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英雄譚

作者: 桜椛

 英雄――――それは、あらゆる困難から、弱者を救いだす強者のこと。

       

 

 常に羨望の目に晒される彼らは、どれだけ無茶だと思えるような状況でも、必ずその期待に答え続ける。

 例え更なる強者によって打ちひしがれようとも、必ず立ちあがり悪を滅する。



 そんな彼たちの活躍を、憧憬のまなざしで食いつく者がいた。

 目を輝かせ、お決まりのポーズを決め、いつか彼みたいになると決意を語る。そんな少年の隣で、同じように気分を高揚させている少女は、飽きもせず毎度同じ言葉を紡ぐ。



「────────」



 そして少年も飽きもせず毎度同じ言葉を返す。



「うん!僕に任せて!」




 恐る者なぞ知らない。苦境逆境何のその。

 実績も功績も名声も無いが、唯1人の女傑ヒロインがいることで、少年はこの瞬間は確かに、英雄ヒーローでいられた。








 しかし、それも昔の話である。今は見る影もない。

 今ここで、散歩中の犬に吠えられおどろおどろしく深々と頭を下げている彼が、よもや勢い良く任せてと胸を張っていた人物と、同一とは思えなだろう。

 しかし悲しきかな、現実はこれだ。背を丸め鞄を命綱かのようにしがみつき、隈が付いた双眸を右往左往させている彼が、嘗ての少年だ。



 あれから10年。少年は青年へ。高校一年生になっていた。

 そう、高校一年生なのである。

 決して電柱に顔面をぶつけたり、落ちているゴミに怯えているような年ではない。

 しかし彼は残念なことにそういった人種なのだ。

 誰がどう見ても鈍重で、そして覇気がない。薄幸そうで今にも倒れ込むんじゃないかと思われてもおかしくはない。


 しかし、そんな彼でも今まで生きてきているし、生きているからこそ学校へは行く。

 例え彼にとってどんなに辛いものだとしても……




 学校へ着いた彼は、上履きを履こうと靴箱を開ける。

 そこが靴箱ならば、上履きが入っているのが必然で、確かめるまでもない極めて自然的な現象だ。しかしだからこそ彼は困惑していた。



 無いのだ──上履きが。



 おかしい。確かに昨日帰りに入れたはずだ。


 自身の目を疑った少年は、古典的にも両眼を擦ってから再度靴箱中を確認したのである。



 ────無い。



 果たしてここは自分の靴箱なのかと疑った彼は、一度蓋を閉めて、番号が書いてあるシールを確認する。


 『1101』


 確かに自分の番号である。


 学年、クラス、出席番号で形成された4桁の番号。

 もうかれこれ二ヶ月も付き合っているため、間違い用がない。


 誰かが間違えて履いていってしまったのだろうかと考えたが、すぐに頭を振る。

 それならば家から履いてきた靴がなきゃおかしいじゃないか。



 まるで魔法の扉のように、頭の中に上履きを思い描いて靴箱を開ける。


 当然入っているわけが無い。だけどそんな馬鹿馬鹿しいと思いながらも、それに期待する他無かったのも、彼の中では事実。



 だからこそ、今更ながらに気付いた。


 隠された────



 ボサボサと纏まりがない上に、寝癖でしっちゃかめっちゃかになっている髪の毛を助長するかのように、わしわしと掻き始める。


 どうしよう。何で?誰が?靴下のまま今日一日過ごさなきゃいけないの?


