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閑話 ただの一般人、タダノスケの日常

一行で分かる前回のあらすじ


========┌(┌^o^)┐



 ――岡野忠之助(六十歳)の朝は早い。


 鶏が起き出す前に目を覚ますとまずは身支度を整え、身体をほぐす意味をこめて外を軽くジョギング。

 二時間ほどをかけてゆっくり、四十キロほどのジョギングコースを流すのは、元ベイスボーラーだった頃から数十年続く習慣だ。


 線路と並んだ最後の百メートルほどの直線だけは本気で走って身体の調子を確かめるのが常ではあるが、流石にタダノスケももう六十歳。

 心はまだまだ若いつもりではいるが、身体の衰えは隠しきれない。


 昔は悠々と追い抜いていたローカル線の列車に、今は並走するのがやっとだ。

 あるいはそれは、列車の方の速度が上がってきたということなのだろうか。

 タダノスケに列車のことは分からないが、最近の青や赤といった鮮やかな色で彩られた電車は、確かに昔はなかったものだ。


 なんとはなしに隔世の感を覚えながらも、最後の直線を無事に走りきり、軽く歩いて息を整えてから、自宅の庭に戻る。

 ジョギングで身体が温まってきたところで、本格的なトレーニングを始めるのだ。


 何をするにもまず、身体は資本。

 特にタダノスケの仕事を考えると、鈍った身体では怪我どころか命の危険すらある。

 生涯現役を標榜するタダノスケとしては、一日たりともトレーニングを怠る訳にはいかない。


 ただし、今日は大事な仕事の日。

 早朝のトレーニングで疲労しすぎて動けない、となれば、それは本末転倒だ。

 身体を鍛えるよりも、錆びついた筋肉を「起こす」ことに重点を置いて、トレーニングを始める。


 まずは倒立の状態からの腕立て伏せを五百回、それから高さ二メートルほどの鉄棒につまさきだけで逆さにぶら下がり、そこで腹筋と背筋を五百回ずつ行う。

 いつもより回数が少ないため、なんとなく収まりが悪いような気持ちになるが、そこは仕方がない。

 落ち着かない気分を首を振って追い出しながら、屋内に入る。


 玄関に用意している手拭いで軽く汗を拭い、トレーニングルームへ。

 完全防音のその部屋を用意するのはかなりの費用がかかったが、今では無理をしてよかったと思っている。


 そこで行うのは発声練習と動体視力のトレーニング。

 発声練習については室内の気圧を調節して低酸素状態を作り出した上で力の限りに声を出し続けるというごくごく一般的なものだが、動体視力トレーニングには独自の手法を取り入れた。


 当時反抗期だった息子に頭を下げ、二人で一緒に作り上げたトレーニング装置。

 全て手作りではあるが、エアガンを使ったそれなりに大掛かりなものだ。

 息子も家を出てしまった今、親子の絆を思い出させる大切なよすがでもある。


 基本的に、改造されたエアガンから射出されるBB弾を使ってトレーニングは行われる。

 射出されるBB弾の数を数えるトレーニング、BB弾に書かれた数字を読み取るトレーニング、それに、色の違うBB弾をつかみ取るトレーニング。

 どれも一筋縄ではいかないものだが、長年の経験と鍛え抜かれた肉体は、タダノスケの要求に今日もしっかりと応えてくれた。



 全てのトレーニングを終えると、熱いシャワーで汗を流す。

 あまり熱い湯を浴びるのは身体には悪いと言われるが、どうしてもやめられない、タダノスケのささやかな趣味の一つだ。


 着替えを済ませ、居間にいくと、妻のミワコが朝食を作って待っていてくれる。

 彼が仕事を続けられるのも、全てこの妻の支えがあってのことだ。

 心からのありがとうの言葉と共に、二人で食器を並べ、熱い茶を入れ(これだけは結婚当時からずっと、タダノスケの仕事だ)、向かい合って食事を始める。


 夫婦二人だけの静かな食卓だ。

 お互いにあまり大食らいとは言えないし、味わって食べてもすぐに食べ終わる。


 朝食を終えてから出勤前までの時間が、タダノスケにとって一番安らぐ時だった。

 新聞を広げながら、ミワコの他愛ない言葉に耳を傾ける。


「おっと、いかん」


 忘れてはいけないのが、朝のニュース。

 ベイスボール関連のニュースは、彼の朝の楽しみの一つだ。

 海外で華々しく活躍するベイスボールプレイヤーのニュースを、活躍する若者に対する大きな賞賛の想いと、ほんの僅かなほろ苦い想いと共に噛みしめる。


 思い出すのは、数十年も前、まだ学生だった頃の自分。

 かつては彼も期待の高校生ベイスボーラーとしてベイスボールに打ち込み、将来はプロのベイスボールプレイヤーになるのだと心に決めていた。

 金銭的な理由や、自らの才能に対する不信などからその夢は諦めてしまったが、タダノスケはその選択を後悔してはいない。


 全員が全員、日の当たる場所にいられる訳ではない。

 タダノスケのような人間がいるからこそ、彼らはスポットライトを浴びて輝けるのだ。


「……さて」


 そろそろ、準備をしなくてはならない。

 支度をしに立ち上がろうとして、向かいの妻の顔が暗くかげっているのが見えた。

 ……仕事に行く日は、いつもこうだ。


「ミワコ……」


 静かに、声をかける。


 長い、付き合いだ。

 お互いが何を言いたいのか、何を思っているのか、それは手に取るように分かった。


 それでも、ミワコは口を開いた。


「ねぇ、あなた。もう、終わりにはできないの?」

「ミワコ……」


 何度も繰り返したやりとりだ。

 しかしミワコは、今度ばかりは本気のようだった。


「どうして、どうしてあなたが、あんな危険な仕事をしなくてはいけないの?

