これは2026年の夏、私が体験した怖いお話
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宇治の茶畑は、夜になると音が消える。
虫の声も、風のざわめきも、葉のこすれる音さえも。
まるで、土地そのものが息を止めているようだった。
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私は大学院で民俗学を専攻していて、
「宇治の茶畑は夜になると無音になる」という噂を聞き、
夏のフィールドワークで宇治に滞在することになった。
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初日の夕方、茶畑の近くで地元の老人に声をかけられた。
「兄ちゃん、夜の茶畑には入ったらあかん。
あそこは……道長公の“呪詛の土”が残っとる」
老人は私の顔を見ず、茶畑の方だけを見ていた。
その目は、まるで何かを“監視”しているようだった。
「呪詛……ですか?」
私が軽く笑って返すと、老人はゆっくり首を振った。
「笑いごとやない。
昔、道摩法師が埋めた呪詛の土器がな……
晴明公が掘り返したはずやのに……
なんでか知らんけど、また宇治の茶畑に出てくるんや」
老人は私の腕を掴んだ。
骨ばった指が、異様に冷たかった。
「触ったらあかん。触ったら……“続き”が始まる」
その言い方が妙に生々しくて、私は返事ができなかった。
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◆夜の茶畑:音が死ぬ瞬間
その夜、私は録音アプリを起動しながら茶畑に入った。
風は吹いている。葉は揺れている。
なのに——音がない。
録音アプリの波形は、心電図の止まった患者のように一本の線のまま。
「……本当に無音だ」
その瞬間、足元で“コツン”と硬いものを踏んだ。
ライトを向けると、土の中から小さな土器の破片が覗いていた。
黄色い紙が、土に溶けずに残っている。
私は喉が鳴るのを感じた。
——呪詛の土器だ。
破片を拾い上げた瞬間、茶畑の沈黙が破れた。
◇◇◇
風が、突然吹き荒れた。
葉がざわざわと揺れ、スマホが耳を裂くようなノイズを吐き出した。
ザザッ……ザ……ザザ……
ノイズの奥に、かすかな声が混じった。
『……う……じ…………み……つ……け……て……』
私はスマホを落としそうになった。
そのとき——背後で、犬が吠えた。
白い犬だった。
月明かりの中で、輪郭だけが浮かび上がる。
その吠え声は、“警告”というより“怒り”に近かった。
「触ったらあかんもん触ったな」
茶畑の端に、昼間の老人が立っていた。
「その犬は、道長公を呪詛から守った白犬や。
今も茶畑を見張っとる。あんた……もう戻れんで」
老人の目は、月よりも白く濁っていた。
白犬は私を見つめ、茶畑の奥へゆっくり歩き出した。
まるで——“ついてこい”と言っているように。
私のスマホは、地面の上で震え続けていた。
『……かえ……せ……』
白犬の吠え声と、スマホの声が重なった。
茶畑の風が、急に止まった。
音が、また死んだ。
白犬は、茶畑の奥へゆっくり歩き出した。
月明かりに照らされたその姿は、犬というより“白い影”に近かった。
僕が一歩踏み出すと、白犬はぴたりと止まり、ゆっくりとこちらを振り返った。
!!その顔を見た瞬間、背筋が凍った。
犬の表情が——人間の表情だった。
怒っているわけでも、怯えているわけでもない。
ただ、“何かを訴えている目”だった。
黒目が異様に大きく、月の光を吸い込んで濡れたように光っている。
瞳孔が、ゆっくりと縦に細くなった。
僕は息を呑んだ。
白犬は口を開いた。
吠えるのではない。唸るのでもない。
喉の奥から、人間の声に近い音が漏れた。
「……う……」
犬の声ではなかった。
低く、湿った、泣き声のような音。
老人が震える声で言った。
「兄ちゃん……あれは犬やない。道長公を守っとった“白影”や。犬の形を借りとるだけや」
白犬は、僕のスマホを見た。その瞬間、スマホが震えた。
『……かえ……せ……』
白犬の喉から漏れる声と、スマホのスピーカーから流れる声が、完全に重なった。
同じ声だった。
白犬はゆっくりと口を閉じ、再び茶畑の奥へ歩き出した。
その歩き方は、犬のものではなかった。
前足と後ろ足の動きが、人間の歩き方に近い。
膝があるはずのない場所に、影が折れ曲がっている。
僕は足がすくんだ。
白犬は振り返らず、枯れた円の中心へ向かっていく。
その背中は、犬の背中ではなかった。
肩のあたりが、人間の肩のように盛り上がっていた。
老人が小さく呟いた。
「……あれは、道長公の母御の影や。呪詛に縛られて、犬の形になっとるだけや」
白犬は枯れた円の中心で止まり、こちらを見た。
その目は、完全に人の目だった。
そして——白犬は、人間の声で喋った。
『……ひとくち…………かえ……せ……』
僕は叫びそうになったが、声が出なかった。
白犬は、泣いていた。
犬の涙ではない。人間の涙だった。
月明かりの中で、その涙だけが光っていた。




