそらく手遅れにしてしまった愚かな俺だが……これからも、ついてきてくれるか?」
盧生と侯生は、静かにうなずいた。
「もちろんですとも!
我々とて、あなたの言うことに何の疑いも抱かなかった愚かな身。これからは互いに道を修正し合えるよう、少しでも努力いたします」
それを聞くと、徐福は柄にもなく涙声になって二人に頭を下げた。
「すまん……おまえたちのような弟子を持って、俺は幸せ者だ!
これからは、俺の考えと違うことでもどしどし言ってくれよ!」
そう言ってむせび泣く師の背中を、盧生と侯生は優しくさする。こんな師だからこそどこまでもついて行きたいと、心の底から思った。
徐福は己の過ちを認め、できるだけの手を打った。これからは独断で進めないと、心を改めることができた。
だからきっと、この人は破滅しない。
抱き合う三人を見下ろす満天の星空で、ひときわ大きな星が西に落ちていった。
省みる者に、道は開かれる。
しかし省みない者には、滅びあるのみ。
たとえそれが小さな島の社会であっても、中華全土を覆う大帝国であっても。
星が落ちてゆく西の大地で、始皇帝は喘ぐような吐息と共に目を覚ました。体中に力が入らず、もうろうとした意識の中で何とか仙薬の水差しを取る。
(仙薬……仙薬を……!)
びしゃびしゃとこぼしながらも、いくらか口に含んで飲み下す。しかしその液体からは、いつもの味がしなかった。
早く力をと願うも、力はこれっぽっちも湧いてこない。
それどころか力は抜ける一方で、気が付いたら手足が動かなくなっている。息をしようとしても、吸って吐くという当たり前の動きすらできない。
そのうち、始皇帝の意識は急速に遠のいて闇に消えていった。
後を追うように迫ってくるのは、彼が築いた大帝国の滅びの足音であった。