 そんな考えが、彼の頭の中をぐるぐると廻っていた。


 コミュニケート能力に幾らか……大分欠ける彼は、途切れることなく来る同級生に、助言を求めることも勧められることもできず、ただ立ち尽くしていた。


 来る人来る人、彼を見る目は4つの反応に分かれた。


 1つ目は邪魔だこいつ、という反応。

 2つ目は何してんだろう、という反応。

 3つ目は最早無関心、という反応。



 そして4つ目は────懸念、という反応。


 しかしそのどれもが彼を無視しそのまま自分の靴を履き、自分の教室へ向かった。





 そんな視線にすら気付かず、ただ意味のない堂々巡りを繰り返していた。

 やがてHRの始まりを告げるチャイムが鳴り、彼は慌てだした。早く行かなきゃ、だけど上履きが、というジレンマに陥っていた。



「おい、何やってんだ。早く教室行けー」



 突然掛けられた声に肩をびくつかせる。声が聞こえた方へ顔をやると、隣のクラスの担任が出席簿を片手に階段を上ろうとしていた。

 待って――という言葉を吐く前に、先生は行ってしまった。

 絶望感が彼を襲う。もうどうすることもできない。帰る気にもなれない。そう思った彼は、ただそこに(うずくま)った。

 




 もうどれだけの時間を過ごしただろうか。何度チャイムをきいただろうか。何で靴が無いのだろうか。解決策も見出さず、探すこともしようとせず、ただ呆けているだけの彼だった。



 すると、階段からげらげらと下卑た笑いを響かせながら、ある集団が降りてくる。彼はその声を聞いて怒りとも消沈とも恐怖ともいった感情でただ震えた。

 冷や汗が背中を伝う。夏が近いと言うのに、酷く寒い。嫌だ、来るな、来るな、来るな、来るな!



「あっれ~?そんなとこで何してんのかな~サボりとはいけない子ですねぇ~」



 わざとらしい喋り方で、べたつくような笑みでこちらへ近づいてくる男。こめかみを刈り込み、耳にはピアスをいくつも付け、臭い息をぶわぁーと吐き出す。



「どうしたのかなぁ~?いつまでも外履きのままいないでさぁ、上履きに履き替えなよ~」




 その言葉に男は笑い、後ろに連れていた数名の男たちも、共鳴するように笑いを挙げる。

 うるさい、黙れ、履きたくても履けないんだよ。その言葉も、吐くことを赦されず、ただ噛みしめることしかできない。



「そう言えば、なんだかうちの教室のゴミ箱の中に、誰かの上履きが入っていたような~いないような~……」



 ニィッと微かに黄ばんだ歯を見せる男。そこで、彼は初めて気付く。今更ながらに初めて気づく。こいつが、こいつがやったのかと。

 彼はすぐに靴を脱ぎ、勢いよく立ちあがって教室へ向かおうとした。しかし、何かに躓いて思い切り倒れてしまう。



「おいおいおいおい。大丈夫かよ~気をつけろよ」


 

 お前が、足を、掛けたんだろうが。


 勿論言えるはずも無く、ただ睨むことしかできなかった。



「あ?何だその目は」



 余計凄まれ、彼はそのまま階段を上った。








 靴下のまま走る廊下は酷く冷たい。接地する度に衝撃が直に伝わり足が痛くなるが、そんなことを気にしている場合ではない。靴が、上履きがゴミ箱に。


 勢いよく教室の扉を開ける。今は休み時間で人はまばらだったが、一気に視線が集まり尻込みしてしまう。しかし、奥歯をぐっと噛みしめて彼はゴミ箱へ走り寄った。

 

 ペットボトルや缶用のゴミ箱、燃えるごみ用のゴミ箱、燃えないようのゴミ箱。それらを一見しても上履きらしきものは見当たらない。

 何で?ゴミ箱にあるはずじゃ?嘘を吐かれた?分からない。彼にそんな事分かるはずが無い。


 だから、気が引けたが――――ゴミ箱の中へ手を突っ込んだ。



 突然の奇行に息を飲むクラスの面々。まるでぼろぼろに汚い犬のよう。ゴミを漁る姿などみすぼらしい。

 しかしいくらクラスの人たちから変に思われようと、彼はその手を止めない。上履きを見つけるまでは。

 鼻をかんだであろうティッシュ、びりびりに破られたプリント。お菓子の包装紙、ベタついた何か。呑みかけのペットボトルなどが手について酷く気持ちが悪い。

 どこ、どこ、どこにあるの。



 教室の後ろの扉が開けられたと同時、彼の手に固い感触が触れた。



「なっ――何し――」



 彼がそれを取り出すのと、彼女が呆れ顔で嘆息して教室を出て行くのは、同時だった。


 ボロボロの上履き。ゴミで汚れたそれは、匂いもひどくとても履けたものではない。しかし、これが無いことには学校で過ごすのは少々酷だ。そこで彼は、おもむろに立ちあがりトイレヘ掛け込んだ。


