第2話:消えた音符
文化祭まで残り二日。音楽室の空気は、重くもあり、微かに緊張を孕んでいた。真由の事件は解決に向かいつつあるが、部員たちの心にはまだ不安が漂っている。私、佐伯雛は、そんな空気をそっとすり抜けながら、事件の「余白」を探していた。
「雛、今日も来てくれる?」
衣装係の茜が小さな声で呼びかける。彼女はまだ、あの日のことを整理できていない様子だった。
「もちろん。今日は真由さんの最後のチェックが目的でしょ?」
私は肩越しに笑いながら言った。茜は小さく頷き、二人で音楽室へ向かう。
部屋の中央には、アップライトピアノ。鍵盤の上には、いくつかの譜面が置かれている。真由の筆跡が踊る楽譜は、どこか落ち着かない様子を感じさせる。私はまず、前回の事件で気になった小さな違和感を確認することにした。
紙の端に残った微かな指紋、ピアノ蓋のわずかな歪み、そして前日撮った写真の角度――すべてを再確認する。
「ねぇ、雛。これ……変だと思わない?」
茜が譜面の一枚を指差した。そこには、真由が普段使わない音符が書き込まれている。明らかに違う筆跡。しかも、曲のテンポ記号まで微妙にずれている。
「誰かが、演奏の指示を書き換えた……?」
私の心に、小さな警戒が芽生える。真由が倒れたあの日、誰も室内に入れなかったはずだ。ならば、書き換えは誰の手によるものか。
「多分、部活の誰かじゃない。見て、インクの乾き方。微妙に濃淡が違う……化学的に言えば、書かれた時間がズレている可能性がある」
私は手袋を取り、慎重に紙を裏返して光に透かす。すると、わずかな波紋のような跡が見えた。まるで誰かが急いで書き足したような、そんな印象だった。
「でも、目的は?」
茜が小声でつぶやく。
「真由さんの演奏を間違わせるため……? それとも、誰かに何かを気づかせたくて?」
私は自分の言葉に首をかしげた。真由が倒れた理由と、この書き換えには、何か関連がある気がした。
そのとき、部屋の隅で微かな振動を感じた。私はすぐにスマホを取り出し、蓋に映る反射を観察する。すると、右奥に、わずかな影が揺れているのに気づいた。前回の「靴の影」と同じように、誰かの存在を示す痕跡だ。
「影……誰の?」
茜が息を飲む。私も答えられない。ただ、舞台の小技を知る私には、その影の形、角度、そして靴底の柔らかさで、おおよその人物を推測できた。衣装部の誰かではない。ホールにいた部員の一人でもない。となると――
その瞬間、私はピンときた。前回の事件で、写真のタイムスタンプを操作したのは茜ではなく、別の誰かが「偶然」を装った可能性がある。
「つまり、真由さんを倒す状況を作り出すために、誰かが舞台の小技を使った」
私の声は低く、しかし確信に満ちていた。茜はそっと頷く。まだ何も知らない部員たちの目の前で、真相の輪郭が少しずつ浮かび上がる。
私は譜面をもう一度手に取った。微妙なズレ、影の揺れ、そしてインクの濃淡。これらを線で結ぶと、一つの答えが見えてきた――だが、それはまだ、証明には不十分だった。
「次は……音だわ」
私はそっと呟く。舞台袖の空気を感じ、ピアノの鍵盤に指を置く。静寂の中で、音は何も語らずとも、すべてを知っているかのように響く。
文化祭の本番まで、あと二日。
舞台の裏側で、誰も気づかない「音の痕跡」が、私に次の手がかりを教えてくれるはずだ。
私は小さく息を吸い込み、ピアノの鍵盤に指を落とした。消えた音符の秘密を解き明かす、第二幕の始まりだった。
――終幕