(14)
ついにゾンビの登場です。
仙人について知識のある徐福は、初めて見るゾンビをどのように判断するでしょうか。
現実的とはいえ、迷信深い古代中国の感覚ですから。
がさり、と不穏な物音を、徐福の耳が捉えた。
徐福は慌てて口をつぐみ、神経を集中させた。
(……しまった、近くに人がいたか!
くそっ俺としたことが……!)
つい浮かれてしまった己に舌打ちしながら、徐福は壁に耳をつけて様子を伺う。
狭い殯屋の中には、隠れられそうな場所がない。人が入って来て顔を見られてしまえば、一巻の終わりだ。
徐福は、隠されていた秘密の一端に触れたにすぎない。核心についてはまだ何一つ分からないし、弱みもまだ見つけていない。
(ここで見つかる訳にはいかぬ……どうしてもとなれば、最悪の手段も辞さぬぞ!)
徐福は、懐から鋭い厚刃の短剣を取り出した。
それから足甲の一部を素早くほどき、それなりの長さの縄を引き抜く。
徐福は、探求に必要な隠密行動のために、様々な忍び道具を持っていた。必要な行動の中には、多少の荒事も含まれる。
幸い、相手は一人のようだ。
殯屋の入口で待ち伏せして、しばらく動きを封じさせてもらおう。
しかし、音の主は殯屋に入ってくる様子はなかった。しばらく立ち止まって、少しうろうろした後、殯屋から離れていく。
徐福は焦った。
(いかん、他の住民を呼ばれるか!?)
一人ならどうにかなる、しかし増援を呼ばれたら厄介だ。
徐福は一瞬の判断で、殯屋を出て物音の主を追った。
このうえは、他の者を呼ばれる前に動きを封じて黙らせるべし。後手に回るほど、状況は厳しくなる。先手必勝だ。
木々の間に、人影が見えた。
追ってくる徐福に気づかないのか、その足取りはゆっくりとしている。
徐福は一気に飛びかかり、相手の首を掴んで押し倒した。
「動くな、そして声を立てるなよ。
下手な動きをすれば、殺す」
徐福は相手の耳元でささやき、首に短剣を突き付けた。同時にもう片方の手で、相手の腕に縄を絡ませる。
しかし、その時徐福の指に違和感が走った。
相手の肌に、張りがない。いや肌どころか、その下の肉すらぶよぶよと妙に柔らかく、普通の人間とは全く違う感触を伝えてくる。
それにやや遅れて、強烈な悪臭が徐福を襲った。
近づいた時にはむしろ芳香を感じたはずなのに、今この相手の体に密着すると、ひどく臭い。鼻がもげそうになって、吐き気がする。
「うげぇっ……何だ、これは!?」
思わず顔を背けながら、徐福は気づいた。
これは、死臭だ。死んだ肉の腐っていく臭いだ。
生きている人間がまとう臭いではない。
はっと見れば、相手はとても日常生活で着るとは思えぬ、粗末な衣を着ていた。その布地には、濃厚な腐臭を放つ汁がしみている。
肌は生きているとは思えぬ灰色で、ところどころ崩れて破れている。傷口に見える赤黒いものは、腐肉であろうか。
(まさか……まさか!?)
徐福の顔が、みるみる青ざめていく。
確かめたくない、だが確かめなければ。
徐福は相手が動かないように体で押さえつけ、そっと衣の中に手を潜り込ませた。
妙に柔らかい、気持ちの悪い感触を伝えてくる胸は、ぴくりとも動かない。呼吸も脈も、全くない。
徐福の目が、驚愕に見開かれた。
(こいつは、生きていない!!)