 蛇口を思い切りひねる。水が勢いよく溢れ、びちゃびちゃと跳ねて制服を濡らしていく。少しだけ勢いを緩め、そこで上履きを濡らしにかかる。

 水を吸い重くなり、灰色になった上履き。匂いは未だに取れない。今日は持って帰って、改めて洗わなきゃいけないと思った。




 ついでに手を洗い、トイレットペーパーで上履きを拭く。それだけでは当然乾くはずが無いが、仕方ないためぐちょぐちょの上履きを履くことにした。

 歩くたびに、水しぶきが舞う。まるで雨の中歩く感じがして、不思議な気分がした。







 彼をとりまく視線が、より一層侮蔑に塗れたものになった。それも無理からぬことだろう。なんせ、先ほどまで必死に、ゴミ箱を漁っていたのだから。

 しかし、彼はそれに気付かない。周りなど見えていないのだ。そんな中、3時間目の休み時間、またあいつが現われた。



 ピアスの彼は、下品な顔で彼に近づくと、



「あぁ~上履き見つかったんだね~よかったね~。にしても一体誰があんな酷いことしたんだろうね~」



 げらげらと、喧しい笑いを挙げる男。クラスの空気が張り詰めたものへ変わる。

 お前がやったんだろ。お前が。



「だ・か・らぁ~!その目は何だってんだよおい!」



 人差し指でぐりぐりと、額を何度も何度も強く押される。離してもらおうと、やめてと言いながら男の指を掴む。しかし、男の押す力は増すばかりで、振り払うことなど出来ない。

 口角を挙げながら額を押す男の後ろで、がたんとわざとらしく大きな音を立てながら立ち上がる人物がいた。

 男はその音に、手を止めて振り返る。嬉しそうな顔をして、これまで以上の気持ち悪い笑みを浮かべる。



「これはこれは~早乙女さんじゃありませんか~。どうかな~今日の昼休み。ちゃ~んと持ってきてくれたよね?」



 両のポッケに手を突っ込み、腰を折り曲げて彼女の顔を覗き込む男。彼女は黒く長い髪を揺らしながら、キッと男を睨みつける。

 男は実に愉快げに笑い、彼女の顎を持ちあげた。



「いいねぇ~その顔。実にそそるよ」



 ぺろりと舌舐めずりをする男。ちらと下の真ん中にも、ピアスが見えた。



「離しなさい下郎。けがらわしい手で私に触れるな」



 パンッと威勢よく手で払いのける彼女。男は目を見開き、わなわなと肩を揺らしている。やがて、それは暴力と言う言葉として発現した。

 


「調子に乗るなよ早乙女っ!!てめえ後で覚えてろよ!!」



 男は捨て台詞と共に、早乙女さんの机を蹴り飛ばして教室から出て行った。

 教室にはただ沈黙だけが訪れ、早乙女さんは吐息を漏らしながら、自身の机と椅子を元に戻して、何事もなかったかのように着席した。

 その一瞬、ちらとこちらを見たのは気のせいだろうかと首を傾げる彼であった。





 そして昼休みが訪れる。


 彼は母が作ってくれた弁当を取り出して食べようとしたが、その手を止める。

 なぜなら、早乙女さんがおもむろに立ちあがり教室を出て行ってしまったからだ。

 先ほどのあの男の話、昼休みに『何か』を渡すために、今早乙女さんは出て行ったんだ。

 そしてそれは当然良い話ではないのは、なんとなくわかる。だからこそ、このまま放っておいていいのかどうか悩んだ。

 しかし、自分が行ったところでどうにかなるものでもない。役立たず、返り討ちにあうのが目に見えている。


 ――しかし、――そうだとしても、彼女がどういう目に遭うのかを知っておくのは、大事なことじゃないだろうか。



 なんせ彼女は、彼にとって……



 


