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目が覚めると、気分は最悪だった。
机に突っ伏して眠っていたらしく、枕にしていた腕が痺れている。しかし、そんなことはどうでもよかった。頭が持ち上がらないほど気持ちが悪く、ひどい目眩がする。割れるような頭痛に、ただ目を開けただけでも、脳を直接かき回されるように痛んだ。
深酒をして、何か愚痴をこぼしていたような記憶がある。あまりの苦しさに、昨夜の自分を呪った。
酔っ払って『仕事辞めて田舎に移住したいな』なんてお花畑な妄想を口にしていた記憶も蘇る。酔いが醒めて正気に返ると、途端に馬鹿げたことを言ったという気恥ずかしさが込み上げてきた。誰もいない自室で、誰にも聞かれていなかったのがせめてもの救いだ。酔っていた間は楽しかったはずの妄想も、今の体調不良の前では楽しい気分は吹き飛んでしまっている。やけ酒などという馬鹿な真似をした数時間前の自分を殴り飛ばしたいくらいだ。
体調の悪さから一歩も動きたくはないが、生理現象が盛んに決壊は近いぞと警告を発している。このまま伸びているわけにはいかない。
人生初の二日酔いという現実に打ちのめされながらも、気力を振り絞って顔を上げた。
「は……?」
目の前の光景に、思考が止まった。全く見覚えのない場所にいたからだ。
覚えている限り、私は狭いアパートの自室でやけ酒を飲んでいたはずだ。それなのに、視界にあるのは見慣れたワンルームではなく、見覚えのない重厚な書斎のような一室だった。どこかへ出かけた記憶はない。自室にいるはずなのに、これは一体どういうこと!?
窓のない広々とした室内で、左右の壁際には立派な棚がそびえ、正面には重厚な両開きの扉。床には上質な絨毯が敷かれており、突っ伏していた重厚な書きもの机も相まって、まるでどこかの重役室か立派なお屋敷の書斎といった趣だ。
今更ながら気づいたが、突っ伏していたこの書きもの机はテレビで見る大企業の社長室のそれのように立派なものだった。椅子は驚くほどフカフカで座り心地が良い。
ただ、机が大きすぎる。座っていると天板が胸の高さまでくるのだ。通常ならみぞおちからお臍あたりの高さが使いやすいはずだけれど、これでは使いにくいだろう。机に合わせて座面もかなり高く、私の足は床に届いていないから、持ち主はずいぶんと大柄な人物なのだろう。
今の私にとっては、このやけに高い机が突っ伏すのにちょうど良いけれども。
朦朧とする頭を振ると、目眩が増すばかりで、思考がなかなかはっきりしない。
しばらく茫然自失になっていたけれど、驚きよりも何よりも、解決せねばならない切羽詰まった問題に引き戻された。
そう、生理現象が警告を発しているのだ。まずは一刻も早く手洗いを探さねばならない。ここはどこで、なぜこのような場所にいるのか、そんな疑問は後回しである。
お高そうな書きもの机を筆頭とした高級な品々で調えられた、金をかけているだろう書斎か執務室で粗相をしてしまうなどという人生最大の黒歴史を刻むわけにはいかない。
万が一そんなことになっても、ダメにした調度品の弁償など無理だ。ゆえに、可及的速やかにこの問題の解決を図らねばならない。
今にも決壊しそうな膀胱を宥め、用を足せる場所を探すべく動き出した。
目眩はするし、頭痛も激しい上に、おまけに身体のだるさも酷くて、座面から降りたとたん足に力が入らずへたり込んだ。
気合を入れて踏ん張ろうにも、下腹部に力を入れるのが怖くて踏ん張れない。むしろ少し動いたことで、決壊までのカウントダウンが一気に進んだ気がした。
ヤバい。
体調不良もさることながら、膀胱が今にも決壊しそうな、迫りくる危機感に心臓のあたりがぞわぞわする。
下手に深呼吸するのも衝撃を与えて決壊しかねないので、細く細かく息をする。本気で急がねばならない。
足に力が入らず使い物にならないので、四つん這いで扉へと這い進んだ。
両開きの扉にすがりつくようにして身体を伸ばして開け、部屋から出ると、そこは打って変わって殺風景な空間で、床も壁面も、打ちっぱなしのコンクリートのような石造りの部屋だった。
部屋の横幅は先ほどの書斎の半分ほど、奥行きはおそらく同じくらいか。
向かって右側の壁際には上階へ続く石造りの階段があるが、手すりも壁もないオープンスタイルだ。日常的に使うには少し勇気が要りそうな設計である。
逆側の左側の壁際には背の低い棚が並んでおり、全体的に地下倉庫のような印象を受けた。
正面の突き当たりには、この部屋と同じく両開きの扉がある。扉は殺風景な部屋の雰囲気に不釣り合いなほど立派で重厚な作りであった。
トイレがあるとしたら上階か、それとも正面の部屋どちらだろうか。逡巡するも、階段を上がる労力を惜しみ、正面の扉を目指すことにした。
絨毯が敷かれていた書斎と違い、石造りのこちらの部屋は、這って行くには膝が痛かった。ほんの数メートルの距離なのに、体調不良のせいで体力がごっそり削られる。
