第3話:消えた旋律
文化祭前日、音楽室の空気は静謐を保ちながらも、どこか張り詰めていた。佐伯雛は、ピアノの前に座り、前日確認した譜面の違和感をもう一度目で追った。消えた音符、微妙にズレたテンポ、そして部屋の隅に映る微かな影。すべてが、真由の事件の「続き」を語っている気がした。
「雛……ねぇ、昨日の話、本当にあれだけなの?」
茜が小声で尋ねる。顔にはまだ不安が残っている。
「うん。でも、まだ全部は見えていない。今日は“音”を手がかりにする」
私は鍵盤に指を置き、静かに弾き始めた。ピアノの音は柔らかく、しかし確実に部屋の隅々に響き渡る。
指先が弦に触れるたび、私は音の反響を注意深く観察する。舞台袖での経験が、この微細な変化を感じ取らせてくれる。ある一瞬、低音の響きが微妙に乱れた。ピアノの構造上、手入れの行き届いたアップライトではありえない僅かな揺れだ。
「……これ、誰かが触った跡ね」
茜も私の指差す箇所を凝視する。低音部の弦の一部に、ごくわずかな擦れ痕。手袋をしていないとつくような、自然な指紋のような痕跡。だが、指紋は時間とともに消えてしまう。残るのは“音の痕跡”だけだ。
私は再び譜面に目を移す。昨日見つけた書き換え箇所。インクの濃淡、筆圧、そして音符の形。すべて、誰かが“急いで、しかし確実に”書き足した証拠だった。だが、茜の動揺とは異なり、この書き換えには明確な意図があったはずだ。
「つまり、真由さんの演奏を意図的にズラそうとした……」
茜が息を飲む。
「でも、誰のために? 舞台の演出じゃなくて、現実の誰かの……」
私は鍵盤から手を離し、譜面を広げて光にかざす。すると微妙な歪み、紙の折れ方、インクの滲み……それらがひとつの方向を示している。視覚的には小さな違和感でも、舞台経験者なら“狙い”を察することができる。
「犯人は……舞台に慣れた人間よ」
私の声に、茜はうなずく。
「でも、舞台に慣れてるだけじゃ、こんな細工はできない……。精神的な動機があるはず」
私は音の響きをもう一度聴く。消えた音符、乱れた低音、そして残響。音は目には見えないが、確実に“物語”を語る。誰が、なぜ、どの瞬間に介入したのか。
そのとき、茜が口を開いた。
「雛……私、思い出した。あの日、真由さんが倒れる直前……ちょっとだけ、怒鳴り合ったの。私も悪気はなかった。でも、言葉が強すぎた」
言葉の響きは、舞台袖でも音として残る。怒りや焦りの微かな震えが、真由の心に届いた。そして、それが体調の悪化を招いた可能性がある。だが、茜はその後、何をしていたのか――
「私は……真由さんを倒したあと、すぐに戻った。でも、舞台裏の“トリック”を思い出して、現場を整えた。扉を閉め、スマホで集合写真をスケジュール投稿した。誰も私がいないように見せるために……」
茜の言葉は、前回よりも細かく、後悔と焦りが交錯していた。だが、音の痕跡が語るのは、彼女の善意とは裏腹に、現場に残された“操作の証拠”だった。
「音は嘘をつかない……。譜面の書き換え、ピアノの痕跡、影の揺れ……すべてが、事実を教えてくれる」
私は鍵盤に指を置き、消えた旋律を頭の中で再現する。消えた音符は、現場に残された小さな警告だ。誰が、どの瞬間に手を入れたのか。
茜は静かに涙を拭った。
「私は……真由さんを守ろうとしたのに、逆に……」
私は彼女の肩に手を置き、そっと言った。
「大事なのは、事実を整理すること。舞台の小技と現実の悲劇が重なったとき、誰もが観客になれない。でも、私たちはその“痕跡”を見つけることができる」
その夜、音楽室に残るのは、微かな鍵盤の残響だけ。舞台袖から見えるのは、誰も知らない小さな真実と、人々の影。消えた旋律は、誰かの後悔を映す鏡となる――。
「次は……時間のズレを追わなきゃ」
私はピアノの蓋を閉じながら、呟いた。舞台は続く。悲劇も、そして推理も――終わりはまだ、幕を閉じていない。
――終幕