気が付けば、徐福は転がって距離を取っていた。
こいつは、心臓も肺も動いていない。確実に死んでいる。しかも体中が腐り始めている。死んでから、かなり日数が経っているはずだ。
それでも、動いている。
これは一体、どういうことか。
尸解仙になったのなら、生きているはずだ。
仙人は不老不死の存在、つまり生きている。気血ともに満ち溢れ、普通の人間と同じかそれ以上に生気をみなぎらせているものだ。
しかしこいつは死んでいる。
おそらく、仙人ではない。
ならばこいつは、一体何なのか。
混乱する徐福の前で、そいつはゆっくりと起き上った。そして今さら気がついたように、徐福の方に顔を向ける。
その顔を見た途端、徐福は心臓が縮み上がる思いだった。
向けられた目は、死んだ魚のように白く濁っていた。鼻からは汚い汁が漏れ、唇が半ば溶けた口には蛆がわいている。
冥府から這い出た幽鬼の如く、おぞましい姿だった。
「う、ああ……わああああ!!!」
悲鳴が、喉を突き破って飛び出した。
こんなものは、仙人ではない。仙人であってたまるか。
これを仙人と呼ぶならば、なりたい訳がない。
腐敗してなおも動き回るなど、意識があってもまっぴらごめんだ。それに腐って蛆に食われているということは、不滅では有り得ない。
これはただの死体、いやもっと恐ろしい別の何かだ。
死んでなおも歩き回る、人智を越えた化け物の類だ。
「くそっ冗談ではない!!」
徐福は、短剣を構えたまま後ずさり始めた。
こんな化け物がいるとは、想定外だ。
だがよくよく考えてみれば、不可思議な現象は何が原因か分からないのだ。化け物が原因の現象を、仙人と取り違えていてもおかしくない。
これまでそんな記録にもそんな化け物にも出会わなかったため、油断していたのだ。
この化け物は、自分をどうする気だろうか。幽鬼に出会った人間は、多くが祟られて死んでしまうと言われている。
こいつは既に死んでいるのだから、短剣が効くかどうかも分からない。
徐福は、思わず死を覚悟した。
これまでの探求の旅の中でも、こんなに死を身近に感じたことはなかった。
今目の前に立っているのは、まさに死なのだ。
……しかし、予想に反してそいつは襲ってこなかった。徐福のことを認識しているのかいないのか、ぼんやりと立っているだけだ。
(……これは、逃げられそうか?)
一瞬の判断で、徐福は林の中へ身を翻した。
回転する視界にチラリと映ったそいつの足は、靴を片方しかはいていなかった。
どこをどう逃げたのか、徐福は小さな川の側に来ていた。
あの殯屋と化け物からは、だいぶ離れたはずだ。
化け物を前にして、自分は悲鳴を抑えられなかった。だからその悲鳴を聞きつけて、島の住民が来るかもしれない。
その意味でも、殯屋からは離れるのが望ましい。
距離を取ったうえで、とにかく今は頭の整理をして休みたかった。
(……あの化け物は、一体何なのだ?)
川で手を洗いながら、徐福は考えた。
あれは見た所、ただ人間の死体が動いているようにしか見えない。体の一部が獣のようになっているとか、人間にはない器官があるとか、そういう妖怪の特徴はない。
おかしいのは、動いていること。その一点だ。
それ以外に、殯屋に置いておく死体と違うところはない。
(そう言えば、やはりアレはあの殯屋から出たものか?)
落ち着いてくるにつれて、化け物の姿が思い出される。
あの化け物は、まさしく棺に入れられる時の格好をしていた。それに、片方しかはいていなかった靴……棺の中にも、靴が片方だけ残されていた。
棺から出るときに、蓋にでも引っかけて脱げたのだろう。
尸解仙の伝説によくある棺の中に残された衣類とは、このことだったのだ。徐福は、妙に納得した。
(……だとしたら、おそらく仙人はいないな。
いるのはあの化け物と人間だけだ。
……ここは、さっさととんずらした方が良さそうだ)
手についた腐汁を洗い流しながら、徐福は恐怖とともに判断した。
島の者はおそらく、あの化け物が起こす現象を仙人だと宣伝しているのだろう。これは暴かれては困るので、厳重に隠しておくはずだ。
しかし……徐福は、それを暴いてしまったのだ。
島の者が徐福をどうするかは、想像に難くない。
だが、ここから逃げるための道は、分からないままだ。穏便に帰ることは、もうできそうにないし、船を手に入れて闇雲に海に出ても漂流するだけだ。
(逃げたい時に限って、逃げ道なしか……やれやれ。
これは何としても、弱みを握らねばな)
目標を決めると、少しは恐怖が薄らいだ気がした。
それでも心にこびりつく怯えを洗い流すかのように、徐福はごくごくと水を飲んだ。張りつめた心と体を冷ますように、夢中で飲んだ。
そして一息ついて顔を上げると、自分の隣に足が見えた。




