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長い研究の中で、助手であった石生もいっぱしの研究者に成長していました。
しかし、現場の仕事をよく知っているからといって全体を見て管理できるとは限りません。いろいろ進言できるようになっても、やはり徐福とは考えの深さが違います。
そして、病を使った実験は進みますが……。
実験は、再び急速に進み始めた。
尉繚の襲撃後に管理の人手が不足したため空きが多くなっていた独房に、地上から運び込まれた病人が入れられていく。
そして、彼らには漏れなく人食いの病毒が与えられる。
「破傷風に狂犬病、それから中風(脳卒中)と思しき者もいるか。
はてさて、どうなるか……」
暗い独房で奇声を上げ痙攣でのたうち回る病人たちに、徐福は期待を込めた視線を向けていた。
現在は主に、脳神経を侵す病の患者が集められている。
だが、それ以外にも必要が無い訳ではない。
「どうであろう、脳以外ではどこが優先されると思う?」
徐福が問うと、石生は少し考えて答える。
「そうですね……生きるのに必要ではなく死んでいる状態で必要となると、考えるのが難しいです。
消去法になりますが、消化器のように血流を必要としなくなるなら血管や心臓などの循環系が必要なくなるかと。
……基本は、脳と感覚器と皮膚筋肉があればいいのでは」
石生は、長い研究生活の中ですっかり徐福の地下での右腕となっていた。
元から医学薬学の基礎があり、その思考は方士であった盧生や侯生よりずっと論理的だ。徐福の求める答えを、必要とされる考え方に基づいて出してくれる。
当初は死刑を免れるために始めたこの仕事だが、研究という仕事そのものが石生の気質に合っていたようだ。
そして徐福という優れた研究者を師とすることで、才能が大きく花開いた。
石生自身はそのことに深く感謝し、本気で徐福の研究に身を捧げようと思っている。
このような忠実な部下と有能な工作部隊を率いて、徐福はますます研究を加速させる。
「考えて体を動かすという単純な機能でいえば、それで十分か。それから、できるだけ生前の姿を保つのが望ましいが……これも体表で十分だな。
ただし、臓器単体で生前と同じかそれ以上の働きが得られるかは検証せねば。
もしそれだけの働きを得るのに栄養や血流が必要ならば、それらを司る臓器もどのみち必要になる。
……何にしても、まずは脳機能の検証だな」
これからの道筋を一気に考えて、徐福はもったいなさそうに坑道を眺めた。
「全く、やらねばならなぬことは山ほどあると言うに……一度にできる事が限られているのが歯がゆい限りだな。
独房はもっと増やせそうだが、人手はそう簡単にいかぬ」
徐福としてはやるべき事が分かったのだからできるだけ多くを並行して進めたかった。しかし、現実はそうはいかない。
この研究は危険であり、厳重な管理が求められる。人手が限られた中で無理に仕事量を増やすと、管理がおろそかになりかねない。
徐福には、その誘惑に抗って安全を重視する理性があった。
だが、石生は待ちきれない様子で呟く。
「工作部隊の方々は、元死刑囚よりずっと仕事に忠実で効率もいいのでしょう?
であれば、医薬の専門家以外でも教育してここに投入すればもっと手広くやれて時間の短縮になるのでは……」
徐福は、その魅惑的な進言に首を横に振った。
「だめだ、雑用の人手は増えるが肝心な部分を担える人材ではない。
実験は作業をして終わりではない。被験者を細かく観察して結果を判定、考察せねばならん。それができる人間が少なく全てを見ていられなくなれば、実験そのものの意味がなくなる。
安全管理も然り。何がどう危険なのか理解し想像できなければ、万が一の時に役に立たんどころか足手まといだ」
徐福は、独房で死にかけている病人を見つめて言う。
「新たな病をかけ合わせた者は、そのつど結果判定と解剖が必要だ。
そこで我々と同じ精度で結果を判断できる者が、どれだけいると思う?」
そう問われると、石生は黙るしかない。
感染させて人食い死体を作るだけなら手順に従えば誰でもできるが、結果判定はそういう訳にいかない。
材料と処方を与えて道具の使い方を教えれば調剤はたいていの人にできるが、病気を診るのには専門の着眼点が必要なのと同じだ。
そして、その専門の着眼点を持つ者は多くない。
それには研究の目的への本当の意味での理解と、専門の知識と経験が必要だから。
そういう人間を育てるのは、一朝一夕にはできない。
もしそういう人間が少ないまま作業ができるだけの人間を増やして実験の規模を大きくすれば、結果の判定が追いつかなくなるか精度が落ちるのは目に見えている。
それでは、だめなのだ。
だから試したいことと材料がたくさんあっても、欲するまま実験を始める訳にいかない。
事情を理解してしょげかえる石生に、徐福は苦笑しながら言った。
「心配するな、すぐそんな事を考えることもできんくらい忙しくなる。
最近感染させた奴らが、もうすぐ次々と人食い死体になるだろう。我々はそのつど、そいつらの能力を見て解剖せねばならん。
