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1-2.破壊者

 ――それはもはや、悪夢としか言えない光景だった。


 栄祝学園のベイスボール部は、決して強豪とは言えない。

 マネージャーの皆守ミナカミ御幸ミユキは、部員たちのケアを行う一方、今一つ本気になっていない彼らの練習を歯がゆい思いで見ていたし、もっと死にもの狂いになれば、と思わない日はなかった。


 ただ、それでも。

 彼らは栄えあるベイスボール部の部員であり、高校での二年、あるいは一年間をベイスボールに捧げてきたのだ。


 そんな彼らが、ほんの一月前までは中学校に通っていたはずの少年に完膚無きまでに叩き潰され、地面に這いつくばっているなどと、誰が想像しただろうか。


 ――〈相棒殺し(クラッシャー)〉。


 彼が中学時代、そんな呼ばれ方をしていたことは知っていた。

 所属していた中学校では彼によって選手が潰され、ベイスボール部自体がなくなってしまった、なんて噂は、ミユキだって聞いたことはあったのだ。


 しかし、噂なんて一人歩きするものだ。

 どうせこの噂だって針小棒大に面白く脚色されたに決まっている。


 いや、仮に真実だったとして、中学を卒業したばかりの後輩に、高校に入って今までトレーニングを積んできたベイスボール部員たちをどうにか出来るはずがない。

 そんな驕りがあったのではないかと言われれば、否定出来ない。


 ――だが、現実はどうだ。


 栄祝学園が誇るレギュラーたちは、誰もが地に伏し、傷ついた腕を、手をかばいながら、哀れっぽい声を漏らしている。

 そこにはベイスボールプレイヤーたる矜持の欠片もない。


「なんで、どうして、こんなことに……」


 思わずミユキの口から漏れた言葉を聞きつけて、この惨状の元凶である制服の少年、トウヤが嗤った。


「なぜかって? 答えは単純だよ。テメエらが、どうしようもなく弱いからだ」

「それはッ!」


 否定したい。

 否定したいと思っても、ミユキには何も言えなかった。


 トウヤは別に、暴力で彼らを叩き潰した訳じゃない。

 ただトウヤは、ベイスボールのルールに則り、そのピッチャーとしての実力を見せただけ。


 もし彼らに、栄祝学園ベイスボール部に、トウヤを越えるベイスボールの実力があれば、彼らが地べたに這いつくばっている現状はなかっただろう。





 ほんの、数十分前。

 中学時代の有名選手、〈クラッシャー〉と呼ばれたトウヤがこの学校に入学したことを知ったミユキは、早速彼をスカウトしにいった。


 中学時代に汚名を着た彼だ。

 あるいはベイスボール部への勧誘は困難を極めるかとも予想したが、彼はミユキの誘いにあっさりとうなずいた。


 だが、一つだけ。

 彼は条件を出した。


「ト、トウヤくん!?」


 焦るミユキを置いて、制服のまま、かつスパイクもついていない普通の運動靴でずかずかとグラウンドに入り込んだ彼は、練習中だったベイスボール部員の前に立つと、こう言ったのだ。


「ヘボなキャッチャーしかいないチームに入るつもりはねえ。誰でもいい。オレが一球投げて、それでもまだその場に座ってられる奴がいたら、オレはこのチームに入ってやるよ」


