0-2.韋駄天
この作品は一切の科学的考証を放棄しています。
もしかすると「ん?」と思う部分もあるかもしれませんが、「まあいいか、ベイスボールだし」という感じにおおらかな気持ちで読み飛ばしてください。
――ありえない!
余裕の態度でベースを踏みしめるカズキを見てゴウダの頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。
己の行動を振り返ってみても、ゴウダに失策はなかった。
コースを読まれ、ボールを前に飛ばされこそはしたものの、最善のリカバリーを行った。
ゴウダの剛腕と合わせれば、完全に一塁で討ち取れたタイミング。
なのに……。
「な、なぜだ! なぜお前が、そこに……」
「2.1秒」
「なに?」
目を丸くするゴウダに、カズキは語る。
「俺が、バッターボックスから一塁ベースまで走るのに必要な時間だよ」
「二秒、だと! そんな馬鹿なこと……」
「はっ。ノロマなお前には分かんないだろうけどな。俺がボールを前に飛ばした時点で、お前の負けは決まってたんだよ」
「きさまぁああああ!」
いきりたつゴウダ。
あわや場外乱闘か、という場面だったが、それはエースのプライドか。
意外にもゴウダは自らの怒りを抑え、ボールを握りしめた。
「……まあ、いい。貴様のような俊足、同じチームに二人といねぇはずだ。
オレ様が残り全員を全て三振に打ち取れば済むだけの話」
エースにふさわしい切り替えと集中力で、次なるバッターに意識を集中させる。
だが、それはこの場合に限っては下策だった。
「いいのか? 俺は、次のボールで盗塁するぜ」
カズキの不敵に過ぎる宣言。
だが、ゴウダは意に介さなかった。
盗塁予告をしながらも、カズキは全くリードをしていない。
それに、ゴウダの剛速球は当然ながら普通の投球よりも早くキャッチャーの許へと届く。
それはつまり、盗塁を行う時に走者に与えられる時間が著しく減る、ということだ。
並みの俊足であるなら、ゴウダの前に盗塁など絶対に不可能。
……そう、並みの俊足であるなら。
「っ!! スティールだっ!」
ゴウダが投球モーションに入った瞬間、カズキが動いた。
だが、今さら投球をやめることも、わざと外した球を投げることも、ゴウダには不可能。
それでも自分の球速なら十分に間に合う。
そんな確信を持って、ゴウダは腕を振り抜いた。
狙い過たず、ミットの中心を捉えるボール。
ゴウダは思わず、よし、とガッツポーズをとるが、
「なぜっ! なぜ、投げない!?」
捕球を行ったキャッチャーは、受けたボールを振りかぶった体勢で、そのまま固まってしまっていた。
声を荒らげるゴウダ。
だがその答えは、背後からもたらされた。
「投げる場所が、ないからじゃねーか?」
「なぁっ!」
……そう。
キャッチャーが捕球をし、二塁にボールを投げようと立ち上がった時にはすでに、カズキは二塁に辿り着いていたのだ。
慄然とする彼らを前に、カズキはもう一度、その口を開いた。
「予告、するぜ。俺は次のボールでもう一度、盗塁をする」
「く、くそっ!」
やはり、今度もカズキは全くリードを取っていない。
にもかかわらず、ゴウダはカズキから受けるプレッシャーに思わず気圧されていた。
「ぐう、うぉおおおおお!」
そのプレッシャーからか、全くリードをしていない二塁に向かって、ゴウダは牽制球を放ってしまう。
プレッシャーに押された結果の、全く意味のないプレー。
その、はずだった。
「いいのか?」
そんな言葉がゴウダの耳に届いた時、カズキはすでに走り出していた。
「ちぃっ!」
一瞬だけ、ゴウダの脳裏を最悪の未来がよぎる。
さっき、ゴウダが投球をした時、ホームにボールが届いた時にはすでに、カズキは二塁についていた。
今回も同じなら、もう……。
しかし!
「まだ、間に合う?」
ボールが二塁手の許に届いた瞬間、カズキはいまだに二塁と三塁の間、その中ほどの場所にいた。
……そうだ。
モーションに入った瞬間、いや、その前から心構えをして走り始められるホームへの投球とは、ワケが違う。
今から投げれば、三塁で差すことも……。
「いや、ちげえ!」
ゴウダは、それでも地区大会ベスト8のチームのエースだった。
渡り合った強敵との死闘が、これまでの戦いの記憶が、彼の脳裏に警鐘を鳴らす。
いくら条件が異なっていたとしても、カズキの俊足でまだあの場所にいるのはおかしい。
刹那の思考は、ゴウダに驚くべき結論を導き出す。
――まさか、この展開を誘われていた!?