 

 解きかけた弁当の袋をそのまま放り、早乙女さんの後を追う。尾行されるのを気取られないために、距離を開けて後を付いていく。

 彼女の足取りはすたすたとピンと背筋が伸びており、これから戦地へ赴く軍人のような気迫を感じた。

 


 着いた先は屋上だった。重苦しい鉄扉を開け、彼女は悠然と中へ入って行った。


 ばれないように少しだけ扉を開け、隙間から様子をうかがうことにした。

 すでにピアスの男は柵へもたれかかり、退屈そうに空を眺めていた。しかし、彼女が来たのを見ると、打って変わって笑顔になりげらげらと笑っている。

 

 何が、一体何を渡すことになっているのか。それを確かめなくては。



「おうおうよ~く来てくれました早乙女さ~ん。それで?持って来てくれたよね~」



 彼女は懐へ手を忍ばすと、小さい茶封筒を取り出した。



「……持って来たわよ。これで、終わりでしょ」



「いやいや、何言ってんの早乙女ちゃん。これからも、お願いしますよ」



 きょとんとした間抜け面で、男は口を尖らせていた。彼女は驚いたような素振りを見せ、何で!と声を荒げた。



「話が違うわ!きっちり10万……これで返したはずよ」



 10万。今、10万と言ったのか。微かに聞こえてくる言葉の中に、そう言った金の音が聞こえた気がした。



「いやいやいやいや、今日、俺のことを睨みつけたことにより、精神的にとてーも傷つけられましたーよって、損害賠償の要求をしまーす」



「なっ!――何を馬鹿なことを言ってるの!」



 怒りを露わに声を挙げている彼女。反論しようとするが、男は両肩を掴んで制止を掛ける。



「まぁまぁまぁまぁ。何もそんな大層な額を請求するつもりはないよ。し・め・て…………100万ってところでどうかな?」



 100万。今度ははっきりと聞こえた。そんな馬鹿な話があるか。たかだか学生にそんな大金請求するなんて。



「そ、そんな額払える訳無いでしょ!!馬鹿も休み休み言いなさいよ!!」



「おいおい、そんなこと言っていいのかよ。お前が、あの花瓶を壊したこと、言いふらしても良いんだぞ?」



 男は早乙女さんの耳元へ口をやり、ペロリと舌舐めずりをする。早乙女さんはそれを気持ち悪がって遠ざけようとするが、その腕を掴まれてしまう。



「い、いやっ!離して!!」



「金が払えないってんなら、この体でもいいんだぜ俺はよ~」



 男は早乙女さんに顔を近づけ、力づくで懐柔しようとしていた。いやがる早乙女さん。このままでは、彼女の身が危ない。

 どうしよう、どうにかしなきゃ。助けなきゃ、誰か、誰かが助けなきゃ。

 しかし、この場には、彼女を助けられる存在など存在し得なかった。唯一人を除いて。

 彼だって、別にそれに気付かなかったわけではない。ただ、彼にとって自分がそんな存在になれるなど思っていなかったからだ。

 それも無理からぬことだろう。どんなに頑張ろうが、彼があの男に敵うはずがないからだ。ひ弱で鈍重な彼が、力も強いあの男に、如何にして勝てると言うのか。

 そういう思いがあったから、彼は目の前の状況をただ見過ごすことしかできなかった。


 

 いいのか、それで、いやダメだ。しかし、勝てるわけが無い。


 

