羽毛の原
旅路の果てにたどり着いたのは、白い羽毛の大地だった。
足を包む羽毛があたたかい。
ゆるりと風が動くと、白い羽毛がさざと波打ち、羽根が数本ふわりと飛ぶと、乳白色の空に滲んでいった。
甘い香りが残る。
「どうだい、旅の人?」
「美しい光景ですね」
「そうだね。けれど魅せられてはいけないよ。還れなくなるからね」
私の後ろに立つ案内人の若い男は、うなずきながらも私の感動に釘を刺した。
「ここは美しくてあたたかい場所だけれど、とても寂しいところだからね。誘われて戻ってこない人も多いんだ」
若者の言葉を聞きながら、私はニ歩三歩と前に進む。
羽毛は柔らかく足裏に沈む。
その下に伝わる感触は砂か。
しゃがんで羽根の下を探ると白い砂が触れた。
すくった砂は細かく、手の平からなめらかにこぼれ、さらさらとさみだれ落ちる。
「ここはどうしてできたのですか?」
「しばらく待てばわかりますよ」
若者は小さく笑って、乳白色の空を見やった。言われた通りしばらく待っていると空の一角を若者が指差した。
「ほら」
空に一点。
「鳥だ」
乳白の空にぽつりと一羽、白い鳥が浮かんだ。
「こちらに来る」
白い鳥はだんだんと大きくなって、やがて見上げる空へ飛んでくると、私の上をぐるりと回り、ゆっくり空を低くして、ついにさわりと白い羽毛に舞い降りた。
「行ってみましょう」
若者に促され、私は鳥の降りた場所へむかう。
「もう眠りましたね」
長い首を折りたたみ、自らの羽根をまくらにして、羽毛の草はらのあたたかさに、目閉じて丸まる白い鳥は、すやすやと寝息をもらしている。
「このまま眠り続けるのです」
「このまま?」
「はい。羽毛と骨に変わるまで」
若者の微笑に私は腰を屈め、この白い鳥の眠りに触れた。血潮の流れがぬくもりとなって手に伝わる。
「まだ生きているのに」
「やがて死にます。そして白い羽毛と骨の砂の原になるのです。この大地はこうして何千年もかけてできたのです」
私は生きている羽毛をなでた。寝息はゆっくりと上下して、すこやかに背中をゆらしている。
「どんな夢を見ているのだろうか」
「よい夢なのでしょう。二度と目覚めない夢なのですから」
それはきっと美しい夢だ。この白い羽毛の大地のように。私は美しい夢に眠る鳥をうらやんだ。
「さあ、そろそろ戻りましょう」
この土地に惹かれる私の心を見透かすように、若者は声かけた。
「これ以上ここにいると、誘われますよ」
立ち上がる私に若者はうなずく。
「ここはあたたかいけれど寒い。長居すると身震いを起こします。仕事とはいえ私がここに来ることを、妻もあまり快く思ってはいないようです」
私は若者の顔をまじまじと見た。その細工には幼ない丸みが赤みを帯びて残っている。
「奥さんがいるのですか」
「もうすぐ子供も生まれます。あまり心配はかけられません」
微笑む若者はちらりと顔を横にむける。赤さす頬が横顔の影に消えた。私は祝辞を述べる。
「それは喜ばしい。私は独り身なもので、想像もできないけれど」
「くすぐったい感じです」
若者ははにかんでかりかりと少し頭をかいた。それはあたたかい仕草だったけれども、私には遠いあたたかさに思えた。
羽毛が足をぬくもりにとらえる。
これは私が旅人だからだろうか?
旅の目的も、帰る場所も忘れた旅人の漂流を、この白い羽毛が柔らかくつかむ。
それは近く、あたたかい――
「さあ、戻りましょう」
若者は語気を強めて再び言った。
「そうですね」
私は眠る鳥から羽根を一本、土産と思って失敬すると、若者の背中を追って歩いていった。
一度だけ振り返る。
鳥は羽毛に囲まれて、優しく白く眠っている。
手にする羽根を鼻先に回す。
甘い香りが残った。
ここはどこだろう?
黒く透き通った海の中を私は泳いでいる。
黒い海は呼吸する口に甘く香る。
いつからこうしているのだろう?
