1-3.怪物
直前に色々足してたら間に合わなく……
「あ、っと……おもっ」
トウヤに促され、見学に来ていたとおぼしき新入生の少年が、バットを手に取った。
高校で使うベイスボールのバットは、軽いものでも大抵十キロ程度はある。
慣れない人にはかなりの重さだろう。
素振りをしようとして、完全に上体を流され、「うわ、わ……」と狼狽している彼を微笑ましく眺めながら、ミユキは冷静に、キャッチャーミットを装着していた。
今から彼女は、クラッシャーと呼ばれた元エースピッチャー、トウヤと対決をする。
誰がどう見ても、無謀な挑戦だ。
しかし……。
――勝ちの目が、全くない訳ではない。
彼女はマネージャーであって、プレイヤーではない。
かつてはミユキも、ベイスボールプレイヤーに憧れたこともあった。
ただ、近所の草ベイスボールチームで、男子に混じってベイスボールをしているうちに、気付いてしまったのだ。
男女の間に横たわる、絶対的な身体能力の差に……ではない。
そうではなく、もっと根本的な、心の問題。
自分が、ベイスボールをすることよりも、ベイスボールをしている人を見たり、サポートすることに喜びを感じるという事実に、気付いてしまったのだ。
しかし、だからこそ。
ミユキは選手ではないにしろ、ベイスボール部の誰よりもベイスボールを愛していると胸を張って言えるし、たくさんのベイスボール選手を見てきた。
その中には、ミユキの理解を超越してくる、とんでもない選手もいる。
まるで、ベイスボールの神様に愛されて、贔屓されたとしか思えないような、とんでもない「怪物」が。
――「彼ら」と比べれば……。
このクラッシャーの少年、トウヤは、まだ人間の範疇に収まっている。
確かにボールの速さには目を瞠ったし、その威力を目の当たりにして戦いた。
……けれど、それだけだ。
ただちょっと、目で追えない程度に速くて、人を吹っ飛ばす程度に強いだけ。
「想像を絶する」という領域には、まだ至ってはいない。
それに、ミユキには何度も何度も、この場の誰よりも長くそのボールを横から眺めていたというアドバンテージがある。
そのおかげで、今はかろうじてその軌道を追えるようにもなった。
ベイスボール部の男たちが次々に打ち倒されてしまったのは、その球威だけでなく、予想外のタイミングでボールを受けたことにも原因があるとミユキは考えていた。
なぜなら、彼のボールは「伸びる」のだ。
いかなる仕組みなのか、ボールが手から放たれた直後よりも、ミットに納まる直前の方が、速い。
真正面から眺めていた彼らには把握出来なかったであろうことも、横から傍観していたミユキには見えていた。
タイミングも、コースも分かっている。
だから、あとはなんとしてでも、とにかくその場に留まることが出来さえすれば……。
「まるで、オレの球なんてもう見切ったって顔だな?」
声をかけられ、ミユキはびくりと肩を震わす。
その様を楽しげに眺めながら、トウヤは口を開いた。
「――10%、だ」
「えっ?」
唐突な宣告。
一瞬遅れでその意味に思い当たって、ミユキの顔が真っ青になる。
「まさ、か……。まさか、さっきまでの、あの、球は……」
「ああ。だから最初に、準備運動って言ったろ?