 そんな思いで彼はただ奥歯を噛みしめ、拳を握ることしか――――ガチャ。



 力を込めすぎた。隙間程度しか開けていなかった鉄扉は、勢いよく開け放たれてしまった。彼はそのまま前のめりに倒れ、顔面から着地する。

 それに驚き声を挙げる男と早乙女さん。男は手を離し、訝しむように一歩一歩彼へと近づいていく。



「おいおいおいおい。こ~んなところに何しに来たのかな~?」



 しゃがみこみ、彼の髪の毛をわしづかみにし、グイっと引っ張る。



「まさかお前、今の見てたんじゃないだろうな」



 尚も力を強め、眉間に皺を寄せると、凶悪に凶暴な顔で睨みつけてきた。



「彼を離しなさい!安久!」



 早乙女さんは安久から彼を離そうと手を伸ばすが、その手は見事捕まれ、手首をひねられてしまう。



「い、痛っ……!?は、離して!!」



 彼から離すことは成功したが、これでは先ほどと状況がまるで変わらない。当然誰も望んでいない状況だ。

 目の前で、早乙女さんが傷付けられている。見て見ぬふりをしていいはずが無い。助けなきゃ。でも、恐怖で足が動かない。


 早乙女さんは迫り来る安久に抵抗しようともがきながら、彼に視線を投げかけた。



「た、助けて…………」



 瞬間、彼の脳裏にある情景が浮かんだ。




 

 目を輝かせ、お決まりのポーズを決め、いつか彼みたいになると決意を語る。そんな少年の隣で、同じように気分を高揚させている少女は、飽きもせず毎度同じ言葉を紡ぐ。



「いつか私が困ってる時、助けてね!」



 そして少年も飽きもせず毎度同じ言葉を返す。



「うん!僕に任せて!」





 息が詰まった。全身が震えた。目からとめどなく涙があふれた。


 そうだ、そうじゃないか。昔約束したじゃないか。困ってる時は助ける。例えそれがどんなに無茶だと思えようとも、彼らは、英雄(ヒーロー)はどんな苦境でも覆す。それを、それを目指して憧れていたんじゃないか。





「うぁああああああああああああああああああああああっ!!」





 雄叫びをあげる。自分を鼓舞するために。動かない足を叩いて震えを抑え、力づくで起き上がる。叫びを止めない。学校全体へ響き渡っているそれは、まさに獰猛な獣の咆哮に等しかった。


 彼の突然の奇行に、呆気に取られる二人。それも無理からぬことだ。彼が、ここまで大きな声を発しているところなど、見たこともなければ、想像することも出来なかったからだ。

 しかし、男にとってそれは驚くには値するが、危険視するには当たらない。所詮負け犬の遠吠えだ。こんなもの、軽くひねりつぶせてしまう。


 そう思い男は、()()()()()()()


 その一瞬の気の緩みを、彼は見逃さなかった。





「僕の名前は戦場英雄(いくさばひでお)!!お前みたいな悪人から、早乙女蘭子(さおとめらんこ)を守るヒーローだ!!」





 いや、見てなどはいなかったのだろう。ただ男が緩めたせいで、彼が握りしめた拳が、偶然にも顎へ、当たってしまっただけというだけの話だろう。



 安久は口から血を噴き出しながら白目を剥き、力無くその場へ倒れた。

 肩で息をする。目を何度も瞬かせる。自身の目を疑った少年は、古典的にも両眼を擦ってから再度場を確認する。

 


 ――――倒れている。



 ピアスの男は動くことなく、ただそこへ倒れていた。その隣では、信じられないと言うように目を丸くして唖然としている早乙女さん。

 これは、これは彼がやったのだ。彼が、彼女を救ったのだ。悪という、困難から。



「さ、早乙女さん……僕、ぼ――」



 言葉を紡ぐその途中で、彼は目を丸くし、息を詰まらせていた。何故なら、早乙女さんが涙しながら抱きついて来たからだ。

 鼻を髪の毛先が擽りむずがゆい。それだけでなく、微かに甘い匂いまでし、体にあたる感触は女の子らしい柔らかなものだ。肌の熱がよく伝わる。興奮しているのだろう。酷く熱い。

