1-4.過去
SIDEの使い方は零夜で学びました!
――中学時代のトウヤは、無敵だった。
それは別に、一度も負けなかったとか、一度だって打たれたことがないとか、そういう意味ではない。
ただ、ベイスボールが好きで好きで、それだけでどんな苦しい練習だって耐えられたし、どんなにつらい試合だって楽しむことが出来た。
昨日の自分より今日の自分、今日の自分より明日の自分はもっとベイスボールがうまくなっていると疑いもなく信じていて、それが素晴らしいことだと胸を張って言えた。
それを支えるのはピッチャーにとっての女房役、その抜群のセンスを買われ、最短でチームの正捕手の座に収まった頭脳派キャッチャー、カガミ。
熱くて行動派な人間が多いベイスボーラーにはめずらしいタイプの冷静な人間で、誰に対しても敬語を使うところなどが「変わっている」と敬遠されることもあったが、トウヤは誰よりも彼を信頼していた。
「頭の悪い君をリード出来るのは僕くらいでしょうからね。まあ、僕が君を、日本一のピッチャーにしてあげますよ」
そんな風に上から目線に言い切ったカガミを憎たらしく思うと同時に、最高に頼もしくも思っていたのだ。
トウヤだって、最初からすごいピッチャーであった訳ではない。
むしろ一年、二年の頃は負ける試合の方が多く、何度も悔し涙を漏らしたものだった。
だが、二年生の夏。
仲間たちの倍以上の激しい練習を重ねる中、彼は遂に開眼する。
試合でもなんでもない。
いつもの部活の、いつもの一日千球の投げ込み練習の時、それは起きた。
「トウヤ、君? いまの、は……」
いつも冷静だったカガミが目を丸くして手の中のボールを見つめていたことを、トウヤは今も忘れない。
通常、ピッチャーが投げたボールは、ピッチャーの手から離れた瞬間、つまり初速が一番速く、ミットに収まる直前、つまり終速が一番遅い。
これは物理的に考えても当然のことだった。
だが、その時にトウヤが投げた球は違った。
彼が投げたボールは、手から離れた後に加速したのだ。
突然の事態に誰よりも戸惑ったのは投げたトウヤ本人だった。
そんな彼を前にして、すぐに冷静さを取り戻したカガミは、トウヤに言った。
「これは、ベイスボールの神様から君に贈られた君だけの武器です。
この力があれば、君はもっともっと強くなる」
そして、カガミのその言葉は真実となった。
トウヤはそれから、自らの投げた球が加速するその特性に〈加速〉と名前をつけ、自らの一番の武器としてそれを磨いた。
当時でさえ、普通の人の倍は練習に打ち込んできた。
だが、自分だけの武器を手に入れた彼は、さらに激しく練習にのめり込んだ。
〈加速〉の効果は球の速度をあげ、それは練習の効率をもあげていく。
少ない時間でより多くの練習を積むことが出来るようになり、かつて一日千球だった投げ込みの回数はどんどんと増え、遂には一日一万球になった。
それ以上はオーバーワークになるから、と投げ込みの回数を増やすのを顧問の教師に止められたのは不満ではあったが、トウヤは毎日好きな練習が出来る喜びと感謝を一球一球に込め、毎日一万回の投球をこなし続けた。
ただ、弊害もあった。
最初はカガミに練習に付き合ってもらっていたのだが、投げ込みの回数が二千を超えた辺りから彼もついていけなくなった。
トウヤはコンクリートの壁に的を描いて練習を続けたが、すぐに壁にひびが入ってしまい、練習は禁止されてしまった。
仕方なく、市販の超合金の的を用意。
だがそれもすぐにべこべこになってしまうと、ベイスボールのボールと同じ素材の的を拝み倒して購入してもらい、ひたすら練習に励んだ。
その頃になると、トウヤのピッチャーとしての力量が他校のベイスボール部にも通用することが明らかになってくる。
試合には負けるよりも勝つことの方が多くなり、ある日の試合では生まれて初めてノーヒットノーランを達成。
エースピッチャーとしての地位を不動のものとして、「トウヤがいれば勝てる!」「トウヤは俺たちの誇りだ」とか、そんな言葉が臆面もなく、ベイスボール部内で、あるいは学校内で声高に口にされるようになる。
トウヤは嬉しかった。
自分が認められることが、自分の大好きなベイスボールで褒められることが、何よりも嬉しかった。
――しかし、トウヤはそれで慢心しなかった。
自分はもっともっと、上に行ける。
もっともっと、ベイスボールがうまくなれる。
そしてそれが、全ての崩壊の始まりだった。
中学二年生の、最後の大会。
トウヤのチームは地区の優勝候補の筆頭として見なされていた。
それでもトウヤに油断も慢心もない。
いつも通り力の限り、手を抜くことなく、全力の投球をした。
――だがその一球は、わずかに手元が狂った。
わずかな狂いは大きな軌道のズレとなり、そのボールはカガミの要求したコースを、構えたミットを大きく外れ、カガミの肩口を強打する。
――ドゴォン!