 まさに傲岸不遜。

 一年生とは思えないその台詞に、にやりと唇を歪ませたのは、キャプテンのオオニシだった。


「おもしれえ。オレがキャッチャーをやってやる。サヤマ、打席に立ってくれ」

「いいのかよ! こいつ、あんな口きいて……」


 チームの四番を務めるサヤマが口を尖らせたが、オオニシは首を振った。


「こういう奴には口で言うより実力で分からせた方が早い。オレも中学までキャッチャーやってたのは知ってるだろ。昔取ったなんとやらだ」


 そう言うと、正捕手であるタカダからキャッチャーミットを奪い取り、ホームプレートの背後に座り込む。


「キャプテン、防具は……」

「要らねえよ。仮にも中学時代のエースピッチャー様だ。外したりなんてしねえだろ?」


 獰猛な笑顔でオオニシがトウヤを見る。

 だが、意外にもトウヤはその視線を受け止めず、つまらなそうに目を逸らした。


「ま、前座くらいにはなるか」


 そうこぼして、ざっざとマウンドの土を均す。


「ヤロウ!」


 その傲岸不遜な態度にオオニシは額に青筋を浮かべたものの、そこはキャプテンの貫禄。

 歯を剥き出しにして怒りを露わにしながらも、無言でキャッチャーミットを構えた。

 チームの四番、サヤマもバッターボックスに入る。


「じゃ、やるか」


 肩を回すトウヤに、オオニシは眉根を寄せた。


「投球練習はいいのか? 怪我しても知らねえぜ?」

「要らねえよ。どうせ全力じゃ投げねえ。準備運動にゃちょうどいいだろ」


 どこまでも傲慢なトウヤの言葉に、ギリ、とオオニシの歯が音を立てる。


「ちゃんと真ん中に構えといてくれよ。外れたなんて言いがかりつけられてもかなわねえからな」

「ハッ、いきがんなよ一年坊主! 入部させたらまずは口の聞き方から叩き込んでやるよ!」


 そんな舌戦の後、トウヤが投球モーションに入る。


 投球前にキャッチボールすらしない、舐め切った態度。

 運動に適しているとは言えない制服。

 初めてのグラウンド。

 踏ん張りの利かない靴。


 こんなコンディションで、いつもの実力が出せるはずがない。

 そもそも、たかだか中学時代のエースピッチャーごときが、高校ベイスボール部の部員に勝るはずがない。


 その場にいる誰もが、トウヤの敗北を確信していた。


 ――たった一人、マウンドに立つ、その当人以外は。


「……行くぜ」


 先ほどまでのおちゃらけた様子が嘘のような、鋭く研ぎ澄まされた、低い声。

 その声がミユキの耳を打った、直後だった。


 まるでレーザーのように、トウヤの手から放たれた白い軌跡がオオニシに向かい、



 ――ドン!!