 


「ちょ、早乙女さん」



「蘭子」



「え?」



 体を圧迫していた感触がやがてなくなる。涙で目が赤い彼女と相対する。

 彼女は嬉しそうに頬も赤らめ、薄く小さな唇を動かした。 



「昔みたいに、蘭子って呼んで。英雄」





 戦場英雄と早乙女蘭子は幼馴染である。

 家が隣と言うこともあり、よくお互いの家で遊んでいた。それは、もう一つの家かのように自然なことだった。

 特に、休日の朝。英雄の家で、大人気の特撮ものをみるのが、2人の間ではお決まりの行事だった。

 お決まりのポーズ、お決まりの展開、お決まりのセリフ。

 子供であった二人には、それが酷く楽しくて、酷く憧れるものだった。よく真似をして皆から注目を浴びていた。

 彼はそれが嬉しかった。常にヒーローになると目指して生きてきた。


 しかし、そんなものいつまでも続くはずが無い。やがて周りは大人になり、ヒーローという存在は偶像でしかない。ヒーローなど存在しえない。そんなことは常識中の常識だった。サンタクロースがいないという事実と同等の常識だ。

 しかし、彼はいつまでもヒーローを信じていた。中学生になっても信じていた彼は、周りから距離を取られいじめを受けていた。

 ヒーロー何ているわけがない。いつまでも夢を見てるんじゃない。

 今まで何度彼に対して発された言葉だろうか。彼女も、早乙女蘭子もそのことに気付いていた。

 ヒーローはいない。テレビだけの存在だと。

 だから、いつまでもヒーローを信じている子供な彼に、正直辟易している部分があったのも事実。だから、彼とは極力関わるのを避けた。自分も同じ扱いを受けるのは嫌だと言う思いがあったの尾もそうだが、ヒーローを目指していると言うのなら、ヒーローがいないという事実も自分で気づいて欲しいと。

 周りに頼るだけじゃない。どんな苦境だろうと、自分で乗り越えていせるという気概を見せて欲しかった。

 そういった、期待の念が何処かにあったのだ。

 勿論、全面としてあったわけではない。もう諦めた。彼が傷つかなければそれでいい。そう思っていた。

 幸い、高校は知り合いが少ないため、ヒーローヒーローと口にださなければ、少なくとも虐められることはないだろうと。だから安心していた。

 しかし、何処にでもそういった奴に目をつける奴がいる。それが安久だ。

 素行不良の安久は、この学校長の息子だ。そのため、どんなに悪さをしようが生徒はおろか、教師すら注意をすることを憚られた。

 つまり、黙認しているのである。悪を悪とし、見て見ぬふりだ。

 言い換えれば、彼の独裁政治が成り立ってしまっていたのだ。高校入学二カ月足らず。誰もがその事実を認識していた。

 

 



 彼は蘭子から離れると、倒れている男へ駆け寄り、懐をまさぐった。目的は茶封筒。さきほど、蘭子が手渡した金だ。

 彼はそれを蘭子へ渡すと、それで?と口を開いた。



「さ――蘭子。あの男に何されてたの?」


 

