第2話 — 悔いのない記憶
読者の皆さんへ
このエピソードには重いテーマが含まれています。
不快に感じる可能性がある方は、無理せず読むのを控えてください。
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このエッセイは、記憶の切り離しです。
誰にでも過去があります。
僕も例外ではなく、過去を持っています。
その過去が僕を定義するわけではないけれど、記憶は残っています。
もしかすると、僕の執筆ジャンルに影響を与えたものがあるとすれば、
それはこの記憶かもしれません。
僕の幼少期で最も印象的だった記憶は…
葬儀屋で育ったことです。
祖父は僕が生まれる前から葬儀屋を営んでいて、
僕はその中で育ちました。
4歳くらいの頃、祖母が亡くなった後、祖父は店を閉めました。
その時期の記憶はあまりありませんが、祖母の葬儀に行ったことは覚えています。
その後、別の町に引っ越して、両親が新たに葬儀屋を開きました。
そしてまた、店の中で暮らすことになりました。
僕たちは裕福ではなく、 生き延びることが目的でした。
店が前にあって、住居はその奥にありました。
その後、特に印象的なことはなく、
5歳くらいの頃、退屈していた記憶があります。
父が「そこから出るなよ、仕事中だ」と言いました。
でも、子どもって言うこと聞かないですよね。
僕は母を探しに行きました。
カーテンを開けると、
父が遺体に服を着せているところでした。
怒られて、「仕事中だって言っただろ、待ってろ」と言われました。
それからまた時間が経ち、
10歳くらいになった頃には、
死は日常の一部になっていました。
昼食を食べて、遺体安置室の廊下を通り、
父が遺体に服を着せているのを見て、
店の入り口を通ると、
故人の家族が泣いている。
そして僕は、ただ学校へ向かう。
そんな日々が数年続きました。
僕にとっては特別なことではなく、
今ではただの記憶です。
13歳の頃、母が腰を痛めてしまい、
棺を持ち上げる力がなくなりました。
その頃から、僕は仕事を手伝うようになりました。
病院へ遺体を迎えに行き、
家に運び、
清掃、止血、服を着せて、
葬儀場へ運ぶ。
その頃にはもう、
「感情」に対して少し不気味な感覚を持っていることに気づいていました。
今、20代になった僕は、
自分が家族の死に対して喪失感を感じたことがあるのか、
正直わかりません。
それから長い年月が過ぎ、
23歳くらいの頃、
家業を離れました。
うまくいっていなかったし、
それについてはまた別の話です。
何百体もの遺体に触れてきましたが、
罪悪感はありませんでした。
喪失感を感じることに意味はあるのでしょうか?
幼少期から学んだことは、
死は避けられないということ。
時間は誰にでも訪れる。
今そばにいる人の存在を大切にしてください。
死は予測できません。
今日かもしれないし、明日かもしれない。
何十年後かもしれない。
でも、必ず訪れます。
だからこそ、
自分を表現して、
感じて、
自分らしく生きてください。
その時が来たとき、
後悔のないように。
その後悔は、
あなたが残した人たちに積み重なっていきます。
今を大切に。
人生を楽しんで。
「自分らしく幸せに。」
これは、僕の記憶の中のあるテーマに関する連続した記録です。
これが、紙の裏側にいる僕です。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
この文章が、あなたの心に少しでも触れたなら——
それだけで、僕はまた書く理由を見つけられる気がします。