 空気が、爆発した。

 そんな風にしか表現出来ない爆音がグラウンドに鳴り響き、そして、


「うがぁあああああ!!」


 気付けば、オオニシが倒れていた。

 それも、キャッチャーミットを構えていた場所から数メートルも離れた地面に転がり、痛みに身をよじっている。


「なに、が……」


 ミユキには、何が起こったのか分からなかった。

 トウヤの投げた球がいつオオニシを打ったのか、それすら見えなかった。


「あり、えない……」


 ほんの十数センチのボールに、身長百八十センチを超える巨体が吹き飛ばされる。

 まるで、冗談のような光景。


 だが、それが現実だった。

 まだ中学を卒業したばかりの、若干十五歳の少年が、それをやってのけたのだ。


「……つまんねぇ」


 呟きが耳に届き、ハッとしたミユキはマウンドを、この惨状を作り出した元凶を見た。

 学生服の少年、トウヤは、退屈そうな、どこか悲しそうにすら見える目で倒れたオオニシを見ていた。


 しかし、それも一瞬のこと。


「クッソつまんねえ余興は終わりだ。このチームにだってホンモノのキャッチャーがいるんだろ。さっさと構えろ。……オレを、楽しませろ!」


 傲慢そのものの口調で、そう言い放つ。

 彼の言葉を単なる増長したガキの戯言と無視出来る者は、もうその場にはいなかった。




 次にトウヤと相対したのは、捕手のタカダだった。

 このチームで一番、トウヤの球を捕れる可能性の高い選手。


 しかし、ミユキには分かっていた。

 分かってしまっていた。


 キャッチャーミットを受け取るタカダの手は震えていて、彼がトウヤを見る目は卑屈な光を宿していた。

 彼がミットを構えた瞬間、いや、オオニシが為す術もなくトウヤの球に吹き飛ばされた瞬間から、タカダの心はすでに負けていたのだ。


「あんまり失望させんじゃねーぞ」


 トウヤが言い放った言葉に、タカダはしかし、応えることは出来なかった。


 正捕手の意地、だろうか。

 彼はトウヤの球を、キャッチャーミットの中心で受け止めることに成功した。

 成功した、が、それはただ、それだけだった。


 ボールがミットに収まった直後、その恐るべき球威に押され、大柄な彼の身体はゴロゴロとグラウンドを転がった。


「いてえぇえ! 手が、俺の手がぁああ!!」


 フェンスにぶつかってやっと止まった彼の身体は、ほかならぬ彼自身の意志で再びグラウンドを転げまわるはめになった。


「……クズが」


 押し殺したようなトウヤの言葉。

 だが、もはやその不遜な言葉を咎める者は、誰もいなかった。




 それからもトウヤの眼光に押され、バッターボックスに立つサヤマ以外の部員全てが、キャッチャーズボックスに、トウヤとの勝負の舞台に登っていった。


 いや、違う。

 それは勝負の舞台などではなく、ただの処刑台だった。


 彼らは、ベイスボールに夢を求め、日々の練習に励んできたはずの彼らは、一様に顔を卑屈に歪め、勝ち目のない、そして勝つつもりもない戦いへと足を進めていった。


「もう、アンタだけだな」


 そう言ってトウヤが最後に残った一人。バッターボックスに立ったサヤマに目を向けると、


「ひぃっ!」


 サヤマはのどの奥で小さな悲鳴を漏らし、トウヤに背を向けた。

 ベイスボールプレイヤーにとっての魂であるバットを放り棄て、倒れたチームメイトを置いて、走り去った。


「サヤマ、せん、ぱい……?」


 ミユキには、目の前の光景が信じられなかった。

 いや、信じたくなかった。


 サヤマは、サヤマたちは、確かに仲間だったはずだ。

 なのにサヤマは、チームメイトを、仲間を置いて、逃げ出した。


「……やっぱり、無駄だったな」


 つまらなそうな、寂しげにすら聞こえる小さな声が、ミユキを現実に呼び戻した。


「高校のベイスボール部って言うから、少しだけ、ほんの少しだけは期待してたんだが、ハッ!

 こんなゴミ溜めに、期待したオレが馬鹿だった」


 先ほどまでの激情が嘘のように、淡々と、事実を告げるように、トウヤは言う。


 ――それは彼らの、栄祝学園ベイスボール部の今までの全てを、否定する言葉。


 その言葉が脳に染み入る前に、ミユキは口を開いていた。


「……ちがう」

「なに?」


 確かに、力およばなかったかもしれない。

 勇気が、足りなかったかもしれない。


 それでも、ベイスボールが好きだった人たちが、一生懸命にボールを追った日々を、ミユキは見ていた。

 それは、決して嘘じゃない。


 嘘だというのなら、それはむしろ、この光景。

 努力も、熱意も、全てが一人の少年に打ち砕かれ、笑顔の一つも、喜びの欠片もない、この異常な空間の方だ。


 だから、これは、違う。



「こんな、こんなのは……ベイスボールじゃ、ない」



 思わず漏れた言葉。

 ただ一人で学園のベイスボール部全てを打ち倒した絶対者に対する、儚い抵抗。


 苦し紛れのその言葉は、しかし、誰にとっても予想のつかない反応を呼び起こした。



「――ふざっけるな!!」



 トウヤが、叫んだ。

 ずっと不敵で、冷静で、どこか皮肉げだった彼が。

 初めて本当の、本気の怒りを見せた。


「ベイスボールじゃない、だと? オレにベイスボールをさせなかったのは、一体どっちだ!

 ボールを投げたオレか?! それとも、ボールを受けられなかったオマエらか?!

 オレはな! オレは、ここに転がってるクズ共の何倍も、何十倍も……!」


 そこにはもう、先ほどまでの、どこか人を小馬鹿にしたような、見下したような態度はなく。

 ただひたむきな、苦しいほどにひたむきな、ベイスボール少年の姿があった。


「あな、たは……」


 呆然とこぼしたミユキの言葉に、自分が激していたことに気付いたのだろう。

 チッと舌打ちを漏らすと、ふたたび不遜の仮面をつけて、トウヤは吐き捨てた。


「これがベイスボールじゃないって言うなら、アンタらだって、ベイスボールプレイヤーなんかじゃない。

 ただベイスボールの真似事をしてるだけの、ハリボテの、ニセモノだよ」


 ズキンと、ミユキの胸は痛んだ。


 トウヤのその心無い言葉に。

 トウヤにそんな言葉を吐かせた自分たちに。

 そして何より、トウヤのその言葉にはっきりと反論出来ない、自分に。


(それ、でも……!)


 それでもミユキは、ベイスボールが好きだった。

 倒れてしまった仲間たちが、好きだった。


 確かに彼らは、弱かったかもしれない。

 トウヤを受け止められるだけの、練習が足りなかったかもしれない。



 ――それでも彼らは、ベイスボールプレイヤーだ。



 ベイスボールに夢を見て、ベイスボールに喜びを見出して、ベイスボールを全力で楽しんでいた。

 それを誰にも、この不遜な少年にも、否定されたくはなかった。


 だから……。


 だから……!



「――まだ、私が、いる!」



 ミユキは、叫んでいた。


 震える拳を、握りしめて。

 涙の浮かんだその目に、精一杯の想いを込めて。


 ミユキは、トウヤを見据えた。


「へぇ。アンタが、ねぇ」


 トウヤの目が、初めてミユキを捉えた。

 単なる舞台背景としか思っていなかった彼女を、そこに存在する敵として、初めて認識した。



 こうして。

 トウヤと栄祝学園ベイスボール部の戦いは、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。


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