春の色
桜も散ったとある日の昼下がり、都内有数のターミナル駅から出てきたひとたちがLyftの客としてビルに続々入ってくる。
先ほど初出勤した咲賀睦月もその一人だった。
「え、コスメフロアなんですか?」
睦月は今日から全国にチェーンを展開する大型雑貨店·Lyftでバイトを始める。都内にあるLyft店舗の中でも随一の品揃えを誇る文房具フロアを希望していたが、配属されたのはコスメフロアだった。睦月はこの春大学二年生になったばかりの男だ。ダンスなどとも縁がなかったので化粧品知識もない。レジ打ちはなんとかなりそうだけど、なんだかフロア全体がキラキラして花みたいな色が多くて少し粉を感じる匂いがすると彼は思った。
レジ打ちや品出しは先輩に教わりながら覚束ない手つきながらバイト初日の新人としてはできていた。
「あのー、すみませーん」
睦月が振り返ると、彼と同い年か少し年下くらいの女性客が立っていた。
「くるっぽーやピッチタップでバズってたヴェヌスの春色ティントシリーズが欲しいんですけど、まだありますか?」
睦月にはくるっぽーがSNSであることとピッチタップが若者に人気の動画投稿アプリであることとティントが何かの化粧品っぽいことしかわからなかった。
「くるっぽー……はるいろ?」
春に具体的な色があるのかなと思うものの睦月はティントなるものがわからない。
「ヘルシーピーチかあざとチューリップかLyft限定のさくらフェアリー置いてませんか!?」
女性客はスマホで腕に色味が違うピンク色が塗られたショート動画を見せてくる。腕の角度が変わるとキラキラとピンク色が瞬いた。
どれがどれ? 睦月の混乱が深まって助けを求めるように売り場に目線を送った、その時。
「こっち」
くん、とシャツの袖の布地が張った。
睦月のシャツと女性客のカットソーの袖を摘んでどこか静かな黒猫のような雰囲気があるひとが歩き始めた。
エスカレーターからすぐのフロアの入り口に堂々と展開されている春色ティントの売り場に連れて行く。
「最近流行ってるよね」
ふ、と唇だけで笑ったそのひとは夜のような髪色をしていた。
「は、はい!どこに行っても売ってなくて……! ありがとうございます!」
一瞬見とれたらしい女性客はぺこぺこと頭を下げてタッチアップもそこそこに細長い箱を一つ手に取って去っていった。
「きみ、新人でしょ?」
「え」
「見たことないから」
「あの、さっきはありがとうございました……!」
「気にしないで」
朝でも昼でもなく夜のような静けさがあるひとだなと睦月は思った。瞼のいろが秋の三日月みたいで、自然と目が引き寄せられた。
何日かのバイト経験で睦月はコスメでは桜やチューリップのような赤やピンクっぽい色味が春色と言われやすいと学んでいた。
「このメーカーの新作のネイルオイル、今日発売のはずだけど置いてる?」
「あ、この前の夜の猫みたいなひと!」
一瞬沈黙が落ちる。
「夜職じゃないよ」
目を細めて少し意地悪げに笑うと猫っぽさが増して見えると睦月は思った。
「左の雨で左雨。ネイリスト。それで、ネイルオイルはある?」
「は、はい。こっちです」
ネイルオイルが陳列されている棚に連れていき、棚の下の引き出しからラベンダー色の液体が入った瓶を取り出す。
「今日はわかったんだ?」
「……はい、似たような色のインクを持っているので」
「インク?」
「はい、万年筆の」
「へー……たしかにこの色で文字を書いたら綺麗だろうな」
瓶を蛍光灯の光に当てて揺らしながらオイルが揺れる様を眺めている左雨は睦月に視線を向けた。
「きみは猫よりうさぎだね」
「え?」
「アマミノクロウサギみたいな、黒くて小さい種類」
左雨の感想はたぶん、髪や瞳の色とくりくりした目やどことなく可愛らしい雰囲気を言っているのだろう。睦月はそう思った。
「ばいばい、新人のうさぎくん」