およそ人の身体が立てるとは思えないような音がして、カガミは後ろに吹き飛んだ。
そしてそのまま、トウヤの相棒は……。
憎たらしく、けれど頼もしかった彼の女房役は、肩を押さえたまま、全く起き上がってこない。
「カガ、ミ……?」
考えてもいなかった状況。
頭が真っ白になったトウヤは、タンカで運ばれていくカガミを、ただ呆然と見守るしかなかった。
カガミの怪我は、重傷だった。
右肩の粉砕骨折に加え、ミットを構えていた左手にも骨にひびが入っていることが発覚したのだ。
病院でトウヤは、カガミに向かって涙ながらに謝った。
土下座をして、彼に怪我をさせたことを謝罪した。
しかし、カガミは、それを見ても、何も思わなかったようだった。
彼はただ静かに、こう言った。
「……いいんですよ、もう」
「だけど……っ!」
「本当に、もういいんです。終わったことですから」
納得出来ない部分はあったが、本人にここまで言われては仕方ない。
その日はそれで引き下がった。
その後、トウヤは何度も面会に行ったが、その度に予定が合わず、結局彼の入院中、トウヤがカガミと会うことはなかった。
その事件を境に、風向きは変わる。
もともとが弱小の、層が浅い中学のベイスボール部だ。
捕手の替わりなど、特にトウヤの球を受けられるキャッチャーなどいるはずもなく、チームは大会優勝どころか試合をすることすら出来なくなった。
チームの救世主、学校の期待の星だったトウヤは一転、ベイスボール部の面汚し、裏切り者と罵しられるようになる。
面と向かって「お前のせいで試合に出られなくなった」「カガミがかわいそうだ」と言われたことも何度もあった。
トウヤに〈相棒殺し〉なんてあだ名がつくようになったのも、この時だ。
それでもトウヤは腐らなかった。
カガミが戻ってくれば、全ては元通りになる。
トウヤは、そう信じて疑わず、ひたすら今まで通りの、いや、今まで以上の練習を自分に課した。
そして、その日はやってくる。
本人が鍛えていたのが功を奏したのか、単に医者の腕がよかったのか。
二週間という異例の速さでカガミは退院、それから一週間後には部にも復帰した。
だが……。
「単刀直入に言います。ベイスボール部を、やめてもらえますか?」
「なっ!」
顔をほころばせ、カガミに駆け寄ったトウヤに投げかけられたのは、カガミのそんな言葉だった。
「ああ。心配しなくても、先生にはもう話してあります。
先生は『まあ、仕方がないだろうな』と言っていました。
退部届を出すのはいつでも構いませんが、ロッカーの私物は……」
「ま、待てよ!」
混乱して、頭が回らない。
それでも何か言わなくちゃならないと、トウヤは口を開く。
「な、なんで……。オマエは言ってくれたじゃないか!