オレはまだ、全力の時の十分の一の力しか出しちゃいない。
実際コイツらの相手をするには、それで充分だったしな」
トウヤは楽しくて仕方ないと言わんばかりに、肩をぐるりと回して、
「まあ、いい加減肩もあったまってきたからな。
――次はもう少しだけ、本気で投げさせてもらうぜ?」
そう、宣言する。
それは、ミユキの死刑宣告にも等しかった。
「そん、な……」
ミユキの顔から、血の気が引いていく。
たったの、一割。
一割の力で、あれほどの速度だったのだ。
もちろん、球は速くなればなるほど、速度を上げるのに多くの力がいる。
十倍の力で投げても十倍の速度になるとはいかないだろうが、それでもさっきまでとは隔絶した速度と威力の球が飛んでくることは間違いない。
まだ何とかなる、とか、この程度なら、なんて、思い上がりもいいところだった。
――彼は正真正銘の、怪物。
まさに桁外れの、ベイスボールプレイヤーだ。
「さぁどうする? 弱い者イジメしたって意味ねえしな。
怖気づいたって言うなら……」
その、トウヤの言葉に……。
「ハハッ! いいねぇ! そうこなくちゃな!」
ミユキはただ、行動でもって応えた。
出来るだけ前傾姿勢で、可能な限り重心を前に。
両足を地面に食い込ませ、ほんの少しでも踏みとどまれるよう、足場を固め。
キャッチャーミットを身体の前に、そしてもう片方の手を、その後ろに沿える。
――浅知恵だ、とは思う。
キャッチングの知識は、ミユキにはない。
人を吹き飛ばすような球の捕り方なんて、どんな本にも書かれていなかった。
こんなことをしたって、小柄で力も強いとは言えないミユキが、正捕手のタカダや巨漢のオオニシが捕れなかったボールを捕れるはずがないと、頭では分かっている。
――それでも、退けないもの、譲れないものが、胸にあるのだ。
敵わないことは、負けてしまうことは、仕方ない。
よくはないけれど、でも、仕方ない。
けれど、逃げることだけは。
ここでみんなから背を向けて逃げることだけは、出来なかった。
もしそうしたら、自分はこの先、ベイスボールと正面から向き合うことが出来なくなる。
理屈ではなく、心で、そう感じたのだ。
「……その覚悟、気に入ったぜ。ならこっちも、手加減はなしだ」
トウヤはそう口にして、その雰囲気が、変わる。
「――ッ!?」
ミユキはその瞬間、トウヤの身体から紅蓮の炎が噴き上がるのを、見た。
それはおそらく、一般に「鬼気」や「闘気」、もしくは「殺気」と呼ばれるもの。
可視化されるほどに高まった、意志の炎。
触れるもの全てを、自分すらも焼き尽くしてしまいそうな猛々しい赤のオーラが、その全身からあふれ出す。
それはグラウンド全体に広がって、空気が重みを増し、呼吸することすら苦しくなる。
燃える想いを内に隠しながら、トウヤは静かに語り出す。
「次の球は、50%。オレが確実にコントロール出来る、ギリギリの境界だ」
それはつまり、実質的な全力。
ミユキは我知らず、ごくりと唾を呑み込んでいた。
「一つだけ忠告しておくが、絶対に、一ミリたりともミットをズラすんじゃねぇぞ。
その場からミットを動かさなければ、運が良ければ終わっても命くらいは残ってる、はずだ」
淡々と、感情を込めずに口にされる言葉。
しかしその口調が、却ってそれが誇張のない事実なのだと証明していた。
「もう一度だけ、訊くぜ。……いいんだな?」
そんなもの、いいワケがない。
ミットを持つ手は抑え切れない恐怖に小刻みに震えているし、歯はカタカタと音を鳴らしてうるさいくらい。
迫りくる死の予感に心臓の鼓動は暴れまわって、まるで制御が利かない。
なのに、なのに、ミユキの首は……。
まるで何かに操られるように小さく、けれど確かに、縦に振られていた。
「……大した女だよ、オマエは」
あくまで強情なミユキの態度に、トウヤは小さく笑う。
それはいつもの皮肉な笑みではなく、本当に、素直な笑顔で、ミユキは自分が彼にそんな表情を浮かべさせたことを、誇りに思った。
――自分は今日ここで、死んでしまうかもしれない。
そう分かっているのに、心は不思議と凪いでいた。
一度、覚悟を決めたからか。
あまりに唐突すぎたせいで、現実味がないからなのか。
あるいはそれは、ミユキが彼を、トウヤを認めているからかもしれなかった。
相対して初めて分かる。
ボールを受けるまでもない。
――彼は、「ホンモノ」のベイスボールプレイヤーだ。
ミユキにも見て取れるほどの、燃え盛る意志の炎。
それが幾千、幾万の言葉よりも雄弁に、彼のベイスボールへの想いを物語る。
これだけ真剣にベイスボールに向き合える人間が、どれだけいるだろう。