私の横を泳ぐのは大きな大きな白い鯨。
彼は私を横に見ながら、深く黒にもぐっていく。
そのシワ寄るまぶたに囲まれた、円い瞳に映る私の顔は、わずかに唇をほころばせ、満ち足りた表情を浮かべていた。
私は黒に沈んでいく。
上を見れば、水面の揺らぎに白い羽毛が生い茂り、白い砂が星のようにきらめいている。
私は誘われてしまったのか。
薄れた記憶をたどり返す。
案内人の若者と別れてから、私は再び羽毛の地を訪れた。そしてその柔毛に横たわって、私はあの鳥のように眠ったのだ。
あれからどれほどが経ったのだろうか。
けれど怖れはなにもない。
白い馬が背後から駆けた。
これが鳥の見る夢か。
馬は鯨に並び走ると、その首をひと触れさせて、いななきにたてがみを乱しながら、私を追い越し黒の淵へと馳せていく。
鯨がゆらりと尾びれを打って、馬を追うように身をくねらすと、上から白い魚の群れが降り過ぎた。
一枚一枚の鱗をちりばめ、白く残る魚群の軌跡は、まるで夜空に走るほうき星のよう。
散った鱗に手を伸ばすと、遮るように白いキリンの首が現れて、長いまつげに鱗をさらって去っていく。
追いかける私のまわりはいつの間にかに、白い豚の群れに囲まれて、一頭の豚が私の股に滑り込むと、私を乗せて黒の底へと連れていく。
豚の泳ぎはゆっくりと、けれどしっかりもぐっていく。
これはいつか見た夢か。
ざざっと葉虫の白い雲がうねりをなして泳いでいく。
これはいつか見る夢か。
ふわりと長尾羽根をひるがえしたのは極彩色の白い鳥。
みんな黒の底を目指しながら思い思いに泳いでいる。
私には懐かしさがあり、安息があり、よろこびがあり、時間を失った夢の世界の、たゆたいに想うのは、やすらぎに抱かれた、旅路の終わりの果ての夢。
みんな同じ場所を目指している。
前を泳ぐのは白い女の子。
豚のおしりをぽんとたたいて、私はその子のとなりへ進む。
並んだ女の子がこっちをむいた。
かつてどこかにかいま見た、憧憬にたたずむあの少女。
私がにこりと微笑みかけると、彼女もにこりと微笑んで、私がそっと手を差し出すと、彼女はぎゅっと握り返した。
引いた手はやわらかく、豚の背にふわりと座る。
豚はいよいよ深くもぐる。
やがて黒は円くなり、深い深い穴となる。
くぐる。
そこに見たのは白い骨。
くぐる。
駆ける馬骨に泳ぐ鯨骨。
くぐる。
鱗の削げた魚の骨群。
くぐる。
白肉の残片を、垂らすキリンの首の骨。
くぐる。
豚も気付けば骨になり、かたちを失いばらばらに、散骨していき気泡にとけた。
とける。
馬も鯨も魚もキリンも、みんな気泡に白くなる。
とける。
私の手は骨。
とける。
つないだ彼女の手は硬い。
とける。
私の見つめた彼女の顔は、白骨に微笑んだ。
あわ。
私の骨と彼女の骨がまじりあう。
あわ。
白い気泡が黒い海を抜けていく。
とける。
あわ。
夢の中に夢を見た。
ひかり。
赤子の泣き声がした。
「あの旅人も誘われてしまったみたいだよ」
寝台に赤子をあやす妻の手は、夫の言葉にはたと止まる。
「一人であそこにむかうのを見た人がいたそうだ」
「ねえ、あなた。やっぱりあそこにはもう行かないで欲しいわ」
若い妻は不安げに、若い夫の目をのぞく。
「そういうわけにはいかないよ。きみとこの子を養わなければならないんだから」
夫は笑い、妻と赤子に目を配る。
「それにたくさんのお金を払っても、あそこに行きたがる人は多いのだし」
「でも」
言いつのる妻の横に夫は座り、その髪を優しくなでる。
「大丈夫だよ。ぼくは大丈夫だ。大丈夫。だってぼくにはきみがいるし、これからはこの子もいるんだから。絶対に惹かれやしないさ」
泣き止まぬ、赤子のほっぺを軽くつついた夫の胸に、妻の身体は少しかしいで、その固さになじむように、寄せた頬へぬくもりが伝う。
あたたかい。
「さあさ、はやくこの子に名前をつけてあげないと。どんな名前がいいと思う?」
夫の問いかけに妻は腕のわが子をゆらし、その小さいおでこに口づける。
赤子の泣き声。
生まれたばかりの泣き声は、どこまでも強く生きている。