オマエがオレを、日本一のピッチャーにするって、オレは、それを信じて……」
胸の中の大切な約束。
それをカガミは鼻で笑った。
「ああ。だって、適当に大きいことを言っておけばあなたは頑張るじゃないですか。
まあそれも、結果的には失敗でしたけど」
「なっ!」
それでも食いつこうとするトウヤをカガミは鬱陶しそうに眺めると、不意に手をあらぬ方向に差し上げた。
「分かりました。納得出来ないというのなら、もう一度、本気でボールを投げてみてください。
……的は、あれです」
そう言ってカガミが示したのは、街路樹の一つ。
「あれ、を……」
目測で、三十メートルほどだろうか。
普段の試合で投げているよりはるかに距離がある。
「別に、出来ないならそれでいいんですが」
ためらうトウヤにカガミは興味なさそうに言って、立ち去ろうとする。
「待てよ! ……やる! やってやるさ!」
「……ご自由に」
ボールを手に、乾いた唇をぺろりと舐める。
――要するに、これは勝負なんだ。
試合と同じだ。
あの距離を当てられるか、一発勝負の戦い。
第一、この距離からあの木にボールを当てられるようでもないと、また同じ事故が起こるだけだ。
トウヤはあの事故からひたすらにコントロールを磨いてきた。
いつだって、ここ一番という場面では結果を出してきたのだ。
出来ないなんて弱音は、自分に言わせない。
そうと決めれば、覚悟は決まった。
ボールを堅く握りしめ、振りかぶる。
手を抜く、という発想はなかった。
試合と同じ力で投げて、それでも命中させることに意味がある。
「当た、れぇええ!!」
叫びながら、ボールを放つ。
ボールが手から離れ、そして〈加速〉。
全てを置き去りにする速度で直進し、そして、
「……っしゃあ!!」
命中。
三十メートルは離れた街路樹に、見事に吸い込まれていく。
――どうだカガミ! これが、オマエの相棒の、勝負強さだ!
しかし、会心の笑みを浮かべて振り返ったトウヤが見たのは、まるで道の端に捨てられたゴミでも見るかのような冷たい目をしたカガミの姿だった。
「まったく。何を得意げな顔してるんですか、気持ち悪い」
「え……?」
まるで想定外の、予想もしてなかったカガミの冷たさに、トウヤの顔も凍りつく。
カガミは出来の悪い子供を相手にするような態度で、うんざりとしたため息をつくと、言った。
「もう一度、自分が投げた的を見て下さい」
何を言いたいのか、分からなかった。
それでもトウヤは、言われるがままに視線を戻す。
「あ……」
トウヤが的にしていた木は、なくなっていた。
いや、本当に消えてしまった訳ではない。
ただトウヤのボールのあまりの威力に根本から折れ、横倒しになっていただけだ。
「あ、あぁぁああ……」
なぜ、だろうか。
その姿が、あの試合、トウヤの球を受けて倒れたカガミの姿と重なる。
立ち尽くす、トウヤに、
「ようやく、分かりましたか?」
冷や水を浴びせるような温かみのない声が、後ろからかけられる。
心底から呆れたような、カガミの侮蔑を含んだ視線に、トウヤは何か弁解をしようとした。
「ま、待ってくれよ! オレは、オレはただ……」
しかし、カガミは聞く耳を持たなかった。
これ以上トウヤに構うのは時間の無駄、とばかりに彼に背を向ける。
「悪いですが、僕がやりたいのはベイスボールなんです」
「なっ、だっ、オ、オレだって……」
必死に言葉を紡ごうとするトウヤを振り返り、冷ややかな眼差しで見つめると、カガミはもう一度だけ口を開いた。
「まだ、分からないんですか? あなたはもう、投手でも、ベイスボールプレイヤーでもない。
――ただの、凶器なんですよ」
冷徹を越えて、冷淡とすら言えるその言葉に、トウヤは、何も言えなかった。
かつての仲間の下に歩き去っていくその背を何も出来ずに見送って、トウヤは膝を折った。
「なんで、だよ。オレは、ただ、ベイスボールが、好きで……。
ただ、一生懸命、ベイスボールを、ベイス、ボールを、うわぁああああああ!!」
グラウンドの片隅に、トウヤの嘆きの声が響き渡る。
しかし、慟哭する彼に声をかける者は、一人もいなかった。
翌日、トウヤはベイスボール部を退部。
以後、中学卒業まで、彼がベイスボール部にかかわることは二度となかった。