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ついに扶蘇の登場です。聡明で人格者と評判で……しかし、聖人すぎるとそれはそれで問題が生じます。
聖人は周りも感化するもの、そんな聖人に触れた韓衆は……。
汚れなく正しいことがいつも正解とは限らない、というお話しです。
始皇帝が巡幸に出てしばらく後、韓衆はついに扶蘇と対面することができた。蒙兄弟が、客人として紹介してくれたのだ。
「ようこそおいでくださいました、お顔を上げてください」
優しげな声をかけられて、韓衆は顔を上げる。
そこにいたのは、始皇帝の持つ威厳を残しながらも若く優しげな、好青年だった。しかし周りを全て油断ならぬ敵と見るような始皇帝と違い、まず人を信じようとする素直さに満ちている。
それは、自他ともに清廉で通してきた韓衆が気圧されるほどであった。
「韓衆と申します……身分はその、方士です」
方士と名乗るだけでも、気後れして恥ずかしくなってしまう。こんなに立派な人が方士なんかと会っていいのか、とすら思ってしまう。
そんな韓衆の心中を読んだように、扶蘇は柔和な笑顔で言った。
「そこまでかしこまらなくても、大丈夫ですよ。
私はまだ、領土も大した官職も持ちませんので。
それに……方士と言えば最近父上の周辺で良からぬ噂を耳にしますが、韓衆殿は実直で誠意あるお方だと聞きます。
まずはその、本当に聞く薬酒とやらをいただきましょうか」
そのうえ韓衆が話しやすくなるように、会話のきっかけまで作ってくれた。この他人への気遣いには、脱帽するばかりである。
さっそく韓衆の持参した酒を開け、皆で机を囲む。
「うーん……確かに変わった味といいますか、でもお薬としては効きそうな気が……」
ゲテモノ酒を飲んで苦笑する扶蘇に、蒙恬が笑って言う。
「ハハハッ慣れぬときついものはありますぞ!
しかし本当に精はつきましてな……そのうち子が増えるかもしれませぬ!」
「扶蘇様も、増やされても良いのですよ」
蒙兄弟は茶化してそう言ったが、扶蘇の顔は暗くなった。
「いや、私は……父のようにはできぬ。やみくもに増やしても、その分養うための食い扶持が増えるだけだ……。
それに……正直、精がつきすぎて父のようになるのは嫌だ」
扶蘇は、父である始皇帝の性生活を思って心配しているのだ。
始皇帝は元からの秦の後宮に加え、滅ぼした六国の後宮の美姫たちをさらって、そのうえまだ全国の美女を集めて夜な夜な組み敷いている。
扶蘇の目から見ても、これは明らかにやりすぎだ。
「いくら自分ができる人間だからといって、あんなに女を集めてそのために莫大な金をかけるなど、君子のやることではないと思うのに。
いや、女に限った話ではありません。
最近の大工事にしろ不老不死にしろ、父は足りるということを知らないのでしょうか……」
少し酒が入ったせいか、扶蘇の口からは父への憂いがどんどんあふれてくる。日頃から、よほど悩んでいるらしい。
「天下の富は元々父上のものではないのに……あれでは民がかわいそうです」
扶蘇は、そう呟いて目を潤ませた。謙虚で民思いの人格者という評判は、間違いない。
蒙兄弟は、にわかに真剣な顔になって目で合図し合った。
「扶蘇様、本日はそのことでお話しが……」
蒙毅が、ここに来た目的である本題を切り出す、すなわち、今の始皇帝がどんなにひどいか、そして世を良くするためにはどうすればいいかということを。
始皇帝が盧生と侯生の言いなりになって莫大な国費を浪費し無意味なものをたくさん作らせている現状を話すと、扶蘇は愕然とした。
それが原因で地方では刑徒を増やすために取り締まりが異様に厳しくなり、さらに一般の民まで徴用されて人々の生活が困窮している。その有様を聞くと、扶蘇はあまりのひどさに声を上げて泣き崩れた。
「な、何ということだ……国と民のために、早く何とかしなくては……!」
おののき震える扶蘇に、蒙恬はたたみかける。
「あなた様もお分かりの通り、今の陛下はもうだめでございます!
このうえは、きちんと君子として民を思う心のあるあなたがお立ちになるべきです。さすれば、天下の民は今よりずっと幸せになるでしょう!」
それを聞いて、扶蘇の濡れた瞳がびくりと揺れた。
「それは……私に、父を追い落せと言われるのですか?」
驚く扶蘇に、蒙毅も言い募る。
「追い落とすのではありません、天下をふさわしい在り方に変えるのです!あなたは、今のお父上が皇帝の位にふさわしいとお思いですか!?」
「それは……とても思えぬ。
それでも天下の戦乱を終わらせたし、子が父に逆らうは不孝ではないか!」
やはり、扶蘇は優しいゆえにこの大胆な策をそう簡単には受け入れない。父に問題があると認めつつも、親子の情はあり、反逆や親殺しを嫌がるのだ。
この辺りは、徐福や尉繚の予想通りだ。
この扶蘇の反応に、蒙兄弟が韓衆に視線を送る。
扶蘇は情に脆い、ならばこちらも一般人に近い立場の韓衆が懇願すれば、心を動かせるだろうという作戦だ。
蒙兄弟と、そしてここにいない憂国の士たちもそういう意味で韓衆に期待している。
徐福と尉繚も、そこは韓衆の強味かもしれないと言って任せてくれた。
今こそ国を思う多くの者の期待に応え、徐福の命令に従って扶蘇に泣きつき、天下万民を救う時だ。
……が、韓衆は動かなかった。
見開いた目からは涙がボロボロとこぼれているが、それは扶蘇を動かすためではなかった。
(小生は、一体何をやっているのだ……こんな素晴らしい方に、手を汚すよう仕向けるなんて……!)