今さらながらに、ミユキは思う。
恐怖は、もちろんある。
でも、これほどの相手に殺されるのならば、それもまた悪くない。
そんな風に思える自分もいた。
「あ……」
……と、そこで。
ミユキはバッターボックスに立った新入生の少年が、かすかに震えていることに気付いた。
――無理もない。
トウヤという規格外がいるため見失いそうになるが、彼ら新入生はほんの少し前まで中学生だったのだ。
目に見えるほどの闘気とプレッシャーの中で、平然としていられる方がおかしい。
自分がここに座っているのは、覚悟の上、自分の意地を通すためだ。
しかし、この少年がここにいるのは、打席の再現をするのにバッターがいないと空気が掴めないという、いわば数合わせのため。
見学にでも来たのかもしれないが、彼は本来はベイスボールとは関係ない一般人だ。
こんなことに巻き込まれて、恐ろしい思いをさせて、申し訳ないと思った。
「怖いなら、終わるまで目をつぶっていればいいと思うよ」
だからだろうか。
ミユキの口から、そんな言葉が飛び出したのは。
「そう、か。目をつぶってれば……」
少年はそう言って、ミユキに促された通りに目をつぶる。
いまだにバットの重さに慣れないようでふらふらと身体を揺らしていたが、身体の震えは止まっていた。
素直な子だとは思うが、ここまで素直すぎると、それはそれで、逆に心配になってしまう。
ミユキの口元に、一瞬だけ笑顔が浮かんだが、
「……もう、いいか?」
トウヤの言葉に、我に返る。
少年とのやりとりで、わずかにだけ弛緩した気持ちを、引き締め直す。
「……行くぞ」
始まりは、とても緩やかだった。
緩やかで、流麗なフォーム。
それが、人生で最後に見る光景になるかもしれないと心の片隅で思いながら、ミユキはその姿に見惚れていた。
――せかい、が……。
視界が、世界が、広がっていく。
ゆらり、と隣の少年がよろめいたのが見える。
トウヤの握り込まれた指が、振り上げられた足が、やけにはっきりと見える。
生と死の狭間。
極限の状態の中で、彼女は足掻く。
震える腕に活を入れて。
最後の瞬間まで、せめて眼だけは逸らすまいと、前を向き続ける。
そして、運命のボールが。
もしかすると、自分の生命を刈り取るかもしれない白い球が、放たれる。
唸りをあげて、飛んでいく。
ボールはやがて、風の衣を纏う。
ミユキにはその白き衣が、まるで自分を迎えにくる、天使の翼のように見えた。
そして、そして、そして――
「………………な、に?」
予想されていた衝撃も、覚悟していた痛みも、何も、なかった。
ただ、無音。
ベイスボール部の誰もが、目で追えないほどの速度、いや、それを遥かに超える速度のボールが。
一割程度の力でさえ、爆音を響かせていたボールが、かすかな音も立てずに。
静かに、ただただ、静かに。
「――あ、当たった?」
あっさりと、打ち返されていた。
それも、ただこの場に居合わせただけの、素人のはずの、一人の見学者の少年によって。
呆然とするトウヤの頭をボールが飛び越して、ぽとり、と落ちて転がって、ようやくミユキは動き出す。
「な、ぜ……?」
生き残ったことへの安堵も、何もない。
押し寄せるのは、ただ、理解不能な、想像を絶する事態に直面した時の、圧倒的な混乱だけ。
ミユキは確かに、見ていた。
新入生の少年がボールを打つのを。
いや、むしろ、白い翼を生やしたボールが、そこにあったバットにぶつかりに行った、というのが正しいだろうか。
――だが、当然、そんなことはありえるはずがない。
だって彼は、目を、つぶっていたのに。
バットを満足に振ることすら、出来ていなかったのに。
今だって、自分が振ったバットに振り回されて、「おっとっと」と言って頭をかいている。
この少年が、どうして、あの球を、大の大人でさえ吹き飛ばすほどの球を、打ち返せたのか。
いや、そもそも。
どうして彼は、目をつぶったまま、ベイスボールプレイヤーですら目で追えないほどの速度の球に、バットを当てられたのか。
何もかもが、ミユキの理解の範疇を、超えていた。
こんな状況を説明する言葉を、ミユキは何一つ、持っては……。
「……ぁ」
小さく、こぼす。
一つだけ、この状況を説明する言葉が、あったのだ。
「あぁ。これ、が……」
全世界に、五十億人いると言われるベイスボールプレイヤー。
その中には、人間の理解を超越してくる、とんでもない選手もいる。
まるで、ベイスボールの神様に愛されて、贔屓されたとしか思えないような、とんでもない「怪物」。
人は、彼らをこう呼んだ。
ベイスボールの神の恩寵を賜りし者たち、すなわち――
「ギフ、テッド……」
――と。