夜桜綺譚
あなたは、幼い頃の記憶を持っていますか。
人によっては、小学校時代すら殆ど無いと言いますし、また別の人に尋ねると、2歳3歳の頃の記憶を(断片的にでも)持っていると言うこともあります。
私の場合、一番古い記憶は、桜に関するものです。
あれは幼稚園に入る前でしたから、恐らく3歳位の頃でしょう。どういう理由だったのか覚えていませんが、祖父と二人で暗くなってから、母の実家の裏山にある桜を見に行ったのです。
祖父は重そうな荷物を右肩に掛け、左手はまだ幼い私の手を握っていました。
あの荷物は何だったのか……。そう、そうです。祖父は夜桜の写真を撮りに行くのに、その晩泣きやまなかった私を連れ出したのでした。
裏山といっても、せいぜい30分もかからずに頂上まで行ける様な小さな山です。その山の中腹に、それは見事な桜の木が何本かあったのです。しかし、まだ幼かった私には、その十数分の道程がとても長く感じられたものでした。また、愚図り始めた私を見て、祖父は重い荷物を持っていたにも関わらず、私を背負ってくれたのを覚えています。
その日は、満月だったのを覚えています。祖父の背中越しに、暗闇に浮かぶほんのりと淡い色をした桜の木が見えました。
その木の下に付くと、祖父は私を降ろして、重そうな荷物を解き始めました。今思うとその時、祖父はスタンドを立ててライトをセットしていたのでしょう。突然、視界が真っ白になり、それは見事な桜が目の前に表れたのです。
あの光景は、今でもしっかりと思い出す事が出来ます。幼心にも感動したのを覚えています。あの光景は幼かった私に相当な印象を与えたのでしょう。
それからの記憶は曖昧な部分が多いですね。恐らく祖父は、写真撮影に没頭していたのだと思います。祖父は、普段はとても気の利く人なのですが、一度集中すると、特に自分の趣味に集中すると、周りが見えなくなる事が多々有りました。だからだと思うのですが、気が付けば私は一人で林の中を彷徨っていたのです。
そうして、いつしか一本だけぽつんと立っている桜の木の前に、私は立っていました。
明かりも無い中、どうしてその桜に辿り着けたのかは、覚えていません。
ただ、気が付くと目の前に満開の大きな桜の木が立っていたのです。
月明かりに映えるその桜は、畏れを抱かせる程の堂々とした姿をしていました。
長い間、その木を見上げていたのを覚えています。
その時、突然、幹の陰から一人の男の人が現れました。年の頃は、丁度今の私と同じ位の男の人です。その人は、右手に懐中電灯を、左手にスコップを持っていました。
私も驚きましたが、その人も相当驚いた様子でした。
まあ、普通はそんな時間に小さい子が一人でそんな山奥に居る事がおかしいのですから、その男の人の反応は至極当然のものだったのだと思います。
最初は硬い表情だったその男の人も、私が一人で立っている事に気づくと、少しほっとした様子でした。そして、私に話しかけてきたのです。
「なあ、坊主、この桜の木は他の桜の木と違うんだぞ。何が違うか分かるか」
私は声も出せず、ただ首を横に振るだけでした。
「この桜の木はなあ、まだ真っ白なんだよ」
男の人の言葉で、私は桜の木を見上げました。確かに、先程祖父と見た桜の木と比べて、花の色が薄かったのを覚えています。そんな私を見ながら、男は続けました。
「桜の木の根本には、必ず死体が埋まって居るんだ。そして、桜はその死体から血を吸い取って初めて、薄紅色の花を咲かせるんだよ」
その時はまだ、私は男の言葉を殆ど理解できませんでした。
ただ、何か恐ろしい事を言っているのだけは分かりました。
「この桜の木はまだ白い。でも、あと2、3日もすれば、紅くなるだろうよ」
そう言って、男は桜の花へ向けて持っていた懐中電灯を向けました。明かりに照らされた桜は男の言うとおり、真っ白でした。
「何故なら、今、死体を埋めたばかりだからな」
そう言って、男はにやりと笑いました。
その笑いは、とてもとても恐ろしいものでした。私は怖くなって、泣きそうになりました。
その時、祖父が私を呼ぶ声が聞こえてきたのです。
その声を聞いて、私は泣き出しました。すぐに祖父は私を見付けてくれましたが、私は家に辿り着くまで、泣きやまなかったそうです。
長じてから、その時の事を祖父に聞きました。しかし、その場には私以外には誰も居なかったそうです。そして、私が泣いていたから、ゆっくりと見る事は出来なかったと言っていましたが、確かに私は立派な桜の木の下に立っていたそうです。
その後、祖父はあの桜を探しに何度も裏山へ行ったそうですが、結局見付けられなかったと悔しそうに言いました。あれ以来、30年近くあの木を見る事は無かったのです。そして、祖父は結局あの桜をもう一度見る事も叶わず、昨年他界してしまいました。
ところが、先日、その桜を見付けてしまったのですよ。あの男の言葉に反して、あの桜は真っ白なままでした。
そして、桜を見付けると同時に、あの時会った男の正体も分かりました。
……ええ、そうですよ。その通りです。
だって、私は死体を埋めに行って、あの桜を見付けたのですから。