0-1.開幕
※注意
この作品で行われている競技は野球ではなく「ベイスボール」です。
野球が好きな人は絶対に読まないでください。
「カズキ!」
うだるような熱気と、沸き立つ人の声。
それらが混然となって渦巻くその球場で、一人バッターボックスに向かう少年に、ヨシトは思わず声をかけていた。
「ヨシト?」
振り返るカズキに、ヨシトは一瞬だけ言葉に詰まり、しかしすぐに、言葉なんて要らないことに気付いた。
無言で、グッと親指を立てる。
「ははっ! なんだよ、それ!」
カズキは、本当に楽しそうに笑って、
「見てろよ、ヨシト! あいつらに、一発かましてくる!」
クルリ、クルリ、と、手の中でバットを回転させながら、軽い足取りで自らの戦場に向かって歩いていく。
「……いよいよ、だ」
ビリビリと肌に響く球場の熱を感じながら、ヨシトは両の拳をきつく握りしめた。
――夏の全国高校ベイスボール選手権、TOKYO地区予選。
ヨシトたちのアツい夏が、始まった。
ヨシトたち栄祝学園の初戦の相手は、前回の地区大会ベスト8の強豪、郷力学園。
エースの郷田力男が率いる典型的なワンマンチームだ。
彼の丸太のような剛腕から投げられるボールはまさに剛速球。
その速度は優に時速五百キロを超え、その驚異的な球威はバットごと相手打者を吹き飛ばす。
「がはははは! 今日もオレ様の三振ショーが始まるぜぇ!」
マウンドに立つのは、身長三メートルを超えるまさに超高校級の巨魁、郷田力男。
対するは、身長百五十五センチ、高校生としても小柄で細身なカズキ。
初戦勝利の絶対条件であるゴウダ攻略。
その一番手は、最初のバッターであるカズキに託された。
「がはは! 行くぜえ!」
そして、第一球。
巨体が鳴動し、その天を衝かんばかりの剛腕が、振り下ろされる。
瞬間、白い光が球場を駆けた。
――ズバォオオオオン!!
ミットが、爆音を放つ。
一瞬後、郷力学園のキャッチャーのミットには、白煙をあげる小さなボールがあった。
どよめく球場。
そしてそのどよめきは、電光掲示板にその球速が映し出された瞬間、歓声へと変わった。
「うぉおおおお! 612キロだってぇええ!」
「去年よりも100キロ以上記録伸ばしてるじゃねえか!」
「すげええ! あれが『ゴウダ・キャノン』か!」
「オレ、全然見えなかった!」
口々にささやかれ、叫ばれる賞賛の声。
それを聞き、ゴウダはにんまりとほおを緩めた。
「ふっぶぅううう、ぎんもぢいぃいいいい!! この瞬間のために生きてるぜぇえええ!!」
声援を浴び、鼻息も荒くガッツポーズを取るゴウダ。
対して……。
「にしても、きっさまは期待外れだなぁぁ?」
ゴウダが嘲笑の言葉を投げつけたのは、バッターボックス。
一投目、カズキは身動き一つしなかった。
いや、あるいは、出来なかったのか。
「どうしたぁあ? ビビって動くことすら出来なかったかぁ?」
まるで好調をアピールするように腕を回すゴウダ。
かつて、ベイスボールがまだ野球という前時代的な名称で呼ばれていた頃。
プロの選手のストレートでも、その球速はせいぜいが150キロ程度だったという。
ゴウダの球の速度は、その実に四倍。
つまりその球は、かつてのプロ選手の球の四分の一の時間でキャッチャーミットに収まる。
また、仮にバットに当てることが出来たとしても、その威力は単純計算で150キロのストレートの実に十六倍以上。
とても普通の高校生に対抗出来るようなパワーではない。
しかし、バッターボックスに立つカズキは不敵に笑った。
無言で、バットを構える。
「おいっ! あれって!」
「まさか……!」
その独特な姿勢に、ふたたび球場がどよめいた。