どうにか扉にたどり着き、よろよろと開けて、私はその場に項垂れた。文字通りORZの体勢で、おかしいやら悔しいやらだ。徒労に心がくじけそうだ。
この部屋には、何もなかった。棚すらない、がらんどうの部屋だ。四方を壁に囲まれた行き止まりで、トイレなどあろうはずもなかった。
「……っ」
上階に行くしかない。舌打ちしながら先ほどの階段へ向かう。
階段の登り口は書斎側にあるため、ここまで這ってきたのは全くの無駄骨だった。
這っているうちに少し持ち直してきたのか、階段を上るときは壁にすがれば、立って歩けるくらいにはなっていた。
膝は震えるが、慎重によろよろとした足取りで、ナメクジのような遅さだができるだけ急いで登る。
正直今にも漏れそうで、階段を上るのが怖いなどと気にする余裕はなかった。
階段のある部屋はどことなく薄暗いので、階段の先が見えづらいのが、少し不安だった。見えている限り、階段の上には扉の類がないように見えたからだ。もしや行き止まりか……? と、内心不安で仕方がない。
今の不安を言葉にすると、閉じ込められたかという恐怖よりも、もしや間に合わず漏れちゃう!? という焦りが大きい。
体の不調で膝が笑っているのか、焦りや不安から膝が笑っているのかよくわからない感じだ。
階段は突き当りで90度右に折れており、曲がったすぐが踊り場のようになっている。
幅1メートル、長さ1.5メートルくらいだろうか。
扉らしきものはない……いや、よく見たら向かって左手側にとってのようなものがある。
取っ手に手をかけて力を籠めたら、音もなくスライドした。一見するとわからないけれど、引き戸になっていたようだ。
中は真っ暗で、恐る恐る足を踏み入れたら、パッと明かりがついた。
急に明るくなって驚き、立ち尽くした。そこは想像より狭い空間だった。
作り付けの棚が壁際に並び、広さは横幅3.5メートル、奥行き2メートルといったところだ。
まるで倉庫のような……と天井を見上げ、引き戸のある壁際にはハンガーパイプがしつらえてあるのに気付いた。倉庫というよりウォークインクローゼットのようだ。
ハンガーのある場所に入り口を作るなんてことは普通はしない。
正面には普通の扉があり、つまり今入ってきたこの引き戸は隠し扉ということではないだろうか。
引き戸を閉めてよく見ると、クローゼット側の取っ手はわかりにくいように細工がしてあって、一見すると扉に見えない作りになっていた。
隠し部屋だったのかという驚きは後回しにして、トイレ探索を急ぐ。
正面のドアを開けると、クローゼットと同じく真っ暗だったが、足を踏み入れたらパッと明かりが灯った。人感知センサー搭載とは、豪華なお家だ。
そこは洗面台のある長い廊下のようなところだった。
向かって右手に扉が2つ、正面突き当りにクローゼットと同じ扉が1つ。右手に大きな鏡のついた洗面所や腰高の棚があり、中央部分に扉がある。
一番近くにある右手側の扉を開けた。すると、探し求めていたトイレがあった。
間に合ったことに心底安堵しながら用を足して……紙がないことに気がつき愕然とした。
紙があるべき場所には何もない。補充しようにも見えるところに予備はない。あったとしても多分手は届かない。
そして、こんな状態で探し回るなんてできない。なぜならお尻をまだ拭いていないのだから。
焦りつつ周りを見回して、シャワートイレだと気づき、シャワーで洗浄して自然乾燥させることとした。時間はかかるが、汚いよりはましだ。
目眩や頭痛は変わらず、動く気力が乏しいので、ちょうど良い休憩となった。
ボーっとただ乾燥するのを待ち、先ほど見かけた洗面台で手を洗った後は、来た道をたどり書斎へ帰った。
ここが何処で、なぜここにいるのか分からないけれど、見知らぬ人の家を歩き回るよりは、隠し部屋の方がいくらか安心できる(主に人に見つからないのではという意味で)。
上る時はさほど感じなかった階段の恐怖も、膀胱への危機感を解消してスッキリした現在は、予測していた通りの恐怖心が湧き上がり、壁がない側に手すりすらないオープン空間に心臓が縮み上がった。
どうにか階段を降りきり書斎に戻ると、なんとなくホッとした。
他人の家を勝手にうろついているような後ろめたさがあったから、元の場所に戻って来られて安心してしまったのだ。
この部屋も知らない部屋ではあるけれども、ここに居たのは私の意思とは無関係(認識では)だから、見つかっても言い訳が立つ(……かも?)といった意識から、なんとなく安心感があるのだと思う。
最初に目が覚めた場所だから、現在の活動拠点と感じているのもあるかもしれない。
先ほどの椅子に腰掛け、落ち着いたところで、後回しにしていた現状把握を……するにはちょっと体調が良くない。
考えるにも頭が痛すぎる。痛くて思考がとっ散らかってまとまらないし、気持ち悪さや目眩も酷くて、身体を起こしているのも辛い。正直もう動きたくないし、何も考えたくない。というか無理だ。
仕方がないから、考えるのは少し休んでからにしよう。
椅子のリクライニングを思いきり倒して身体を預け、目を閉じた。