嫌と言うほど仕事が増えるぞ」
ここで徐福は、励ますように石生の肩を叩く。
「おまえを始め一部にしかできぬ仕事だ。頼んだぞ!」
「はい!」
石生が、嬉しそうにうなずく。
やれる事やりたい事についていくらでも思いを馳せられる暇な時間は、病人たちの命とともに終わりつつあった。
翌日から、地下は目が回るような忙しさになった。
地上から運び込まれ人食いの病毒を与えられた病人が死に始め、その対応と続けて行う実験にてんてこ舞いになった。
死んだら拘束して人食い死体になるか見るのは、これまで通りだ。
しかし人食いの病毒を与えてから元の病で死ぬまでが短い場合は、人食いの病毒が十分回っていないのか起き上がるまでの時間にムラがある。
そうなると、どの検体からどんな実験を行うかの順番が決めづらい。
ようやく起き上がると、これまで通りそれが人食い死体であるかを確認する。それから、知能の判定を行う。
鉄格子から少し離れた所に人肉の入った籠を置き、牢の中に置いてある鉤つき棒を使って取れるかどうか見るのだ。
といっても、結果はほぼ同じだった。
ほとんどの検体は棒に興味を示さず、ひたすら鉄格子に体をぶつける。
これは、これまでの一般的な人食い死体と同じく知能が失せている反応だ。
ただし、外から棒を突き入れてやるとそれを掴む者はあった。もっとも、掴んだところで無意味に振り回すばかりで有効に使えはしないが。
「……やはり、道具の使い方は忘れてしまっているようです」
「ううむ、忘れたのか考えることができぬのかは分からぬが……これでは生前とは程遠い。人としての生活など夢のまた夢だ。
……もしかしたら、前に目をつけたヤツもこの程度だったかもしれぬな」
いくら期待を持って実験を行っても、結果がついてくるとは限らない。
いや、そもそも期待そのものが大きすぎたのかもしれない。
前に知能を持ったかもしれないと思った検体も、やった事はただ格子に差し込まれた棒を掴んで突きだしただけだ。
そこに何らかの明確な目的や意志があったかは、分からない。
徐福も石生も少し出鼻をくじかれて落胆したが……この程度の停滞は慣れたものだ。
思えば人食い死体を作るまでにも、多くの失敗とつまらない結果を生み出したものだ。研究、特に未知への探求などそんなものだ。
輝かしい結果は、砂山の中から見つけた一粒の金のようなもの。
それが分かっているから、焦って今の結果をぞんざいに扱ったりしない。
それに、よく見ていると少しは違いがある。
外から入れた棒を積極的に掴む個体と、そうでない個体がいるのだ。そこには、わずかだが知能か意志の差が見てとれた。
ただし、この時点ではそれを起こす原因の傾向は分からない。
徐福たちはただ、少し変わった挙動を示した検体の元の病を記録するのみだった。
傾向が分かったのは、解剖によってだ。
わずかな変化を起こした人食い死体とそうでない者を何体も解剖し頭の中をのぞいてみることで、大まかな傾向が分かった。
「これは……脳が一部溶けて小さくなっています」
頭蓋骨を開いて見てみると、病によっては目に見える病変があった。脳の一部が壊死していたり、全体が委縮していたり。
それがある者は、知能の変化を見せない。
「どうも、元の病で脳そのものが破壊されると知能の改善は望めぬな。
まあ考えてみれば当たり前か。臓器そのものが壊れてしまったら、機能を果たせる道理などない。
よって、臓器そのものを目に見えて破壊する病は除外すべきだな」
「そうですね。ですが、このような変化を起こす病の種類は分かりました。
さっそく記録して、病の研究としての報告書を出しましょう」
本来の目的を果たせなくても、得られるものはある。
徐福たちはこの解剖で得た結果を、侯生と工作部隊の名で病に関する研究報告として提出した。
これもまた、少しは表に出せる功績となる。
それに、失敗の原因が分かれば成功へと至る道を絞っていくことができる。
「こうなると、必要なのは毒が溜まってしかし組織自体の崩壊を起こさぬ程度の病変か。思えば天然痘の発疹もそのようなものだった」
「ええ、ですが人食いへの変化を起こした時、発疹はなくなっていました。
感染の順序や、元の病の進み具合によって違った変化が起こるかもしれません。今回のは、元の病が進みすぎて人食いの病毒が作用する余地がなかったのかも」
新しい知見が得られるたび、徐福と石生たちは活発に議論を交わす。そうすると、次にやりたいことがどんどん出てくる。
徐福は、解剖の汚れを落としながら呟いた。
「人食いの病として完成された病毒を用いるだけではなく、面倒だが人食いの病を作る過程に病を重ねる方を試したいものだな。
となると、また肝の病と天然痘が必要だが……」
どれもこれも、必要なのは病ばかりだ。
しかし、徐福はその点あまり心配していなかった。全国から人が集まる咸陽と驪山陵があれば、望む病など簡単に手に入るであろうから。
……それが転じてどれだけ危険なことか、徐福はまだ分かっていなかった。