片手でバットをほぼ水平に持ち、反対側の手をバットの少し後ろに離す構え。
「ほぉお。ヤマト式か。考えたじゃねえか」
ヤマト式バント術。
それは、往年の技巧派プレイヤー、大和鉄平が生み出した技術だ。
単純なバントでは、パワー系ピッチャーの球を受ける時に当たり負けしてしまう可能性が高い。
だからインパクトの瞬間、バットの裏側に掌打を打ち込んで力負けを防ぐのがこのヤマト式だ。
ゴウダの圧倒的な剛速球に対応するには適した打法と言える。
しかし……。
「てめえに使いこなせんのか、あぁぁぁあん?」
通常のバントがボールを線で捉える技法なら、ヤマト式バントはボールを点で捉える技法だ。
タイミングや打点の調整が難しく、非常に高い技術が要求される。
そのため、今ではプロの世界でもほとんど使われることのなくなった廃れた技術でもあるのだ。
「もう御託は聞き飽きた。さっさと投げろよ、デカブツ」
「んだとこらぁああああ! 後悔すんぞ、てんめぇえええええ!!」
カズキの挑発に、頭に血が上ったゴウダは、力強いフォームで振りかぶり、そして、
「砕け、散れぇえええええ!」
気合と共に放たれる、自慢の時速六百キロの剛速球!
目で捉えることすら困難な球速は、直径十センチにも満たないそのボールを、砲弾へと変える。
観客席の誰もが、ふたたびキャッチャーミットに収まるボールを幻視した。
しかし、
「な、なぁにぃいいいいい!」
カズキのバットは、ゴウダの剛速球を真正面から捉えていた。
いや、むしろ構えたバットにゴウダの球が吸い込まれるように飛び込んでいったのだ。
「……読めてんだよ」
これは、超高校級の剛速球を投げるゴウダの弱点。
ゴウダの球はあまりにも強すぎ、速すぎるがゆえに、キャッチャーに多大な負担を強いる。
高校ベイスボールに許された五人のベンチプレイヤーを全て控えのキャッチャーにすることでその欠点を軽減しているが、それでも限界はある。
その威力と球速から、キャッチャーが捕球出来るのは、整った体勢でミットを動かすことなく捕球が出来る、ど真ん中のストレートのみ。
いかな剛速球であれ、コースさえ分かってしまえばバットにボールを当てるのはそう難しくはない。
「ぐ、うぅぅぅ!」
それでも時速六百キロを超える球威はカズキのバットを圧倒する。
押し負け、後ろに流れるバット。
だが、そこで、
「うぉ、おおおおお!!」
ヤマト式バント術、その真骨頂!
カズキの掌打が、バットの裏側、打点の真後ろを、正確に捉える。
片手の筋力に掌打の速度と威力が乗せられ、力の均衡が一気に傾いた。
ふわり、と前に向かって飛ぶボール。
ざわめく観客と、沸き立つベンチ。
しかし、それだけで攻略出来るほど、地区大会ベストエイトのチームのエースは甘くなかった。
「やるじゃねえか、だがなぁ!」
バットとボールが均衡している間に、マウンドにいたゴウダが走り込んでいたのだ。
巨体を揺らし、意外な俊足で詰め寄るゴウダ。
ノーバウンドの捕球こそ無理だったが、バウンドしたボールをすぐさまキャッチ、一塁側に向き直る。
「ざぁんねんだったなぁ! これで、終わりだぁあ!」
ゴウダは剛腕ピッチャー。
当然ながら、一塁への送球も恐ろしく速い。
ゴウダが勝利を確信し、会心の笑みを浮かべながら、送球のため一塁を振り向く。
しかし……。
「な、に……!?」
目の当たりにした光景に、ゴウダの笑みは凍りつき、送球するはずの自慢の剛腕も力を失う。
なぜなら、そこには決しているはずのない、いてはならないはずの人影が、
「――確かに残念だったな。これで、終わりだ」
ゴウダの台詞をなぞるようにうそぶき、悠々と一塁ベースに足をかける、カズキの姿があったのだから。