実際に会って話してみて、韓衆はこの扶蘇の清らかさと思いやりの深さに感銘を受けていた。こんな素晴らしい人が、この世にいるのかと。
そして、思ってしまった。
こんな清らかな人に、汚いことなんかさせられない……と。
(小生は、何と卑劣な事をしようとしていたのだ!!
これほど人々の期待を集め、聡明で優しいお方に、実の父を殺させて消えない心の傷と不孝の汚名を刻もうなどと!
そんな残酷なこと、できる訳がない!
しかも本人には何の罪もないのに、罪深い我々の尻拭いのためになんて……!)
韓衆のこの変心は、徐福が最も恐れていたことであった。そうならないよう、何度も念を押していた。
しかし韓衆は扶蘇の清らかさに触れたことで、この人を傷つけたくないと見事にきれいな情に流されてしまったのだ。
「お、お二方……もういいでしょう!
いくら今がお辛いとはいえ、陛下は扶蘇様のお父上ですぞ。子が父に刃を向けねばならぬなどと、その心痛がお分かりにならぬのか!?」
「はい?」
泣きじゃくって止めてくる韓衆に、蒙兄弟は目をぱちくりした。元々この話を持ってきたのはおまえなのに、なぜ……という感じだ。
扶蘇も、涙を拭ってはっきりと言った。
「おまえたちの天下を思う心は嬉しいが、そのために力で父を倒すことはできぬ。それでは、結局力で天下を押さえつける父と同じになってしまう。
私は、そのような悪しき道は歩まぬ!」
それから扶蘇は、韓衆の肩を抱いて優しく言った。
「ああ、韓衆殿……私のために泣いてくれてありがとう。あんな父の子でもそのように思ってくれたこと、とても嬉しい。
大丈夫だ、私は後ろ暗い手に逃げたりしない。
かといって、国を憂う皆のことを裏切ることもできぬ。何とか父を動かせるよう、子として考えてみよう」
そう言われると、蒙兄弟もこれ以上強くは言えない。
結局扶蘇を決起させるには至らぬまま、三人は扶蘇の館を後にした。
とはいえ、扶蘇も何もしない訳ではなかった。
将軍たちの求める強硬なやり方は断りつつ、忠孝の道を説き今の国を憂う儒者たちに相談し、別の計画を立てていた。
「君たちの言う通り、父を放置してはおけない。
きちんと筋道を通しつつ、父の目を覚まさせて隠居させてみせる!」
扶蘇は計画の詳細を韓衆や将軍たちに語らなかったが、この素晴らしい人の考えることだから間違いないだろうと韓衆は思った。
だから、計画は大丈夫かと何度も聞いてくる徐福に、万事順調ですと答えた。
だって、別に武力でやらなくてもいいじゃないか。他の方法でも、結果的に始皇帝の立場が変わって天下の危機が防げるなら同じじゃないか。
そのきれいで素晴らしい道を守れるなら、ちょっとした嘘は苦ではなかった。
そしてついに始皇帝が帰還する日、計画は実行に移された。
咸陽の城門をくぐろうとする始皇帝の行列の前に立ちはだかる、扶蘇。そして後ろに並ぶ、将閭たち他の公子数名と大勢の儒者たち。
その全員の目は、決意に満ちていた。
「父上、天下を巡り、天下の現状をご覧になられましたか!」
扶蘇は、姿の見えない父に向かって正々堂々と呼びかける。
「君子たるもの、平和な時なればこそ民の生活を第一に考え、国を礎から強く豊かにすべきなのです。しかし父上は、形の立派さや際限のない理想を求めるばかりでそれを果たしていない!
今ここにいる者たち、そして天下の多くがそれを憂いているのです!
父上、お仕事をしたくなくて贅沢がしたいなら、もう後は私たちに任せて隠居なさいませ!そして国単位ではなく、お一人でそういう暮らしをなさると良いでしょう!」
他の公子たちも、呼びかける。
「お父上、我々はお父上のお作りになられたこの国の将来を案じているのです!」
「決して、お父上を害そうと思ってのことではありません。その証に、我々は一兵たりとも連れていません……」
儒者たちも、うやうやしく頭を下げ、論語や有名な故事、ことわざを持ち出して諭そうとする。
「恐れ多いことですが、主が無道でもそれを諌める者あらば国は失われずと申します。我らはその責を果たすべく……」
「子曰く、人の上に立つ者は……」
まさかの、武力を使わない正面突破を試みているのである。
それは人を傷つけることを好まぬ、どこまでも清らかで優しい扶蘇らしいやり方であった。
しかし、それが始皇帝に通じるかは別の話である。
説得が始まってしばらくして、いきなり行列を守っていた兵士たちが動き、ろくな武装もない扶蘇たちを全員捕らえてどかしてしまった。
そして行列は、何事もなかったように咸陽に入った。
どこまでも自分は正しいと思っている始皇帝が、こんな説得に耳を貸す訳がなかったのである。
(一体何やってるんだ韓衆は!?この阿呆おおぉーーーっ!!!)
平然としている始皇帝の隣で、侯生は心の中で叫んでいた。
全員が必死になって考えて準備し、事情を知らぬ者たちも国を憂いて参加した、千載一遇の機会はあっけなく去った。
待っているのは、何も変えられなかった薄氷の日々であった。