 あなたの年なら、わざわざ危険な場所に行かなくても……」

「……分かってくれ、ミワコ」


 危険な仕事だというのは、分かっている。

 日の当たらない仕事だということも。


「それでも私は、自分の仕事に誇りを持っている。この身体が動くうちは、最後まで続けたいんだ」

「でも……」


 何か言いたげな妻の視線から逃げるように、


「……もう、時間だ」


 そう言い残して、タダノスケは足早に居間を後にした。





 ――すまん、ミワコ。だが、私は……。


 胸中を渦巻く迷いを、無理矢理に振り払う。


 ここからタダノスケが赴くのは、戦場だ。

 一瞬の油断が、即座に生命の危機に直結する。

 迷いを持って進めるほど、甘い場所ではない。


 全ての支度を整え、タダノスケが玄関へ向かうと、そこには妻、ミワコの姿があった。

 タダノスケは思わず身構えたが、ミワコは優しげに、そして悲しげに微笑んだ。


「……あなた。わたしはもう、あなたを無理に止めようとはしません。

 だから、一つだけ、約束をしてください」


 その真剣な声音に、タダノスケはただ一度、うなずく。

 ミワコの身体がそっと動き、まるで数十年前、恋人同士であった時のように、その小さな頭が、タダノスケの胸に当てられる。



「――どうか、無事に。生きて、この家に、戻ってきてください」



 心の底からタダノスケを案じる言葉。

 その言葉に、タダノスケの心も沸き立つ。


 ――ああ。私はきっと、世界で一等幸せ者だ。


 迷いは、消えた。

 その代わりにその胸には、若き日の情熱が、熱い血潮が、彼の身体に戻ってきたようだった。


「必ず。必ず無事に、戻ってくる。だから、ここで待っていてほしい」

「はい、あなた」


 タダノスケはミワコと抱擁を交わし。

 そうして、タダノスケは、男は旅立つ。


 自らの、戦場へ。

 その使命を、果たすために!




 数時間後、特別な装束と防具とを身に纏い、自らの戦場へと赴いたタダノスケは、死の危険と対面していた。


 立ち尽くすタダノスケに向けて、迫りくる砲弾。


 ――これ、は!?


 長年をこの戦場で過ごしたタダノスケの勘が告げる。

 これをまともに受ければ、自らの命など蝋燭を吹き消すほどたやすく、消し飛ばされると。


 生物としての本能的な恐怖が四肢を動かし、反射によってまぶたが閉じられそうになる。


 ……しかし、それでも彼は逃げない。


 遍く全てを薙ぎ倒す暴虐の化身を正面に見据え、その場に留まったまま、最後の瞬間までそれ(・・)を視線に捉え続ける。


 なぜならそれが、彼の仕事だから。

 命よりも優先しなければならないことが、彼にはあるから。


 ……そして。


 放たれた砲弾は暴風を纏って膨れ上がり、遂には破裂する。

 至近に留まっていたタダノスケの身体にも、とてつもない圧力がかかる。


 ――ぬ、ぐぉおおおおおお!


 だが、耐える。

 両の足を地面にしっかりと踏み締め、噛みしめた唇が切れ、血が流れるのも厭わず、声を殺し、その暴虐の行く末を確かめる。


 もちろん、それは容易なことではない。

 しかし……。


 ――これを堪えられなければ、私は何のために厳しい鍛錬に耐えてきたのか!


 自らの存在意義を懸けたその気合が、彼のポテンシャルを限界以上に引き上げる!


 一秒か、二秒か、あるいはもっと短い時間だったか。


「……ふぅ」


 異変が収まった時、タダノスケは思わず安堵の息を吐いていた。


 ――末恐ろしい。これが、若者の力、か。


 圧倒的な、破壊。

 常識では計れないほどの現象を引き起こしたのは、まだ成人もしていない少年。

 プロベイスボーラーを目指していた頃のタダノスケよりさらに幼い、ほんの子供なのだ。


 ――だが、だからこそ、面白い!


 かつての自分を超える、圧倒的な才能。

 それを目の当たりにして、タダノスケはにんまりとその防具の下の唇をにやりと歪め……。


 ――いや、いかんな。危うく自分の仕事を忘れるところだった。


 そこでようやく自らの本分を思い出し、興奮に上ずる声で、大きく叫んだ。


「――ス、ストラーイク!!」






 ベイスボール界の隠れた至宝と呼ばれる名審判、岡野忠之助。

 生涯現役を掲げる彼は、きっと今日もどこかの球場で、人知れぬ戦いを続けている。

作中一番のしりあすパートは前回終わってしまったので、しばらくは大体こんなノリです

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