 蘭子はお礼を言ってそれを受け取ると、心苦しそうに、顔を俯かせて説明を始めた。



「……実はね、……ほら、校長室の前にさ、やたらにでかい花瓶があるの知ってる?」



 一階校長室。木の扉のその前には、みるからに高そうな花瓶があるのである。それは校長が用意した自前の花瓶で、お気に入りだということだ。

 それで一体それがどうしたと言うのだろうか。



「私ね、その花瓶を割っちゃって……」



「えっ!?か、花瓶を?」



 思わず素っ頓狂な声を挙げてしまう。蘭子は慌てながら彼の口を塞ぐ。



「静かに……!誰かに聞かれてたらまずいでしょ……」



 しーっと指を口に当て、顔を真っ赤にしている。しかし、蘭子だけでなく英雄をまた、顔を真っ赤にしていた。

 息が苦しくなって蘭子の肩を何度も叩く。そうしてようやく気付いたのか、蘭子は息を詰まらせ手を離した。



「……私それで怖くなちゃって、思わず逃げ出しちゃったのね……だけど、それがアイツにばれちゃって」



 蘭子はちらと倒れている安久を睨みつけた。

 やがて目を閉じ長く息を吐くと、それでねと言って話を続ける。微かに風が吹く。彼女の黒く長い髪が、日に当たり艶やかに煌めいている。

 英雄も一呼吸置いて、背筋を正した。



「見ていたんだってさ、私が逃げ出すところを……そこでね、『父さんに行って欲しくなかったら、俺に金を貢げ』って言われたの」



「そ、それが10万とか100万って話に……?」



 腕を組んだ蘭子は、呆然とした感じで英雄を視界にとらえた。



「あら、聞いていたんだ」



「う、うん……」



「そう……そんな馬鹿な話無いわよね。殺してやろうかと思ったくらいだわ」



「こ、っ……そ、それは駄目だよ!」



 自嘲気味に笑った蘭子は、髪の毛を耳に掛けて鼻で笑った。



「当たり前よ、殺人犯になるくらいなら、素直に悪い子として捕まる方がマシだわ」



「そ、それって……」



 喉を微かに鳴らした蘭子は、今度は何かが吹っ切れたかのように笑い、



「謝ってくるわ。これで終わりにさせる。元よりそうすれば済んだことだしね」



 と言って帰――――



「だけど、これくらいはいいよね?」



 英雄へウィンクをした蘭子は、倒れている安久の下腹部を、思い切り蹴って見せた。それを見て青ざめる英雄。

 微かにうめき声を上げる安久だったが、未だに目覚めない。本当にこのまま目覚めないかもしれないと言う危惧があったかと言えば分からない。


 しかし、彼女が笑っているなら、それでいい。全てを擲とうが、彼女が笑っているなら――――

 







 後日、早乙女蘭子は正直に校長へ謝りに行った。

 黙って逃げたことに対して校長は酷く腹を立てたそうだが、自分の息子がその逃げた子から金をたかっていたという事実を知って、そっちを強く叱ったそうだ。

 結果早乙女蘭子は、これから気をつけると言う話で決着した。




 そして、実はそれ以上に語るべき話があるのである。



 戦場英雄は、クラスからあまり相手をされなかった。それは彼が暗いと言う事実もそうだが、彼に関わると、自分も安久のいじめの対象に周ってしまうのではなかろうかと言う危惧があったからだ。

 しかし、その戦場英雄が、安久を一撃で倒したことから、安久に対する態度が変わり、誰もがあいつに悪さをしてのさばらせておくなという空気になっていた。



 しかし、語るべきところはもっと違うところだろう。それは、戦場英雄を見る目が明らかに変わったということだ。



 誰もが逆らえなかった安久に手を挙げた。それも一撃で、と来た。彼に対する目が変わるのも必然と言うべきだった。

 それもこれも、彼、戦場英雄が、安久を重要視していなかったからに他ならない。

 彼はいつも俯き自分のことしか見えていなかった。いや、見えないようにさせられてしまった。

 それも全ては、いつまでもヒーローという偶像に固執していたからにほかならないが、逆を言えばだからこそ彼は安久を打ちのめすことに成功した。

 ヒーローという存在を信じつづけたからこそ、手にした栄光だった。





 英雄――――それは、あらゆる困難から、弱者を救いだす強者のこと。


 常に羨望の目に晒される彼らは、どれだけ無茶だと思えるような状況でも、必ずその期待に答え続ける。

 例え更なる強者によって打ちひしがれようとも、必ず立ちあがり悪を滅する。





「僕の名前は戦場英雄(いくさばひでお)!迫り来る悪から、早乙女蘭子(さおとめらんこ)を守る英雄(ヒーロー)だ!!」






――こうして皮肉にも彼は英雄として崇められる事となった。

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