悔しいが、カズキの俊足をもってすれば、ゴウダがどんなに足掻こうが、簡単に盗塁を成功させることが出来るだろう。
だが、それだけの足をもってしても、一ヶ所だけ容易に落とせない場所がある。
――もし奴の狙いが、球をそこから、ホームベースから引き離すことにあったとしたら!
気付けばゴウダは、今まさに三塁への送球を行おうとする二塁手に叫んでいた。
「そっちじゃねえ! ホームだぁぁ!!」
大音声の叫び。
遅れて事態を理解した二塁手が三塁への送球をやめ、目標をホームベースへ。
その刹那、
「――やるじゃん」
カズキの身体が、加速した。
今までの走りが亀の歩みに思えるほどの俊足、否、神速。
数メートルあったはずの三塁ベースまでの距離が、瞬く間にゼロになる。
「うそ、だろ……」
二塁手の漏らしたその言葉は、あるいはその場にいたチームメイト全ての気持ちの代弁であったか。
その一瞬、確かに球場の全ての人間がカズキの走りに魅了されていた。
「止まるな! 投げろぉおお!!」
だが、ゴウダの叫びがその呪縛を打ち破る。
我に返った二塁手は、エースの叫びに後押しされるように、渾身のボールを放つ。
加速したカズキの身体が三塁のベースを蹴るのと、それは同時だった。
――行ける!!
ゴウダと、そして二塁からの送球を見たキャッチャーはその瞬間、同時にそう考えた。
このタイミングなら、カズキよりもわずかに早く、ボールがホームに届く。
そうなれば後はパワー勝負。
カズキは明らかに細身、スピードタイプの選手だ。
いかに速度が速かろうと、大柄なキャッチャーを押しのけてホームに滑り込むことはまず不可能。
ベースをしっかりと固めていれば、タッチアウトにすることはたやすい。
そして、その予想は、半ばまで成就する。
カズキがホームに滑り込む前に、ボールがキャッチャーミットに収まる。
「殺せぇ!」
ゴウダからの指示。
それは、たとえ反則を取られたとしても、その選手を、カズキの足を潰しておけという非情なる決断。
――悪く、思うなよ!
試合に事故はつきものだ。
プロのベイスボールプレイヤーなら、試合中に大怪我を負うことはめずらしくないし、それどころか命を奪われることさえある。
自分が本気で潰しにかかれば、骨の二、三本は折れるかもしれないが、所詮その程度だ。
プロの世界に比べればむしろ生ぬるいとさえ言える。
キャッチャーの男は一瞬でそんな自己弁護を済ませると、迫ってくるカズキに向かって前のめりに身構えた。
カズキの動きが、わずかに横にぶれる。
改訂されたベイスボールのルールにおいては、走塁の際にラインから2メートル以上離れてはいけないとされている。
逆に言えばラインから2メートルのどこかに身体を残していれば問題ないということだが、これで走者の動きはかなり制限される。
細身のカズキが大柄な自分に正面からぶつかるのは不利。
だから相手は左右のどちらかに寄って、そこから突き崩しにかかるはずだ。
それを見極めることが出来れば……。
――右、いや、左だ!
カズキの足が一瞬、向かって右にぶれる。
だが、それはフェイント。
そう見切ったキャッチャーの男はその逆、向かって左に身体を向ける。
――勝った!
カズキの見せる驚愕の表情。
それに、仄暗い愉悦を感じながら、
――無名校が調子に乗りやがって! これが、名門の、いや、高校ベイスボールの洗礼だ!
ボールを握ったミットごと、カズキを押し潰すように前に出る――いや、出よう、とした、瞬間、
「な、に!? 消えたっ!?」
まるで真夏の陽炎のように、カズキの姿が視界から消えた。
想像すらしていなかった事態に、一瞬だけ意識が空白になる。
「バカ野郎! 後ろだぁああ!!」
「は?」
ゴウダの悲鳴と衝撃は、ほぼ同時にやってきた。
「がっ!」
前のめりになった姿勢が災いした。
無防備になった足への、予想もしていなかった衝撃。
「しまっ――」
悔恨の言葉は、しかし遅すぎた。
何が起こったのかすら分からぬまま、堅牢を誇る要塞であったはずの彼の身体は前へ投げ出され、束の間の浮遊感が彼を襲う。
そして……。
「――セーフ!!」
栄祝学園の先制点を告げる主審の言葉が、球場に響き渡ったのだった。