(10)
ついに、徐福の出航の日が訪れます。
海に出る徐福、陸に残された者たちは、それぞれに何を思い、これから何をすることになるのでしょうか。
次回から、ようやく舞台が徐福の言う仙人の島に移り、ゾンビっぽくなってきます。
青空の下で、青い波が打ち寄せる。
沖から岸に向かって寄せているのに、今日の波は岸から沖へ何かを引き寄せるように、手招きしているように見えた。
陸から沖に向かう風が、招かれる者の背を押す。
今日は、徐福の出航の日であった。
きらびやかに飾り付けられた大船団が、今にも港から出て行こうとしていた。
威風堂々とした佇まいの大型船から、ひらひらと飾り布がたなびく。それはまるで、陸地にさよならと手を振っているようだった。
船上からも港からも、多くの人が手を振り合っていた。
いつまでになるか分からぬ別れを惜しみ、帰れるか分からぬ航海の無事を祈って。
人の頂に立つ始皇帝とて、それは同じだ。
始皇帝は、目の前に立つ男に、喉を詰まらせながら声をかけた。
「……行くのか」
声をかけられた徐福は、少し寂しそうに微笑んだ。
「不老不死をお求めならば、行かねばなりますまい」
それが、徐福の使命だから。
始皇帝が、その支配を永遠にするために、徐福に課した使命。そして徐福自身が、命を懸けても探求したいと望み、自らに課した使命。
そのために、徐福は自ら旅立とうとしている。
「いつ帰って来られるか、目処は立たぬか?」
始皇帝が名残惜しげに問うと、徐福はすまなさそうに目を伏せた。
「さあ、全ては仙人のお気持ち次第ですからな。こちらが期限を定めても、それに従ってくれるような存在ではございませぬ。
それに……」
徐福は一度言葉を切って、海の彼方を眺めた。
「仙人は自在に空を舞い、広くこの世を見ておいでです。無論、不老不死の薬を求める人物が、そうなるに足る人物であるかも。
今この瞬間も、おそらく我々は見られているでしょう」
一段低い声で発せられた最後の一言に、始皇帝はぎくりとした。
その動揺を見透かしたように、徐福はにわかに険しい顔になって言う。
「つきましては、陛下も地上で徳を積むことを怠りませぬよう。
いくら我々が機嫌を取ろうとしても、陛下ご自身が仙人にふさわしくないと判断されてしまえばそれまででございます。
そうなれば、これらの貢物も私も、全て海の泡と散り果てるでしょう。
陛下……どうか、より泰平な世のために力をお尽くしください」
そう言われては、始皇帝はうなずくしかない。
それに元々、始皇帝は揺るがぬ自らの世のために力を尽くす気でいるのだ。
「分かった、しかと肝に命じておこう!」
「そう言っていただけると、私も安心でございます」
徐福はほがらかな顔になって、一度深々と頭を下げた。
その頭を再び上げた時、徐福の目には初めて会った時と同じような、ごうごうと勢いよく燃え上がる情熱の炎が宿っていた。
「では、行ってまいります!!」
天にも響くような声を張り上げて出航を宣言すると、徐福は力強い足取りで船に乗り移った。
船員の威勢のいい声が、別れの空気を切り裂く。
「帆を上げろ!」
きらびやかな大船の上で、白い帆が次々と上がり、吹き付ける風を受けてぱんと張りつめた。貢物の重さで深く沈みこんだ、要塞のように大きな船がゴトリと動き出す。
その光景を、始皇帝は目に焼き付けるように見つめ続けていた。
(必ず帰って来るのだぞ、徐福……!)
離れていく船を見ながら、始皇帝は心の一部が海の彼方に持っていかれるような空虚感に襲われた。
しかしそれを誰にも見せることはなく、ただ巨木のように地を踏みしめて見送っていた。
始皇帝の後ろでは、数多の臣下と方士たちが同じように船出を見送っていた。
臣下の先頭にいるのは、李斯と尉繚だ。
李斯は一心に祈るように、遠ざかっていく船団を見ている。一方、尉繚はあからさまな嫌悪の視線を、自分たちの隣にいる者に投げかけている。
(方士どもめ……厄介な事になったな)
尉繚が見ているのは、盧生と侯生である。
いや、それだけではない。この二人を先頭に、百人ほどの方士がずらりと並んでいる。
始皇帝に、神仙に気に入られる生活を指導するとの名目で、徐福が推薦していったのだ。その中には、尉繚が信用できないとして追い返した者がかなり混じっている。
徐福が、試してもいないのに追い返しては何も手に入らないと言って始皇帝をたらしこみ、登用させたのだ。
始皇帝には、布一枚で徐福を登用した負い目がある。
そう言われては断る事もできず、芋づる式にかつて追い返した者をも登用するはめになった。
何より、始皇帝は不老不死の薬が何としても欲しいのだ。万が一徐福が失敗した時のために、他にも知っている方士がいれば心強い。
その結果が、この訳の分からない方士の群れだ。
(ほら見ろ、言わぬ事ではない!
一度でもたがを外したら、こうなる事は分かり切っていた!)
もっとも、徐福の仙紅布を偽の証だと断定できなかった尉繚にも、責任はある。
だから余計に、悔しくてたまらないのだ。
だが、これから尉繚が彼らの偽りを暴くことは困難を極めるだろう。
今回登用された方士たちは、真実を隠すのが上手い嘘の塊のような奴らだ。そいつらがめいめい好き勝手にやり始めたら、限られた調査の手はそちらに取られてしまい、盧生や侯生……ましてや徐福にはしばらく手が出せまい。
それに、徐福は海に出てしまったのだ。
もし尉繚の読み通りどこかに植民して戻ってこないなら、これで終わりだ。
しかし、己の読みに反して、何となくこれでは終わらないような予感がある。
盧生と侯生は、まだ何かを企んでいる。あの二人の目は、置き去りにされたことにも気づかず師を盲信している目ではない。
その予想通り、二人は心の中で次の計画を練っていた。
(これだけ囮がいれば、しばらく我らは安全になるだろう。
その間に、徐福殿のための研究施設を確保する……!)
盧生と侯生の役目は、徐福が不老不死の元となる血を持ち帰ってきた時に、すぐ研究を始められる体制を整えておくことだ。
それも、始皇帝や尉繚に気づかれないように。
これはある意味、海に出る徐福よりも厳しい戦いになるかもしれない。
だが、二人も仙道を語って人をだます事に関しては歴戦の強者なのだ。徐福とは用いる武器が違うが、これだけ有利な舞台を用意してもらえば、やり遂げる自信はある。
二人と尉繚の視線が、陸での戦いの始まりを告げるように火花を散らした。
一方、海に出た徐福は、既に勝利の笑みであった。
「ククク……クハハハハ!
これで、不老不死は半分手に入ったようなものだ!」
船に乗ったほとんどの者が不安そうな、あるいは悲痛な顔をしているのに対し、徐福だけは目にらんらんと光を湛えて笑っていた。
ほとんどの者は、自分たちが明日をも知れぬ冒険に出たと思っている。
いとも簡単に人の命を飲み込む海で、道なき道を行かねばならないと思っている。
だが、徐福にとっては、そうではない。
徐福は、木と貝殻をつなぎ合わせたような奇妙な海図を取り出した。
(道は、見えにくいだけで必ずある。気候によって塞がってしまう事もあるが、条件さえそろえば必ず開く。
後はこの海図に従い、島に向かうだけだ!)
それはかつて徐福が、目的の島で手に入れた、島への海図だ。
しかも徐福はそれを奪って手に入れたのではない……島の者から受け取ったのだ。
これが、何を意味するか……つまり徐福は、島の者から再び訪れる事を許されているのだ。もちろん、島の者が望む貢物を届けるという条件付きで。
そして徐福は今、貢物を持って島へ向かっている。
(これで島の者も、俺の望みを聞かざるを得まい!
まさかあいつらも、俺が本当にこれだけの貢物を揃えてくるとは思っていまい。皇帝とは、誠に便利なものだ!
……まあ、これで不老不死の元が手に入るのだから、皇帝も金を出した甲斐があるというものだ)
徐福にとって、この研究の最難関は、この莫大な貢物を用意することだった。これは皇帝と言う巨大な権力者の力がなければ、ほぼ不可能に近い。
それを差し出して血を手に入れることができれば、その後の研究の道筋はある程度目星がついている。
そのために必要な資料も、貢物と引き替えに手に入るはずだ。
もっとも、土壇場になって島の者がもっと貢物をよこせと渋る可能性はあるが……。
(ま、そうなったら力ずくで手に入れるまでだ。
そのための、この大人数でもある)
徐福は、残忍な笑みを浮かべた。
もはや己の研究を阻むものはない。阻むものがあれば、始皇帝から与えられた力でもって蹴散らすのみ。
この情熱を止められる者は、もう誰もいない。
強く順調に吹き付ける風を受けて、船はどんどん陸地から遠ざかっていく。
まだ見ぬ可能性を孕みながら手招きし、人々をいとも簡単に死へと誘う海の彼方へ、船団は吸い込まれていく。
これから先がどうなるのかは、誰も知らない。
しかしそれは確かに、新たな時代の火種となる記念すべき船出であった。




